閑話 穏やかな非日常
ラノベニュースオンラインアワード三冠受賞記念特別SSです。
とある休日のこと。
その日は冒険業も休みにしてあり、普段であれば外へ出るジグも度重なる戦闘で溜まった疲労を考慮して部屋で休息をとっていた。
「ふぅ……」
ベッドに腰かけ、温かい茶を飲みながら一息ついている。
それでも日課の走り込みと素振りはこなしてきたあたりに彼の性格が表れている。既に一日のサイクルとして組み込まれている行動は、多少疲れていようとやらない方が落ち着かないのだ。
「思ったよりも疲れがたまっていたんだな」
こうして休んでみるとそれを実感する。
休みを取っていなかったわけではない。しかし何かにつけてトラブルが起き、それに巻き込まれたり首を突っ込んだりとしていたので休めていたとはとても言えない。
人攫いや辻斬り誤解乱闘にマフィア騒動、教会への殴り込みその他諸々。
「……傭兵団時代よりも精力的に働いている気がする」
だからこそ、だ。
今日こそはしっかりと休むと決めた。宿から出ない、いやさ部屋すらも出ない覚悟である。
「外へ出れば何かと、耳長思春期娘や腹黒眼鏡に捕まりかねんからな……」
挙げた二人以外にも、候補を思い浮かべればいくらでもいる。
こちらにその気が無くとも向こうから厄介事を着払いで持ってくるのだ。まあ、割がいい依頼を持って来られるとつい受けてしまう自分にも問題はあるのだが。
部屋に篭るための準備も済ませてきた。走り込みの帰り時間を調節して屋台で買い込んできた袋一杯の食料。夕食の分まで用意してあり、多少冷めても味の落ちないものを選んである。
万全を期したジグが満足げに頷いて茶を継ぎ足す。
「この茶、面白い風味だが……悪くないな」
スパイスを効かせた茶は初めて飲む味だが、ほんのり甘く体の芯から暖まる。
今飲んでいるお茶もこの日のために厳選したものだ。
ジィンスゥ・ヤは薬湯などが豊富だとイサナから聞いていたので、知人の協力を得て疲労回復効果のある茶葉などを選んでもらった。
「やはりあの男、ただ者ではないな」
茶葉を選んでもらった男とは、以前訪れたジィンスゥ・ヤの飯屋で知り合った。
とある日のことだ。昼食時に出遅れ、ごった返す繁華街。腹の虫が長時間待つことに耐えられなかったジグはジィンスゥ・ヤへ走り、記憶にあった店へ駆け込んだのだ。割と本気のダッシュであった。
突然現れた余所者にジグを知らない客たちは当然反発したのだが、それを治めたのがその男だ。その後も幾度か共に食事をする中でスウェン=レイファンと名乗った。
借りた薙刀の慣らしとしてイサナと仕合ったときの立会人だったらしい。それ以上は語らなかったが、立ち居振る舞いや物腰を見るに、かなりできる。
余所者であるジグへの反感も持っていないようで、柔らかくしなる木の様な雰囲気を持っていた。
「次あそこへ行くときには手土産でも持っていくか」
そんなことを考えながら本を取り出す。
資料室で借りてきた魔獣の生態が記されているものだ。役に立つから、というよりは単純に興味の側面が強い。この資料自体も狩るのに役立つ以上の詳細な情報が載っており、あまり人気がない資料のようだ。
「鎧長猪……ハリアンに来る途中で倒した奴か。“牙が非対称なのは利き腕ならぬ利き牙があるためであり、利き牙を使って地面を掘り起こし虫や根菜を食べる”……あの巨体をそんな粗食でどうやって維持しているんだ?」
さして期待はしていなかったが、中々面白い。
茶を飲み、奮発して買った甘い炒り豆を口に放り込む。砂糖を加熱して液状化させ、そこにナッツを加えてじっくり絡ませながら炒った豆だ。
あちらではこれほどの贅沢品はそうそう手が出なかったが、この地では戦争で田畑が焼かれることも少ないので砂糖も安定供給されている。決して安価ではないが砂糖菓子の類も出回っているのだ。
「安らぐ茶に贅沢な嗜好品。我ながら見事な堕落ぶりだ」
誰が見ても文句のない休日だろう。
そうして本を読み込んでいると、隣の部屋から人が出てくる気配がした。
どうやら魔女様のお目覚めのようだ。気配はおぼつかない足取りを感じさせる足音で動く。やがてこの部屋の外で止まり、ややあってから部屋をノックする。
「ジグさぁん……居ますかー?」
まだ覚醒しきっていないのか、どこか間の抜けた声。
「開いている」
短く答えれば、扉を開けてシアーシャがふらふらと姿を現した。髪は乱れて目はしょぼついており、口は半開きで足取りはふらついている。
それでもだらしないより美しいと感じさせるのは魔女の魅力というやつだろうか。
どこかインチキ臭い彼女の魅力に口の端を釣り上げたジグ。
シアーシャは薄い青色のネグリジェを着ているだけだ。生地の薄い肌着から蠱惑的な肢体が透けて見える姿は些かどころではなく煽情的だが、これでもマシになった方なのだ。
その時のことを思い出すと何とも言えぬ心労に襲われるので割愛しよう。ただ、この地に来て初めて娼館を利用したのもその日だったとだけ伝えておこう。
誰に言うでもなく内心で物思いにふけっていると、シアーシャが鼻をスンスンさせる。
「なにかいい匂いがします。スパイシーだけど優しい感じな……?」
「珍しい茶を教えてもらってな。飲むか?」
こくこくと頷くのを横目で確認しながら予備のコップを出し、薬缶から茶を注いでやる。
覚束ない手にしっかりと握らせてベッドに腰を下ろす。足を開いて座り、さて続きでも読もうかと本を手にする。
その股の間に、シアーシャがすっぽりと収まった。
「……おい」
「はい? あ、これ美味しいです」
あまーいと機嫌良さそうに飲む魔女様。
ジグの大きな体を背もたれにして随分とリラックスしている。
あまりにも自然に“私の場所はここですけど?”みたいな顔をするものだから、ジグも思わず咎め損ねてしまった。
しばしどうやって彼女をどかすべきか考え。
まあ、いいかと。休みなので難しいことを考えるのはなしにした。
そうして落とした視線を、前に流した黒髪から覗く白いうなじが出迎える。
茶とは違う、女の甘い香りが鼻腔を優しくくすぐる。
シアーシャほどではないがジグも薄着なので、寄りかかって触れ合う肌から彼女の熱が伝わってくる。
薄いネグリジェからは細い肩口や鎖骨、その先まで見え―――そうになるのを目をきつく閉じて、頭痛を堪えるかのように眉間を揉む。
(……いや、良くはないな)
先の安易な思考放棄を叱咤しながら、手を伸ばして毛布を引き寄せる。
「……せめてこれを羽織れ。体を冷やすのは良くない」
「はーい」
シアーシャが預けていた背を少し離すと、その肩に掛けてやる。
再び寄りかかる体。だが間に毛布一枚あるだけで大分違うのだ。色々と、主に理性が。
如何に自制心の強いジグと言えど、気を抜いているときにネグリジェ一枚で魔女に寄りかかられるのは許容量を超えているのだ。
「……ふぅ」
「これなんです? 美味しそう……」
茶を飲んで心を落ち着けていると、こちらの気も知らぬシアーシャが炒り豆に気づいた。
「む……」
しまったと思った時にはもう遅く、彼女は興味津々と言った様子で甘炒り豆へ視線を注いでいる。
ケチという訳では無いが、決して安くはない嗜好品なのだ。小袋一つに十分じっくり悩んでしまうほどには。
「……ちら」
シアーシャがこちらを見上げる。わざわざ声に出している辺りこれが高い品だと気づいているのだろう。
勝手に食べないくらいの分別は彼女にもある。だがそれはそれとして食べたい、と言ったところか。
見上げた彼女の体が更に反り、胸元が見えそうになったところで観念したようにジグが折れた。
「……全部は駄目だぞ」
「わーい」
嬉しそうに甘炒り豆を摘まんでいるシアーシャを見ていると、もしや狙ってやっているんじゃないだろうなという疑念が鎌首をもたげる。
しかしこの街に来た頃の、ギルドを前にして錯乱していた彼女を思えばそれはないかと考え直す。
もしこれが演技だとしたら、色々と信じられなくなりそうだ。
ジグは残った甘炒り豆の小袋をそっと隠しながらそう思うのであった。
「あ、ジグさん見てください」
ジグが手にした魔獣資料を一緒に見たいとせがまれたので、彼女に見えるようにめくってやる。
シアーシャの指す頁を見ると、随分懐かしい魔獣のことが書かれていた。
「こいつは……あの時の蚯蚓の魔獣か」
「ここへ来た時のことを思い出しますね……潜口土竜って名前らしいですよ」
この大陸に上陸した時に出会った魔獣を二人で懐かしむ。
思えば初めて魔獣という存在を見た時に、化け物という言葉を印象付けたのもこいつだった。
「へぇー。この魔獣の生息している土はとても良質で、作物を育てるのに最適なんですって」
「ほう……糞に栄養が詰まっているのか」
「でも土の中にいるんで駆除しきるのが難しいみたいですね。偶にギルドで土の運搬依頼もあるらしいですよ?」
「土の運搬か。ひたすら土嚢を積み上げていた頃を思い出すな……」
話しながら次の頁を捲れば、これまた思い出深い魔獣が出てきた。
「幽霊鮫か」
不気味な眼と姿をした巨大な魚型魔獣。
直接戦ったわけではないが、この魔獣をきっかけにアランを始めとした冒険者たちと縁が出来ていったのだ。初めて魔術を使う魔獣と出会ったという意味でも色々と感慨深い。
「この魔獣の姿を消す魔術は未だに解明されていないんですって。人間が使う姿を隠す魔術とは全然別系統の術らしいですよ」
「ふむ……確かに姿を消す魔術は見たことがあるが、あそこまで完璧ではなかった」
あの時気づけたのも魔術の匂いと、光が不自然に屈折したのを偶々目にしただけだ。
「あれ厄介ですよね……浮かんでるから足音もしないのズルいです」
「そう言えば、あれどうやって浮いてるんだ?」
「さぁ……?」
薬缶の茶が空になり、甘炒り豆が無くなった頃には昼になっていた。
昼食はジグが買い込んでおいたものを二人で食べる。
「やはりあそこのミートパイが一番美味いな」
「ジグさんお肉好きですね。私はフィッシュサンドが最近のお気に入りです」
手当たり次第に美味そうなものを買っておいたので、シアーシャ好みの物もあったようだ。
サクサクと音を立てて食べるのを見ていると気になって来たので一つ食べてみる。
確かに美味い。今度は出来立てを食べてみようかと思わせるくらいに。
遅めの昼食を取り、しばらく二人で本を読んでいるとジグは自分がうつらうつらと船をこぎ始めたことを自覚した。
「……ジグさん、眠いんですか?」
いつまでも捲られない頁にシアーシャが見上げる。
「……あぁ、そのようだ」
言いながらも、ジグは自分自身に対する驚きを隠せなかった。
他人の前で、こうまで眠気を感じたことなどかつてないことだった。
疲れで眠さを感じることはある。不眠不休で行軍し、わずかな休憩時間に倒れ込むように眠ることなら過去にもあった。
しかし今のこの眠気はそう言った類のものではない。
暖かく安らいだ空間と、食後の満腹感に感じる、とても幸福な眠気……それ自体はおかしくはない。
ただ他人がいるときにそれを感じたことはかつてなかった。
誰かがいると眠れないとまではいわないが、熟睡は出来ない。職業柄半分、本人の気質が半分といったところだ。
それも生物としての気配からして違う、とびきりの異常を懐に抱えながら感じることになるとは思わなかった。
「……ふっ」
霧掛かったような思考のまま、あまりのおかしさに笑みがこぼれる。
シアーシャが本を脇に寄せ、頬を撫でるように手を添えた。
「……寝ますか?」
その顔は眠気のせいか深い慈愛に満ちているようにすら感じられ、普段見せない長く生きた年月を感じさせるものであった。
「あぁ……そうさせてもらおう」
ベッドに仰向けになると、シアーシャが羽織っていた毛布を掛けてくれる。
煽情的な格好が露わになるが、今のジグの思考は眠気に支配されており気にもならない。
横たわるジグに寄り添うようにした彼女は、耳元へ口を近づけて静かに、しかし不思議と頭に残る声音で囁く。
「―――おやすみなさい」