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桶を満たす湯が嵩を減らし、汚れと血で底が見えなくなった頃。
体、服、装備の順に洗い、ようやく人心地ついたジグが携帯食料を齧る。強い塩気とほのかな甘み、それら全てを覆いつくすほどの脂っこさ。硬いのに歯にこびりつくようなぐにりとした食感。
黒茶色の、ともすれば馬糞の様にすら見えるそれはペミカンと呼ばれる携帯食だ。獣の油脂と干した肉や果物などを砕いて粉状にしたものを混ぜて固めたもので、あちらの大陸では一般的な携帯食である。
油脂で煮込み固めることで密閉された瓶詰状態になるため長期保存可能であり、脂による栄養補給にも適している。
こちらの大陸にも存在しているのには驚いたが、保存という点で突き詰めていくと似たような結論に行きつくのだろう。こちらでは魔獣の油脂や干し肉を使用するようで、ジグの知るものとは味が少し違う。意外にも臭みは少なく、その代わりに味の癖が増しているように感じる。
まあ多少臭みがなかろうと不味いのには変わらないが、元より保存食に味など求めるものではないのだ。
「とりあえず、金を何とかせんとな」
濃い味付けに冷めてぎっとりとした脂を舌で歯からこそいで独り言ちる。
ジグは文字通り、着の身着のまま飛ばされてきた。
携帯食料も最低限しか持っておらず、換金用の宝石も今は持ち合わせていない。刃蜂騒動の際にカークが弾んでくれた報酬があるので金がない訳ではないのだが、仕事を優先して後回しにしてしまっていた。
当然着替えなどあるわけもない。
硬く絞った肌着だけを身に着けて服は干しておく。濡れた肌着だけでは色々と心許ないが仕方がない。
シャナイアに頼んで魔術で乾かそうにも、炎を維持するのは時間が掛かるし焚火をするわけにもいかない。今は服を乾かすよりも睡眠を優先したい。
幸い今日はそこまで冷え込んでいないので、一晩程度ならば支障をきたすことはないだろう。
シャナイアも体を拭き終えたはずだが、どういう訳か裸のままだ。
「……」
ベッドに腰かけたまま何かもの言いたげにジト目を向けてきているが、その意図は理解できない。
裸を見られることが不満ならば着るだろうし、見られることが気にならないのならばこのような視線を向ける理由もないはず。
「ふむ」
ジグは早々に理解するのを諦めた。女心も分からなければ、見た目通りの年齢でない上に種族すら違う魔女の思考など理解できるはずもない。
魔女は全裸が好きなのだろうと適当に決めつけておく。
思えばシアーシャに肌着を着るように説得した時も渋られた上に、極力布の薄いものを選んでいた。束縛を嫌う種族なのだろうか?
「それで、俺に頼みたいこととはなんだ?」
床にどっかりと腰を下ろしたジグが壁に寄りかかるようにして見上げる。話がこじれると面倒なので、視線は意識して彼女の目へ。
どこかしら不満そうにしていた彼女だったが、ややあってから目を窓の外に向けて口を開いた。
「ジグ君には……僕の人探しを手伝って欲しいんだよ」
「人探しとは、また面倒なことを……特徴は?」
あまり得意分野ではない依頼にジグがわずかに眉を顰める。個人の腕や知識が必要ない訳ではないが、基本的に人探しで必要なのは頭数だ。人脈や財力などを活かしても結局は人手を頼ることになるのは変わらない。ストリゴでのジグにはどちらも圧倒的に不足しているものだ。
シャナイアは口の端を少しだけ吊り上げてポツリと呟いた。
「強い人」
返って来たのはそれだけで、待てどもそれ以上の情報はない。
思わず鼻で笑ってしまうほど雑な情報にため息をついた。
「……曖昧過ぎる。悪いがそこまで目途の立たない人探しに付き合えるほど暇ではない」
「分かっているさぁ……四日だけ。ジグ君が街を出るための準備が整うまでの四日間だけ、人探しに付き合ってくれればいい。どうだぁい?」
親指を曲げた掌を示した彼女が微笑み、ジグは顎に手を当て言葉の裏を考える。
彼女が何を企んでいるかは知らないが、こちらを騙すための嘘にしては雑過ぎるような気もする。勘だが、強い人間を探しているというのは本当かもしれない。
四日という期限に関しては何とも言い難い。ほぼ裸一貫のジグが一人でこの街を出る準備を終えるのにかかる時間も大体そのくらいは必要だ。
(こちらでも備えつつ、依頼に乗ってやるのが効率的か)
約束通り手配してくれていればそれでよし。仮に騙されていたとしても多少の遅れ程度で済む。
「……片手間で構わないというのなら、受けよう」
「契約成立だねぇ」
どこか粘着質な笑みを浮かべたシャナイアが言葉と共に立ち上がる。
「じゃ、明日からよろしく」
小振りな尻を揺らして襤褸を纏うと部屋の端に座り込み、寝る態勢を取った。スラムで過ごしているだけあって、容姿にそぐわぬ慣れた仕草だ。日々を路上で過ごす彼女にとっては床で寝ることには何の躊躇いもないのだろう。
「……」
ジグは首を動かして粗末なベッドと、部屋の隅で襤褸に身を包んで丸くなる少女を交互に見る。
ベッドは小さいものが一つだけ。金もこちらが出した。
相手が依頼主とはいえ、道理で言えば自分が寝るのが正しい。正しいのだが……
ジグは億劫そうに立ち上がると、何事かと薄目を開けるシャナイアの前まで移動する。
「おい、代われ」
「……え?」
察しが悪いと言うのは酷だろう。この街では彼女の反応が正しい。
ぱちくりと目を開けて首を傾げる彼女の襟首を掴むと、ひょいと持ち上げてベッドへ移動。ろくに抵抗もせずにされるがままのシャナイアを降ろすと、自分は彼女がいた部屋の隅に腰を下ろす。
「えっとぉ……」
いいの? とばかりに戸惑いながらこちらを見るシャナイアにひらひらと手を振る。
「俺には小さい」
確かにここのベッドは平均的な成人男性が何とか収まるといった程度の大きさしかない。ジグが寝れば足が飛び出てしまうだろう。それでも身を丸めて寝れば入らないことはないし、床よりはマシではある。
合理的ではなく、傭兵として正しい行動でもない。
―――だが、と。
ジグは珍しく感慨にふけるように目を細めた。
“正しさと納得は別腹だ”
それはジグが傭兵として初陣の時のことだ。
敵軍を追撃するべく深夜での行軍中。腹を空かせたジグに、兵站部隊からくすねてきたベーコンを手に先輩傭兵であるライエルはそう嘯いた。
二人で隠れて貪ったあの味は、今でも忘れられない。
「甘いものが食べたくなったのさ」
「……んん??」
まともに説明する気のない言葉にシャナイアは意味不明といった感じで眉間に皺を寄せていた。
ジグはそれ以上何も言わず、比較的汚れが少なかったのであえて洗わなかった外套を纏い、体を休めるべく目を閉じる。
強敵との戦いや負傷、目まぐるしく変わる状況で溜まっていた疲労は眠気となって襲い来る。
他人がいるので熟睡とまではいかないが、休息を必要としていた体はすぐに意識を暗闇へと落としていった。
微睡みの中でベーコンの味と、帳簿が合わずにバレて分隊長にもらった拳骨の痛みを思い出していた。
目覚めたのはベッドの軋む音と、ほんのわずかな刺激臭だ。
意識を瞬時に覚醒させ、いつでも動けるように曲げた脚にバネを溜める。物音ひとつ立てずに戦闘態勢へ移ったジグが薄目を開けて様子を窺うと、シャナイアが干してあるジグの服を触っていた。
衣嚢に手を突っ込んでいたので物取りかとも思ったが、股座や脇の下などにも手を当てている。しばしそうしていたシャナイアは掌から小さな炎を出すと、衣服を焦がさぬように近づけている。
どうやら生乾きの部分を乾かしてくれていたようだ。戦闘用の分厚い生地は一晩干した程度では乾ききるものではないのでとても助かる。
欠伸をかみ殺したジグが音もなく立ち上がり、以前にカークを驚かせてしまったことを思い出したのでバサリと外套を払う。
音に気づいたシャナイアが振り返ると、紫紺の髪が靡いて金の瞳が向けられた。
「やぁジグ君。もう少しで服が乾くよ」
「ああ、助かる」
「なぁに、宿代とベッドのお礼さ」
彼女に礼を伝えると、ただ待っているのも手持無沙汰なので日課の柔軟を始める。
本当なら走っておきたかったが流石にこの状況なので自重する。やらなければならないことは多い上に、この街ではただ走っているだけでも難癖をつけられかねない。
「うわぁ……それ痛くないのかい?」
垂直に上げた脚を壁に押し当てて伸ばしていると、シャナイアが感心しているのか呆れているのか分からない声で言った。
ジグは呼吸を止めぬまま、腹から息を吐き出すように答えた。
「慣れる……が、初めの頃は死ぬほど痛かった。俺の居た傭兵団では、見習いが股割りで泣き叫ぶのが風物詩だったよ」
背中を押す先輩傭兵たちも、かつて自分たちも通って来た道だからと容赦がない。半べそかいた少年たちが揃って内股でへこへこ歩いているのは色々な意味で悲惨だ。
当時を思い出したジグの表情も自然、苦々しくなるというもの。
「辛くないのかい?」
「……悶え苦しむ。嬉々として背を押す教官の頭を何度叩き割ろうと思ったことか」
実行に移した奴も何人かいたが、残らず叩き伏せられて追加の海老反りを課せられていた。
待っていましたとばかりに笑顔だったあたり、そこまで織り込み済み……というより経験済みだったのだろう。
「しかしそれに助けられたことも事実でな。非常に遺憾だが、感謝は……いや、やはり一発殴っておくべきだったか……?」
脚を入れ替えて伸ばしながらジグが真剣な顔つきになる。柔軟の苦しみとは走り込みや素振りとはまた違ったものがあり、我慢強い彼をしても辛いものだったのだ。
「あははぁ。君も結構変わり者だねぇ」
「何故か……よく言われる」




