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向かい合ったジグとバルジ。二人の戦いに家具を巻き込まぬよう他の亜人たちが素早く椅子や机を片付ける。
クロコスがずりずり移動させたソファへどっこいしょと座りなおし、部下がワインを満たしたグラスを渡す。ごく自然にその横へ腰を下ろしたシャナイアが僕にもくれとねだり、困った亜人へクロコスが面倒そうにやってやれと尾を振っていた。
「賭けなぁい?」
注がれたワイン片手にシャナイアが大男二人を指した。
「立場ある。部下とやれ」
「じゃ、お金貸してぇ? 利息は倍返しで」
「……いい度胸」
この状況でまるで動じないシャナイアに感心したクロコスが金貨を弾いて渡す。
早々に空けたグラスでそれを受け取ったシャナイアが早速周囲の亜人たちへ声をかけ、レナードに賭け金集めをさせている。亜人のほとんどがぼろい賭けだと乗り、グラスにちょっとした金貨の山が出来上がる。
当然ジグへ賭けた者はシャナイア以外にほとんどいない。
「……まったく、他人事だと思って」
「よぉ人間、お前が強えのは分かるぜ? だがよ、武器なしで俺とやるのは舐めちゃいねえか?」
その手際に呆れていると、バルジがこれ見よがしに牙と爪を出した。
鋭い爪牙は小ぶりのナイフと言っていいくらいには鋭く、無手でやり合えば明らかに人間が不利だ。
「剣ぐらい使えよ。牙も爪も、毛皮もない人間にゃそれくらいやって対等ってもんだろ?」
シャナイアへ預けた片手剣を指し、使うように促している。
バルジはなにも驕っているわけではない。亜人の身体能力を加味すればそれくらいは当然の差なのだ。
肉体強度では敵わず、打撃は毛皮で軽減される。素手で亜人へ立ち向かうのは無謀ですらある。
「……先にハッキリさせておきたい。お前を倒せば、情報を話すということでいいんだな?」
相手からの提案。
だがジグはそれに答えず、確認するようにバルジとクロコスへ問いかける。
「ハッ! 勝てる気でいやがる。いいねぇ気に入ったぜ……オヤジ!」
「約束しよう。ファミリアの面子に懸けて」
バルジが確かめるように声を上げ、クロコスが皆へ聞こえるようにグラスを掲げる。
ここまで大仰にやって見せた以上、約束を反故にすればクロコスの信用は地に落ちるだろう。交渉事での騙し裏切りはマフィアの茶飯事だが、優位な条件でのイチかゼロかの口約束すら守れない者に人はついてこない。
矛盾するようだが、破っていい約束とそうでない約束というものがある。一対一の勝負は後者に当たる。
これすらも嘘だったなら、その時はその時だ。
「それを聞いて安心した。全員を斬り殺すのは流石に骨でな」
ジグは冗談めかして言ったが、バルジは笑わない。
警戒するように重心を落とし、こちらの挙動に集中している。
「……その言葉、冗談とは取らねえぜ? 俺のヤキから逃げ切るあのバカ狐をとっ捕まえたんだ。並じゃねえのは分かる」
会話はそれきりと口を閉ざす。
アップライトで頭部を守るように構えたジグ。対して腰を落としたバルジは両手を下げて身を乗り出すようにしている。
今か今かと緊張感が高まっていく。
皆が注目し張り詰めた空気の中、クロコスが尾で床を叩く。
たん、たん、タン!
三度目の大きな音を合図と取った二人が動いた。
「シャッ!!」
バルジが床を軋ませながら前に出る。
足の爪で床を噛んだ踏み込みは、ただ脚力が強いのとは訳が違う初速を生み出す。人には出せぬ、一歩目から最速に乗る獣の動き。
狼の亜人は蹴り脚一つで矢の如く飛び、距離を食い潰す。
その動きはジグをして目を見張るものだ。
しかしこの地で速い動きなど、いくらでも見てきた。
正確にその動きを捉えたジグの左手がブレる。
緩から急。緩く作った拳を握りながら突き出す。
左脚と体を滑らせ、距離を伸ばしたジャブでバルジの鼻先を狙った。肩の動きだけではなく、腕を体の関節で固定したジャブは突っ込んでくる相手に対して十分な威力を持つ。
「ハァッ、これを捉えるか!」
しかし相手もさるもの。
速度を緩めず最小限に横へ動かした頭部。頬に当たるが流線型の頭部に芯を外され、毛皮に遮られてほとんどダメージは通らない。
優れた動体視力と顔への攻撃に怯まない実戦慣れした度胸が備わって初めてできる芸当。
「おせぇ!」
ジャブという隙の少ない牽制技を、速度と反射神経で強引に詰めたバルジ。
腰だめの両手が動いた。ジグの両脇を抉るようにクロスさせて振り上げた鈎爪。速度とバルジの膂力が加わったそれは服など肉ごと容易く切り裂くだろう。
「ッ!」
牽制を掻い潜り回避不能な距離まで迫った凶手へ、ジグは前に出る。
掬い上げるような両腕を押さえつけ、驚きに目を見張るバルジの狼鼻へ強烈なヘッドバットを叩き込んだ。
「ふっ!」
「っ!? オラァ!!」
バルジの驚きは一瞬だけ。瞬時に応じてジグの頭へ、自分の額を合わせる。
石と石を叩きつけたような、およそ頭をぶつけたとは思えない鈍い音が客間に響き渡る。
至近距離で額をぶつけあった二人が互いに笑みを浮かべる。
ジグの額からは血が滲んでいるが、バルジの毛皮に覆われた頭部は無事だ。それでも受けた衝撃は彼の方が大きい。
「……づぅう!?」
あまりの衝撃にバルジが目を白黒させる。
腕は完全に止められている。驚くべきことに、文字通り人外の膂力を持つ自分が止められている。その事実に自然とバルジは笑いがこみあげてきたのを感じた。
「やるな狼……!」
「こっちのセリフだぁ! るぁア!」
出し惜しみすれば負ける。わずかなやり取りと、腕を止める恐ろしいまでの力にそれを悟ったバルジは牙を剥き出しにして咬みつく。
獲物の喉元へ食らいつく、まさしく狼のごときに獰猛な牙。ここに至って、この大男にハンデなど不要だということを理解する。
「流石にそれは真似できん!」
ジグは頭を引くがバルジの腕を押さえなければならない都合、それだけで避けきれる距離ではない。
構わず咬みつこうとするバルジの顎。逃げ場のないはずのそれを、突如下からの衝撃が打ち抜いた。
「ぐがぁ!?」
開いた口を強引に閉じられ、脳が揺らされる。
頭突きの衝撃も引ききらぬうちに下からの一撃だ。上下からの頭部へ食らったダメージにバルジがたまらず一歩下がる。
頭を振って離れそうな意識を戻し、状況を把握しようと目を動かす。
「くっそ、今のは……!?」
相手の両手は塞がっていた。あれだけ密着している状態から何が自分の顎を打ち抜いたのか。
バルジの疑問はすぐに解消された。
目前、ジグの左脚がほぼ垂直に上へ振り上げられていた。その体勢から導き出せる答えは一つだけ。
(―――あの距離で蹴りだとぉ!? でけぇ図体してなんて柔らかい体してやがる!)
尋常ならざる柔軟性。それに加えて根の張ったような体幹が可能とした至近距離での蹴り上げに、何度目かわからない驚愕の顔を浮かべる。
「ふっ!」
「っとぉ!?」
驚いている場合ではないとばかりに、上げた足を振り下ろしての踵落とし。
尖った鼻先を掠めるそれに寒気を感じながら下がる。
避けられた踵落としを踏み込みに変えて、今度はジグが前に出る。
左のジャブをフェイントに右のストレート。
「っ、」
読まれて、受け止められた。右の拳を掴むバルジの手には凶悪な爪。
肉へ食い込み引き裂かれるよりも先に、一歩踏み込んで掴まれた右腕を曲げての肘を叩き込む。
右拳表面の肉を薄く削らせるのと引き換えに下がらせる。
血が出た右手が鋭い痛みを訴えるのにも構わずさらにラッシュ。バルジも唸りを上げてそれに応じる。
「がぁあああああ!!」
言わずもがな、爪のある亜人と人間では後者が不利だ。ジグの膂力をもってしてもバルジを一撃で仕留めることはできない。全力のフルスイングならば可能だろうが、そんなものを馬鹿正直に受けてはくれない。逆に何の防具もない人間が狼の爪を用いた貫手をもらえばかなりの痛手となる。
だからそれが成立しているのは、傍から見れば異常としか表現できないだろう。
「―――はぁっ!」
振るわれる鋭い爪をダッキングで掻い潜ったジグのガゼルパンチが直撃した。
身を屈めた状態から脚で体を押し上げるようにして打ち上げられた拳がバルジの胴を叩く。毛皮越しで軽減されてもなお止まらぬ衝撃に、バルジの巨躯が鈍い音を立ててわずかに浮かび上がった。
「ぐ、がぁっ……馬鹿な!?」
反撃の爪を振るうが、懐に入ったジグに勢いが乗る前に手首を弾かれる。
ならばと貫手を差し込むが、首を守った肩口で逸らされてしまう。多少肉は削れたが、倒すにはほど遠い。
そうして空いた防御の隙をつくようにまたもボディを打たれる。
「げぇっ!!」
横からのボディフックにたまらず声が出るバルジ。
腹部への攻撃を嫌ってガードを下げれば、矢のようなジャブで鼻先を煽られる。
「調子にぃっ!!」
しかしバルジもやられてばかりではない。
素早く動かした爪を囮に足を踏む。鼻先をジャブで叩かれるのにも構わず、ジグの腹へ膝を打ち込んで下がらせる。
「こっちの番だぁ!」
吼えたバルジが身を捻っての、胴を薙ぐ中段回し蹴り。
尾でバランスを取れるからこそのフルスイングから繰り出されるそれは、恐ろしいほどの威力を秘めている。直撃せずとも爪先が掠るだけで深手を負いかねない。
防御は崩される。ぎりぎりで避けるのも危険だと判断したジグが上体を反らして余裕をもって回避。
―――したつもりだった。
「っ!?」
脚に違和感。
視線を落とした先。空ぶったバルジの蹴り脚が途中で止まり、上体を反らして残ったジグの太腿をがっしりと掴んでいた。太い爪と長い指だからこそ成せる、足だけでの姿勢保持。
それ自体にダメージはない。強引に止めて勢いの止まった蹴りに威力はなく、爪も服へ穴を開けただけにとどまっている。
だが、
「死ぬなよ人間?」
牙を剥いて笑ったバルジの体が跳ね、灰色の体がジグの眼前一杯に広がる。
片脚で掴んだジグの太腿を足場にしたバルジの飛び膝蹴り。
「―――っ!?」
脚を足場にされては身を引いても意味がない。
咄嗟に防御した腕が弾き飛ばされ、強引に押し返した膝が顔面に直撃する。
戦況が大きく動いたであろう一撃に、見物している亜人たちから激しい歓声が上がった。
膝をまともに食らったジグの巨体が揺れる。
頭が後ろに大きく傾ぎ、それまで彼が敵へしてきたように血を撒き散らした。
「終わりだ」
有り余る跳躍力で未だ宙にいるバルジが冷徹な狩人の目で、のけぞり後ろへ倒れ行く大敵を見据えた。
このまま足を顔面に落とし、体重を掛けて圧し潰す。
鍛え上げた狼の脚力で飛び膝が決まったのだ。もはや勝負は決まったと言ってもいいが、止めを刺してこその勝負。
かつてない強敵に対する敬意を胸に、足を相手の顔へ落とした。
歓声が一層激しくなる。
クロコスが思わず腰を浮かせ、レナードが呆然と見入る。
そしてシャナイアは―――艶然と嗤っていた。
「……今日、二度目だな」
「っ!?」
しかしその人間は、倒れない。
揺れる体を下げた足でしっかりと踏みしめ、支える。
バルジは見た。
膝を受けて割れた額から大量の血が流れ出て顔を濡らしている。
滴る血。赤く染まる隙間から覗く、戦う意思を失わない灰の瞳を。
足首を、掴まれる。
宙にあり、どこにも逃げ場がないその足を。
太い腕が、がっしりと掴んだ。
「……行くぞ?」
ぎしり。
バルジは掴まれた足首から、骨が軋む音を感じた。
獣の感覚が全力で警鐘を鳴らし始めるが、あまりにも遅すぎた。
一拍の後、浮いた体が墜ちる。
半円を描くような軌道で床へ叩きつけられ、屋敷全体が揺れたのではと錯覚するほどの衝撃が奔った。
「―――ガッ!?」
バルジが頭だけでも守ろうと後ろへ回した両腕の感覚が無くなる。
視界が揺れて音すら感じられない聴覚の中、両腕が砕けた感覚だけが頭に響いていた。
床へ叩きつけられた衝撃に肺から全ての空気が吐き出され、それでも収まらずに体が打ち上がった。
大の字で鞠のように跳ねた体。
両腕を一撃で動かせないほどに破壊され、防御もままならない無防備なバルジは格好の的であった。
「…………ぁ」
朦朧とした視界。
バルジはそれでも目を逸らすまいと、意識を手放したがる自分を叱咤して相手を見据える。
ジグが両手で組んだ拳槌を大上段に振りかぶっている。
その姿はまさしく死神が鎌を構えるが如く。
恐ろしくも、誇らしい。
自分を倒した者の姿を目に焼き付けて、バルジはその一撃を受け入れた。




