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夕暮れ時も過ぎ、辺りが人工の灯りで照らされる。ストリゴでは人通りが減るどころか、わずかに増え始めた時間帯。
ジグとシャナイアは宿と併設している料理屋を訪れていた。
「はふはふ」
出された鍋料理をパクついているシャナイアと、その三倍はありそうな桶のような椀で黙々とかきこむジグ。二人の前にはワインと水が、やはりサイズの違う器で置かれている。
出された料理はポトフのようなものだ。
多少粗末でも煮込んでしまえば気にならないと言わんばかりに放り込まれた屑野菜。具材の大半を占める味のしない芋。何の肉かも分からないベーコンは出汁を取るためにボソボソになるまで煮込まれている。全体的にただしょっぱくて、どこか間の抜けた味がする。
肉の臭みを取るためか大雑把に突っ込まれた香草が邪魔だが、それでもこの街では上等な部類の食事であった。
「聞いてもいいか?」
食事の途中、お代わりをしたジグが切り出す。大量のポトフをあっという間に食べつくしたジグに、宿の女将がやや引き気味に椀を回収していく。それを羨ましそうに眺めていた周囲の客が、しかしジグの背負った大剣に視線を逸らすのもすでに見慣れた光景だ。
シャナイアはワインで食事を流し込むと、頬杖をついて微笑んだ。
「なんだぁい?」
こちらの心の奥底まで見透かすような、深い視線。それと同時に、以前にも使われた魔術の匂いが立ち込める。だがあの時とは密度も強度も段違いだった。
彼女は出会った時からこうして、時折こちらに魔術を行使している。
反応しそうになる体を意識的に押さえつけ、いつもと変わらぬ態度を貫く。理由は不明だが、彼女の魔術はこちらに影響していない。おそらくジグが魔力を持っていないことに関係しているのだろう。魔術を防ぐような特別な道具を持っているわけでもなく、知識もないのに魔女の術から逃れられる方法はそれ以外に思いつかなかった。
温い水を飲み干したジグは警戒心を悟らせぬように何気なく尋ねる。
「お前は強い奴を探してどうするつもりだ?」
魔女が強い人間を探す理由は気になる。一体何に利用するつもりなのだろうか。
強さ、という点でいえば彼女は既に十分すぎるほどの力を持っているはずだ。ジグとてシアーシャの護衛という名目で仕事をしているが、彼女に武力が不足していたことはかつて一度もない。
「……その人にお願いしたいことがあるのさぁ」
幾度目かの魔術の行使。それが何の効果も齎していないことを、ジグの表情から読み取ったシャナイアが不満そうにそう口にした。
どうやら彼女の目論見通りの効果が発揮されていれば、一目見て分かる反応が出るようだ。
気を取り直したシャナイアが身を乗り出し、こちらの顔を覗き込む。爛々と輝く瞳には悪意といったものが感じられないが、悪意がないことが必ずしもこちらを害さないという根拠にはならないと、ジグは経験で知っていた。
「何を頼むのか、聞きたい?」
「……差し支えなければ」
ジグの言葉を聞いた彼女ははにかみながら微笑んだ。それは、先ほどの何かを企むような妖艶な笑みではなく、とても自然な表情だった。
その姿からは出会った頃のシアーシャを想起させる。自分のことを聞かれるのが嬉しいと、異大陸に渡る途中に船室で語っていた彼女と重なって見えた。
「―――」
ジグは自らの警戒心がわずかに緩んだのを自覚し、その驚きを隠しきれず手にした杯を砕きかけた。ミシリと音を立てた杯は形こそ保っているが、もう使い物にならないだろう。中身を飲み干していてよかった。
(まさか、今更魔術が効いたのか? ……いや、それにしては半端だ。魔女の術とはこの程度ではあるまい)
冷静に……いや、冷静を装って自己分析する。
ジグとて如何に気を付けていたとしても、あまりにも弱い相手には気を緩めてしまうことはある。しかし仮にも魔女相手に警戒心を緩めるなど、あってはならない失態だ。
相手の脅威度を低く見積もることの恐ろしさを骨の髄まで叩き込まれている……その自覚があったはずの自分が気を抜いてしまったことは、少なくない動揺を与えていた。
ジグの動揺を他所に、シャナイアはワインの杯をちびりちびりと口にする。
「それはねぇ……ボクもそろそろ、身を固めようと思って」
「……なんだって?」
焦った思考を無理やり引き戻されるような言葉に、思わず聞き返さずにはいられなかった。
身を固める? 魔女が?
「何の冗談だ?」
口にしてから、シャナイアの正体に気づいていると知らせかねない言だと気づいた。まだ冷静さを完全に取り戻せていないようだ。
「あ、ひっどいなぁ……ボクだって人並みに幸福を求めてもいいんじゃないかなぁ……まあ、確かにこんな街で幸せなんてって思うかもしれないけど」
シャナイアが口を尖らせて非難するようにこちらを見た。失言だったが、幸い別の意味に取ってくれたようだ。拗ねたふりをする彼女に頭を下げて詫びる。
「いや、すまん。言い過ぎた。だが選ぶ基準が強さというのは……まあ、弱くても困るか」
こんなご時世、こんな街だ。選ぶ相手が強いに越したことがないのは事実だ。普通ならば。
だがシャナイアは魔女だ。自分と相手の身を守ることなど容易い。
それ以前に魔女と人間が交わればどちらが産まれるのだろうか。魔女と人間の混血児になるのか、あるいは片方のみが産まれるのか。興味は尽きないが、それ以前にシャナイアが人間相手にそう言った情愛を抱けるのかが一番気になった。
生きる長さも、力も違いすぎる存在を対等の相手として捉えることができるものなのか。
人間という単一種しか存在しない場所で生まれ育ったジグには分からない。いや、きっとこの大陸の者たちでも分からないだろう。
―――シアーシャは、どうなんだ?
無意識に浮かび上がる疑問は、どこか他人事のように頭の端で響いた。
「それは―――」
シャナイアが答えようとしたとき、ジグの感覚が何かを捉えた。
金属の擦れるような音が聞こえた時には反射的に席を立ち、遅れて攻撃魔術の匂いが部屋に立ち込めた。
客席を縫うように横手から男が走り寄る。
腰の剣を抜き放った相手へジグが手にした杯を投げつけ、反射的に切り払ったところへ左前蹴りを叩き込む。
その時、吹き飛ぶ男の陰からブレて見えるほどの速度で槍が突きこまれた。
「―――っ!?」
抜いている暇はない。
瞬時にそう判断したジグは蹴りの反動を活かして右足を軸に反転。最小限の動きで相手へ背を向ける。
迫りくる凶刃に背を向けるという、ありえない凶行。槍の使い手がわずかに動揺を見せるが、穂先の動きに揺らぎはない。
無防備な背を致命の一突が襲い―――そして背の大剣に弾かれる。
背にした大剣を体の動きで相手の突きへ合わせ、受ける。言ってしまえばそれだけの事。
しかし線の攻撃ならばともかく、点の攻撃にそれを成すことの難しさ。瞬時の判断力と胆力が求められる離れ業だ。
ジグは受けた突きの勢いに逆らわず下がりながら大剣を抜き、二の槍を弾く。
菅笠で顔を隠した槍の使い手は深追いせずに唱えていた魔術を放った。生成された幾本もの氷槍が狙いをつけるようにジグの方へ向く。
近距離で氷槍が射出されるも、匂いで事前に察知していたジグは一歩左へ動いて射線から逃れた。
半身になり肩口で構えた大剣の切っ先を相手へ向けたまま、突如左へ斬りかかる。
逃げる客を装って襲い掛かろうとしていた女を手にした短剣ごと薙ぎ払い、上半身が宙に舞う。
時間差で撃ち出された追撃の氷槍を女の下半身で防ぎつつ、さらに後退。
足元を薙ぐ下段の槍をやり過ごし、続く刺突に合わせて斬り下ろし。
「っ!?」
槍と大剣が甲高い音を立ててぶつかり、威力で負けた槍が下に流され床に突き刺さる。
動きの止まった槍をすかさずジグが踏みつけるが、即座に槍を手放した相手は腰のサーベルを抜剣。鋭い抜き打ちが槍を踏むジグの右脚を狙う。
「シッ!」
咄嗟に右腕一本で斬り返した大剣とサーベルがぶつかり合い、激しい火花を散らす。
わずかな硬直も許さず、攻撃魔術の匂い。
相手はこの剣戟の中でも詠唱を続けられるほどの腕前を持っているようだ。
剣を合わせるほどの至近で放たれる、顎を狙った氷の礫。
回避不能なそれは、しかし一筋の剣閃によって砕かれる。
抜かれた二本目の大剣は氷礫を砕き、相手を両断せんと振り下ろされた。
左腕一本とはいえ、確実に殺せる威力を秘めているのは一目瞭然。
槍使いは焦ったように魔具で防御術を展開しながら全力で後ろに跳び下がる。
避けるのは間に合わぬかと思われたが、障壁でわずかに剣速の鈍った大剣は菅笠を掠めるにとどまった。
切れ目の入った菅笠がふわりと床に落ち、槍使いの顔が露わになる。