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「―――ふざけるなぁッ!!」
怒号が鳴り響いた。
巨躯から発せられる地を揺らさんばかりの声量に安宿が震え、シャナイアが驚きに目を丸くして後ずさる。声が大きかったのもあるが、それ以上にジグが発したあまりの気迫に思わず距離を取ってしまった。
「……っ!? な、なにを……」
突然の大声と、なにより一瞬とはいえ人間風情に下がってしまった事実にシャナイア自身が一番驚いていた。だがジグはそんな彼女の反応すら気づかずに怒りを露わにしている。
烈火の如き怒りに体が震え、噛みしめた歯がぎしりと音を立てている。
シャナイアは言った。長く魔女と共にいる者は思考を侵され、魔女のことしか考えないようになると。
それはつまり思考を支配され、自分の意思を失うということ。
「認められるものか!!」
沸きあがる怒りにまかせて再び吼える。
また、一歩シャナイアが退いた。
認められない。
認められるはずがない。
「俺は、俺の意思で剣を振ってきた!」
激情を燃料に一歩、ジグが前に出た。
体を拘束する黒い触手が引き戻そうと動くが、止まらない。
「俺の意思で、敵を殺してきた!」
傭兵という雇われの身であるからこそ、殺す理由を他者に求めてはならない。他者の命を奪って生きるという選択は他の誰でもなく、己自身のもの。
それは遥か昔、この道を選んだ時に決めたこと。
誇りも名誉もない、卑賤で野蛮で人非人。
それでも自分の意思だけは自由だ。誰に強制されるわけでもなく、誰でもなれていつでも辞められるからこそ、そこには完全なる自由意志が存在する。
“その剣は、自らの意思で振れ”
拾われた頃から叩き込まれ、ジグが持つ唯一にして絶対の信念。
だからジグは迷わなかった。
立ちはだかる敵を斬り、稼ぐために敵を斬り、
「―――俺の意思で、ライエルを斬った!!」
そして、かつての仲間を斬った。
「……ひっ」
怒りに当てられ、怯えの混ざった息を呑んだシャナイアが反射的に魔術を行使する。それに応えて巻きついた触手が力を増した。
ミシミシと音を立てて締め付けるそれをジグが煩わしそうに一瞥すると、憤怒の表情のまま拘束する帯状のそれを掴んだ。
愛想もなく不器用で、駆け出しだった自分の面倒を見てくれた恩人。
同じ釜の飯を食い、共に剣を振るい背中を預け合った戦友。
斬ったことに後悔はない……いや、しまい。それが傭兵だ。
「それが……それが!!」
拘束を掴んだ腕に力が籠る。
かつてない怒りに呼応して体が震えている。
心臓が脈打ち、流れる血潮に突き動かされるように前へ。
「全て操られていただと!?」
あの日の夜。この手で殺したライエルの感触が甦る。
彼の返り血を浴び、その屍を跨いだのは他ならぬ自分の意思のはず。
それだけは、それだけは―――
「認められるものかぁぁああああああああ!!!!」
咆哮が轟く。
掴んだ触手に膨大な力が加わり、千切れる寸前のゴムのように引っ張られる。
ジグの力と触手はしばらく拮抗していたが、反動をつけて一気に振りほどいたことによりその均衡が崩れた。注がれた魔力強度を上回るほどの張力に、耐えかねた黒い触手がぶちぶちと異音を立てながら引き千切れていく。
「バカ、な……!?」
シャナイアはありえない現象に掠れたような声を漏らした。
全力ではなかったとはいえ、魔女の拘束を真っ向から力のみで打ち勝ったのだ。およそまともな人間の持つ力ではない。
魔力を失った触手はあっけなく靄のように消えていくと、ジグをその拘束から解放する。
だがそこまでだ。
既に消耗しきっていた体はそれ以上言うことを聞かず、怒りと気力で持たせていた底力も尽きた。
体を支える拘束が無くなったジグは重い音を立てながら前のめりに倒れると、そのまま意識を失ってしまう。
さっきまでの熱量が嘘のように消え去り、静寂が空間を満たす。
「ハ……はは、はははは! 本当に……本当に驚かせてくれるねぇ。君は」
シャナイアはそれまでの醜態を取り繕うように無理して笑い声をあげると、その行動に恥じるようにため息をついた。怯えを誤魔化すように虚勢を張るとは、なんとも情けない。
目を細め、倒れるジグを観察する。
「君は……一体何なんだい?」
強い雄を求めて見つけた個体。
シャナイアはそれまで人間を子を成すための道具や実験体程度にしか認識していなかった。
小賢しいだけの猿。半端に知恵を付けたばかりに時々で言動が都合よく変わる醜悪な生物。それが彼女の認識だ。無論個体差があることは理解しているし、中には彼女の興味を引く個体もいる。
だから彼女はこの個体を愛玩動物くらいには可愛がってやるのもいいかと、そう思っていた。今時珍しいくらいに契約というものを大切にする彼はシャナイアの興味を引いた。
雄としての強さも申し分なく、見た目ほど歳でもない。以前裸を見た時から訝しんでいたが、さっき体をまさぐった際に確信した。外見や言動で勘違いしてしまうだろうが、彼はまだ若い。
「……存外に、熱いトコロも持っているみたいだしねぇ?」
ジグの怒りを間近で見たシャナイアがわずかに身を震わせる。
凄まじい迫力だった。まさしく鬼の形相と呼ぶに相応しい。
長く生きてきた中で命の危機を感じたことは幾度もあったが、それをただの人間たった一人から感じるとは思いもしなかった。
シャナイアは倒れたジグの傍らにしゃがみ込むと、彼の首筋や背骨を触り始めた。何かを調べているかのように、体の中心を沿って一通り確かめる。
「……ふむ、やはり魔女の侵食を受けているねぇ。それもかなり根深い」
次に彼女はジグの持ち物を漁り始める。漁るとは言っても金銭を奪うためではなく、魔術に関わる道具を持っていないか調べているだけだ。
「怪しげなお薬数点と薬用軟膏に非常食、投擲用のナイフと複数の財布に分けた金貨? ……うわ、ブーツにまで仕込んでるぅ。随分用意周到だなぁ」
出会ってから短い時間しか経っていないが、彼の人となりはある程度掴めている。荷物には性格が出ると言うが、彼の場合は特にわかりやすい。
用意周到にして質実剛健。無駄なものは何一つなく、最小限の荷物で
「……んん?」
腰のポーチを漁っていたシャナイアの手が止まる。
別におかしなものが出てきたわけではない。普通の携帯食料だ。ただ味も素っ気もない栄養だけ取れればいいものとは違って、少しでも食べやすいように乾パンと小瓶にジャムが入っている。
ジグに似つかわしくない携帯食にしばし首を捻っていたが、まだ新しいそれが自分のためのものであることに気づいたシャナイアの頬が自然と緩む。
「……そういう所だよぉ? ジグ君」
にやつきながら丁寧に広げた荷物を仕舞うシャナイア。
しばらくそうして調べていたが、特別なものは何も持っていないことが分かった。だがその事実が余計にシャナイアの疑念を深くしている。
「これだけ深く侵食されていれば大分おかしくなってるはずだけど……ジグ君にその兆候は見られなかったし……あーでも彼、元から頭のネジがイカレ気味っぽいからなぁ」
倒れたジグの背中に腰かけ、本人に聞こえていないのをいいことに好き放題言っている。
何事か考えながら手慰みにジグの尻を揉んでいたが、やがて立ち上がって一人頷いた。
「うん! まあ、その辺りは後でいいや。ボクが時間をかけて染め直せばいいだけだし。さぁて、そうと決まったらジグ君を連れ帰って早速―――」
独り言の途中、突然シャナイアがしゃがんだ。いきなりの奇行だが、それを指摘する者は誰もいない。うずくまった彼女の体を闇色の膜が包み込み、ついでにジグごと完全に覆ってしまう。
それはまるで達磨落としのようだった。
二階建ての宿を達磨に見立て、一階部分を横に叩いて飛ばす。後に残るのは宙に浮く二階と建物の基礎部分のみ……そんな遊びのような出来事。
しゃがんだシャナイアの十センチ上を、長く太い何かが高速で通り過ぎる。その何かは柱や壁、家具などの一切合切を何の抵抗もなく薙ぎ払い、一階部分を消失させた。
砕ける木材の音すら置き去りにした、破壊の嵐と呼ぶべき一撃。
まるで宿の時が止まっているかのように残っていた二階部分が、遅れて落下を始める。
落ちた衝撃に耐えられなかった屋根が無残に潰れ、その際にわずかに残っていた一階部分をも完全に破壊し尽くした。
こうしてストリゴで比較的長い歴史を誇っていた大衆宿は終わりを迎える。どうでもいい場所にどうでもいい人間しか利用しないような安宿だったからこそ今日まで経営してこれたが、かつてない脅威に巻き込まれてしまったのは運が悪いとしか言いようがない。既に経営者と客全員は行方不明となっていたので権利で揉めることがなさそうなのは幸いだが。
土煙が収まると、一面瓦礫の中に黒い繭が鎮座していた。
繭と対峙するは一人の魔女。
右腕から伸びるは土の腕。身の丈を優に超える巨大なそれは、彼女の意に従って大きさと形を自在に変える。
先の一撃はこれによる薙ぎ払いであった。
「―――ああ、臭います。発情した雌の、品のない生臭さです」
涼やかな声で謡い上げ、たおやかに歩みを進める。
それは人の形をした破壊の権化。
瓦礫の中を散歩でもするように進む彼女を誰が止められようか。
「泥棒猫が、誰の許可を得て私のものに穢れた手を出す?」
蒼き双眸輝いて、濡れ羽色の髪をたなびかせる。
誰も彼もに破滅の序曲を予感させ、その実既に終曲を響かせながら。




