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月明かりに照らされた大きな影と小さな影。
大きさに随分差がある二つの影はスラムの路地を進んでいる。小さな影が歩幅の差を埋めるかのように駆け、その後を大きな影がゆったりと追いかける。
「こっちだよぉ」
小走りで前を行くシャナイアは時折振り返りながらジグが追ってきているのを確認し、距離が詰まるとまた動き出す。
暗闇の中でも金の瞳だけは不思議と目に付くので見失うことはない。
猫のように軽やかに足取りは音をほとんど立てず、ジグの踏みしめる重い足音だけが静かな夜道に響いている。
迷いのない足取りは確かにこのスラムに長い間過ごしていることを感じさせるものだが、彼女の容姿を考えるとやはり場違いだという感想を抱かずにはいられなかった。
そうして彼女について行くことしばらく。建物もまともな形をした物が散見され、徐々に周囲からも人気を感じるようになってきた。
そして狭い路地を先に抜けたシャナイアはくるりと振り返ると、にたりと笑って歓迎の言葉を口にする。
「ようこそストリゴへ。最高にクソッたれで、最低なほど自由な街さぁ」
そこは一言で表すならば混沌であった。
小汚い浮浪者から上等な服を着て護衛を何人も引き連れた者まで、全てが混在している。
所狭しと家屋や屋台が立ち並び、こんな時間だというのに人通りも多い。
魔具の明かりが照らし出すのは獲物を探すギラついた目の悪党か、恍惚の表情を浮かべる薬物中毒者たちだ。
過去最も酷い街の紹介に目を丸くしたジグだが、肩を竦めるとシャナイアの襟を掴んで引き寄せる。
「おぉ?」
「邪魔だぁどけこらガキィ!!」
猫のように摘ままれた彼女の頭があった場所を、怒声と共に拳が空ぶる。
見ればそこにはガラの悪そうなゴロツキが二人いる。痩身と肥満の対照的な二人組だった。
太った方は空ぶった拳に体を泳がせており、痩せた方はにやつきながら様子を見ている。
「……確かに、酷い街だな」
突然飛び出してきたシャナイアにも非はあるが、少女といえる見た目の彼女を即断で殴り飛ばそうと動ける辺りにこの街の民度がよく分かる。
あまりにも迷いが無いので酒か薬でも入っているのかと思ったが、顔は赤みを帯びておらず目や足取りもしっかりしているので素面だろう。つまり彼らにとって女子供の頭をフルスイングで殴り飛ばすことなど、何一つ珍しいことではない日常の行動なのだ。
「はっはっは。だろぅ?」
ジグに襟首を掴まれたまま、なぜか自慢げにしているシャナイアを降ろしてやる。
そこへ体勢を立て直したゴロツキが食ってかかる。
「おいコラ、そこのデカいの! てめえの女のせいで転びそうになっちまったじゃねえか。どう詫びてくれるんだぁ? ええおい!」
太った男はジグの体格を見ても怯みもせず、恫喝するように声を張り上げる。
痩せた方は様子を見るように黙ったままだが、その手が腰に伸びている辺り意見は同じのようだ。
ジグはため息をつくと、無言で太った方に近づいた。
月明かりに照らされたジグの顔が彼らの視界に映る。静かに向けられる鋭い眼が男たちを捉えた。
「う、ぁ……?」
その目を向けられた肥満男が声をのどに詰まらせ、潰れたカエルの様な音を漏らす。
激しくもなく、冷たくもないただの一瞥だ。だがそこに籠められた意思は雄弁に語っていた。
「失せろ」
「いやぁ、大した眼力だねぇ」
こちらを振り返りながら、ほうほうの体で走り去る二人組を見送るシャナイアが感心したように頷く。
一日中動き続けて色々と疲れたジグの苛立ちを籠めた視線は無事に男たちを退散させ、無駄に体力を消耗することは避けられた。
彼らが見た目ほど無謀でなくてよかった。少なくとも力量差を感じ取れるくらいには出来るゴロツキだったようだ。
「宿にはまだ掛かるのか?」
「もうすぐそこさ」
そう言って歩き出す彼女について行くと、ほどなくして一軒のボロ宿の前で立ち止まる。
ボロとは言っても作り自体は意外としっかりしており、屋根と壁さえあればいいとすら考えていたジグにとってはいい意味で予想外だ。
シャナイアに続いて中に入ると、やる気なさそうにしている老婆が一人いるだけだ。
老婆は薄暗い受付で杯を傾けて酒を呷っている。こちらには気づいているはずだが、歓迎の言葉などを掛けるつもりはないようだ。
「相変わらず愛想の無いバァさんだ」
既知なのかシャナイアは無視されるのにも構わず声を掛けると、老婆は舌打ちして酒で焼けた声を絞り出す。
「……金のない奴に用はないよ」
襤褸を纏っただけの彼女を見て吐き捨てる。金を持っていないスラムの住人に掛ける情けなどないと言わんばかりの態度だ。
「金ならあるさぁ……彼が」
言ってジグを指し、それを追って老婆がねめつける。
金はあるのかと胡乱気な視線で問う彼女の前へ、銀貨を三枚に置いてみせる。
「二人、空いてるか?」
「……部屋は一つだけだ。二階のつきあたり。飯は自分で何とかしな」
老婆はそれだけ言うとひったくる様に銀貨を奪う。年老いているとは思えない素早い動きだ。
しわくちゃの顔で穴が開くほどに見つめて偽物でないかを確認すると、銀貨を肴に再び酒を呷り始める。
「鍵は?」
「ぐぇっぷ」
“あるわけねえだろそんなもん”とばかりにげっぷで返されれば、肩を竦めるしかない。
シャナイアに先に行くよう伝えると、階段を上る彼女を見送る。
「……なんだい?」
不機嫌そうに、しかし多少は聞く姿勢を見せる老婆。
銀貨三枚はこのボロ宿には過剰な金額だ。その意味を彼女も理解しているのだろう。
「手拭いと湯を二つ頼む。それと、今勢力の強いマフィアはどこだ?」
「……あたしゃただのババぁだよ」
「知っている範囲で構わない」
老婆は桶と魔具を出し、湯を注ぎながら上を向いて考える。
「……カララクとアグリエーシャ」
「アグリエーシャはコケたと聞いているが?」
「それですぐ瓦解するようなら、一時とはいえストリゴを支配できるもんかい。大分弱ったとはいえ、まだまだ無視できるほどじゃないよ」
魔具の質が悪いのか老婆の魔力が少ないのか、湯が溜まる速度はあまり早くない。
しばし黙ってそれを待っていると、老婆が空いた手で杯を呷って横目でジグを見た。
「……あんたこの街に最近来たばかりだろう?」
「分かるか?」
「さっきまでは分からなかったさ。普段ならお上りさんにゃすぐ気づくんだけどねぇ」
耄碌したかねとしゃがれた声で笑う老婆。
何と返したものかと黙っていると、彼女は突然笑みを引っ込めた。声を潜め、まるで忌まわしい言い伝えを口にするかのように吐き出す。
「……あの娘に関わるのは止めときな。見た目に騙されると痛い目を見るよ」
重く、沈むような口調で言われる言葉。
ただ者ではないのか、はたまた年の功か。シャナイアが普通でないことを見抜いている老婆は警告してくれているようだ。
老婆はそれ以上何も言わず、湯の溜まった桶を顎でしゃくる。
ジグは縁に手拭いの掛けられた桶を二つ持つと、彼女に背を向けて部屋に向かう。
「承知の上だ」
ただ一言だけ、そう口にしながら。
意図したわけではない。桶で両手が塞がっていたせいもある。
だから鍵もなく、回すのではなく下ろすだけのドアノブを肘で開けて部屋に入ったジグがそれを見たのは不可抗力だろう。
胸にサラシを巻きなおそうとしていたのだろうか。
真っ白な、雪の様な肌だった。
起伏に富んでいるとは言えず女性的な魅力というにはまだ青い。
成熟していないからこそ持つ美しさと言うべきか。華奢ながら均整の取れた体と緩やかな弧を描く腰回りや胸は背筋が粟立つようなゾッとした美しさを秘めており、侵してはならぬ背徳感のようなものすら覚える。
その無垢な体を侵して、汚したい。
小生意気な顔を乱して、屈服させたい。
男の征服欲と支配欲を存分にくすぐる体つきは美しさの種類こそ違えど、まさしく男を虜にする魅惑の肢体。
「……あ、ヤバい」
ジグに気づいたシャナイアがぽつりと口にする。
迂闊な自分の失敗を悟り、襲い掛かってくるであろう欲望に備えようと腰を落とす。
「まったく、お前も裸族か」
「……うん?」
しかしまたしても、予想していた反応はなく。
呆れたような声と共に投げ渡された手拭いを手に彼を見れば、湯気を上げる桶が目の前に置かれる。
温かい湯で満たされた桶はゆらゆらと揺れながら月と見紛うような金の瞳を映している。
疑問のままに横へ視線をずらせば、服を脱いだジグが体の汚れを拭いていた。
鋼の様に鍛え上げた肉体はシャナイアとは正反対の、質と実を兼ね備えた機能美を持っている。
陶器の様に傷の無い彼女とは違ってあちこち傷だらけだが、そこには無駄を削ぎ落し極限まで研がれた刀剣の如き魅力があった。
真新しい腕の傷を拭い、塞ぎきっていない部分から一筋の血が流れた。
筋肉の溝を紅い液体がゆっくりと伝い、粒となって肘から滴る様子をシャナイアの眼が追う。
「ぁ……へ、部屋に入る時くらいはノックをだねぇ……!」
無意識にジグの動作を目で追っていたことに気づいたシャナイアがハッと我に返る。
「すまんな。手が塞がっていた」
誤魔化すように上げた声にジグが素っ気なく答えた。
そこにシャナイアの裸体を見たことへの反応はなく、自らの体が持つ魅力を自覚している彼女にとって非常に面白くない。
その気になられても困るが、何の反応もないとはどういう了見か。
自分勝手な憤りを覚えたシャナイアはそれを顔に出さず、笑みを作ってジグへ近づく。
「ねぇジグ君。僕の裸、見たよね?」
「……俺のも見せているしチャラにならんか?」
体を拭い終えたジグが血で汚れた服や装備をじゃぶじゃぶと洗いながら、適当に思い浮かんだ言葉を口に出す。口にしてから自分で“今のは流石にないな”と苦笑する。
「……」
しかしシャナイアは迂闊にも先ほど目を奪われてしまったことを思い出して言葉が出ない。
「……すまん冗談だ。飯を奢るから勘弁してくれ」
黙ってしまった彼女を怒らせてしまったかと勘違いしたジグが、一人で納得して謝罪する。
月夜の中、ジグが洗濯する水音だけがじゃぶじゃぶと響いていた。




