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割れた額から流れる血が顎先から滴り、ぴちょりと音を立てる。そんな音までがはっきりと聞こえる程に静まった客間は惨憺たる有様だった。中央の床は亜人型に陥没し、そこを中心として罅が広がっている。
二度に渡り叩きつけられた床にめり込むようにして倒れたバルジはピクリとも動かず、だらんと垂れた舌は生気を感じさせない。拳槌を叩き込まれた腹部はべっこりと凹んでおり、内部がどうなっているのか想像するのを躊躇わせる程度には酷い有様だ。
死んでいるのではないかと思わせる様相に亜人たちの視線が緊張を帯びる。
周囲が固唾を吞んで見守る中、ジグはおもむろに動くとバルジの胸付近を押すように軽く踏んでやる。
「げっふ! ゴホッゴホッ……」
凹んだ腹の所で詰まっていた呼吸が戻ったのか、バルジが激しくせき込んだ。しかし負ったダメージは相当なものらしく、意識はまだ戻らないようだ。それでも仲間が生きていることを確認できた亜人たちが胸を撫で下ろした。
そして仲間の無事に安心した彼らの視線が次に向かうのは必然、血に濡れた顔で睥睨する手負いの獣。
彼らは初め、人間という獲物を一方的に狩る側のつもりだった。
だがそれは大きな勘違いだ。目の前にいる牙も爪も持たない人間は無力な獲物ではなく、自分たちをも脅かしうる危険な捕食者だったのだ。
一対一などと舐めた真似のできる相手ではなく、群れ総出で狩らなくてはならない凶暴な熊。
そのことに、今更気づいた。
当の本人はそんな周囲の反応など気にした様子もない。
仲間を倒されたことに反発する者がいないかをぐるりと見まわしたジグは、最後にクロコスへ顔を向ける。額の怪我など気にも止めず腕を組むと、不満そうに指で腕を叩いた。
「客に椅子も出さんのか? この家は」
呆気にとられたように半開きの口から舌を覗かせていたクロコスは、ジグの言葉に唸るような仕草で首をもたげて低い声を絞り出す。
「聞いていたな? 客人に椅子だ。それからバルジを運べ……丁重にな」
客人と、クロコス自身が口にした。それが全てだ。
警戒するようにジグの様子を窺っていた亜人たちはその一言でスッと敵意を収める。上の判断に応えた部下たちが退避させていたソファを運び、そこへジグがどっかりと腰掛けた。クロコスの隣に座っていたシャナイアは彼へ目配せしながら儲けた金貨から二枚を机に置いて利子まできっちり返すと、ジグの隣へ移動する。
「ジグ君、お疲れ様ぁ。はい、ファイトマネー」
彼女は抱えるようにした大量の金貨を三等分し、そのうちの一山をジグに差し出す。機転を利かせて稼いだのは彼女だが、実際に動いたのはこちらだ。断る理由もないのでありがたく頂戴しておく。
「……もう一人俺に賭けた奴がいるのか?」
「そうだよぉ。抜け目ないけど、仲間を信じない薄情な狐もいたものだね?」
残る一山に意外そうな表情でジグが問えば、にたりと笑ったシャナイアがレナードを流し見る。それに釣られて全員の視線を受けることとなったレナードはあたふたとしながら逃げるようにジグの後ろへ。
「いやホラ……賭け事ってのは真剣勝負だからさ。情とかじゃなくて、儲けられる方に賭けるのが礼儀っていうかさ? 賭けるなら遊ぶな、遊ぶなら賭けるなっていうのがモットーだし、俺」
批難混じりの仲間が向ける視線をジグでカットしつつ言い訳をするレナード。
「ジグ君の背に隠れながらじゃなきゃもうちょっと評価できたんだけどねぇ……君、立ち位置はそこでいいの?」
彼は苦い顔つきでそれに答えず自分の取り分を手前に寄せた後、ジグの前に押し出した。目の前に並ぶ二山の金貨に眉を顰めたジグがレナードを見やる。
「……なんの真似だ?」
「先の不手際は謝る、ホント申し訳ない! だからこれで毛皮は勘弁してくれ!」
懐から手拭いを差し出しながら頭を下げるレナード。
そんなことかと思ったが、彼にとって毛皮とはそれだけ大事なもののようだ。こんな街に居る割には綺麗に整えられた毛並みがそれを物語っている。
「今回は見逃してやろう」
真剣に頭を下げるレナードにため息をついたジグが手を伸ばした。狐皮のコートは惜しいが、今は現金が優先だ。受け取った手拭いで顔の血を拭くと、思ったよりも出血していたようであっという間に真っ赤に染まる。ざっと拭き取り、まだ止まらない部分には鉢巻のように巻き付けておいた。
そうしている間に気絶したままのバルジが運び出され、元の位置に戻ったクロコスが組んだ手の上に顎を載せた。先ほどまでのように寄り掛かるのではなく、前のめりに両膝へ肘を載せているところにこちらへの意識が大きく変わったことが見て取れる。
「倍出す。うちに雇われるつもりないか」
腕前から察してはいたが、バルジという亜人はかなりできる部類のようだ。
突然の雇用交渉にやや面食らいつつも、シャナイアを指して首を横に振って否と返す。
「先約がある。それにここは亜人だけの組織じゃないのか?」
「人間もいる、少ないがな。この街は種族を気にするほど上品じゃないが、それでも同族の方がやり易いのは変わらん」
先ほどの裸猿という呼び名は差別意識からくるものではなく、単なる敵対者への罵倒と言うことか。
「……まあ、いい。それで何の情報を知りたい? 答えられる範囲でなら、答えよう」
クロコスも話す気になったようだ。これでやっと本題に入れる。随分と手間が増えたが、掛かった時間を考えれば上出来と言ったところだ。近道には相応の手間とリスクが必要というのはどの分野でも変わらない。
「ではまず、俺がここへ来た目的から話そうか」
ジグはハリアンで起きた魔獣事故に始まる一連の騒動を説明した。とある筋から依頼を受け、それを追う途中に敵の罠に嵌りストリゴに飛ばされてきたこと。ハリアンへ戻るための準備する間に今回の下手人と思しきカララクの情報を集めようとしていたことなどを伝える。
クロコスは黙って聞いていたが、話が一段落したところで口を開いた。
「ジグが知りたいのは、カララクがハリアンへ手を出した理由か?」
「それもある。規模と本拠地、注意しておく人物なども教えてくれ」
「……カララクに仕掛けるつもりか?」
クロコスが赤い眼を鋭く細めた。
目下この街で最も勢力を広げている組織へ攻撃してくれるなら、クロコスやファミリアにとっても歓迎だ。そんな思惑が透けて見えるのは彼の尾が期待に鎌首をもたげたからだろうか。
「それを決めるのは雇い主さ。俺の仕事は調査だけだ」
漁夫の利を得る機会にクロコス他ファミリアの面々が期待を膨らませるが、ジグの返事は素っ気ないものだ。
「調査ねぇ……」
シャナイアが含みのある口調で言いながらソファに膝立ちになると、擦り寄ってジグの額に手を伸ばす。
「これだけ荒事起こして調査と言っても説得力がないと思うよぉ?」
「……結果的に情報を得られている。問題はあるまい」
「まぁ、ね」
色々と無茶をしている自覚があるためバツが悪そうに眼を逸らすジグ。シャナイアはそれにクスリと笑い、額周辺の腫れている部分を指先で円を描くようになぞって具合を確かめると、回復術で癒し始めた。
じんわりと暖かい感覚が染み渡り、痛みが徐々に引いていく。
「……悪いな」
「いいよぉ」
心地よい感覚にそっと一息つき、近くにいるからこそそれに気づいたシャナイアが笑みを浮かべる。
マフィアたちの手前余裕そうに振舞ってはいるが、バルジの膝は結構利いていた。亜人の膂力で叩き込まれた跳び膝蹴りを頭部でまともに受けたのだから当然だ。立てない程ではないが、他の亜人が立ち向かってきたら迷わず剣を抜く程度には響いている。
まともな人間なら肋骨が砕け、肺に刺さって致命傷になるほどのボディを叩き込んだというのに平気で立ち向かってくる耐久力。丈夫なナイフほどの強度を持った爪牙に注意を払いながらの近接戦闘は想像以上に骨が折れる。彼らが無手の人間を侮るのも頷けようというもの。人間は魔術や道具を駆使してようやく亜人と並び立てているのだ。
今後、亜人と戦うときには遠慮なく武器を使おうと思案するジグであった。
「カララクで厄介なのは、何といっても冒険者だ」
忌々しそうにクロコスが口にしたのは意外な言葉だった。
「……冒険者だと? なぜ奴らがマフィアの味方をする」
冒険者は強い。魔獣という人を上回る化け物と日夜戦いを繰り広げ、その血肉を用いた特殊な武具は並の金属武器など一顧だにしない強度や能力を持つ。
バルジのような特殊な個体を除き、マフィア程度に冒険者を相手取るのは不可能と言っていい。そのバルジとて、完全装備の二等級や四等級のパーティー相手では手も足も出ないだろう。頑丈なナイフ程度では冒険者の防具は貫けず、毛皮程度ならばバターのように切り裂く武器を持っている。
マフィアの諍いに冒険者を持ってこれたのならば、カララクという組織がここまで勢力を伸ばしたというのも納得がいく。
「分からない。弱みを握っているとも、借金があるとも聞いたこともあるが……詳しいところは不明だ」
「そう、か」
事は想像以上に厄介な方向へ転がっているらしい。
そのことを悟ったジグは怪我とは別の意味で頭痛がしたように額へ手を当てようとし、治癒術を使っているシャナイアの手を額へ押し当てるのであった。




