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「……む」
話の途中、不意にジグがキョロキョロと辺りを見回し始めた。
「どうしたねジグ君?」
突然不審な動きをするジグに首を傾げるシャナイア。彼の様子から敵かと周囲を窺ってみるが、何も感じられない。
「いや……少し寒気がな」
わずかに身を震わせるジグ。体の大きな彼には似合わない仕草だったが、それほどの何かを感じたのだろう。
「ふぅむ、血が冷えてきたかな? いずれにしろその恰好は何とかした方がいいねぇ。血塗れなのを一々咎めるような街じゃないが、手負いだと勘違いされると身ぐるみ剥ごうとする連中が寄ってくるよぉ」
普通の街で血塗れのまま歩いていれば騒ぎになり憲兵が飛んでくるが、この街ではいい獲物として映る様だ。まさしく弱肉強食である。
「それはまた、中々の治安の良さじゃないか」
苦笑しながらジグが立ち上がる。
聞けることも聞けた。今は容易に街の外へ出れる状況ではないらしいが、だからと言って座して待つわけにもいかない。とりあえず行動するべきだ。
「……ねぇ、ジグ君」
さしあたっては今日の宿でも探そうかと考えていると、シャナイアが声をかけてきた。
彼女は独特の光彩をした金の瞳を輝かせて、一歩ジグへ距離を詰める。
「……なんだ?」
わずかに硬いジグの声。その鼻が一度、小さく動いたのをシャナイアは気づいただろうか?
「これは提案なんだけどぉ……君がストリゴを出てハリアンに戻るの、ボクが手を貸してあげようか?」
下から見上げるように、覗き込むように。ジグの灰の瞳を、彼女の金の瞳が映し出す。
妖しく、美しく。揺れる瞳が警戒心を溶かすように。
「何も心配することはないよ。君を手伝いたいのさぁ……」
生まれながらに魔性を帯びた金の瞳と桜色の唇は、抗いがたい力を持った魅了の言葉を紡ぎだす。
シャナイアのとろけるような囁きがジグの耳朶をくすぐった。
聴覚から、視覚から。ゆっくりと思考を侵すべく、ジグの頭へ入り込む。
その目を、声を。
余すことなく受けたジグの口が開かれる。
「―――それで?」
彼女の言葉が滴る蜜なら、彼のそれはまるで大樹だ。
泰然にして自若。何の面白みもなく、ゆえに決して揺るがぬ根を張った古木。
その傭兵は知っている。人ならざる力と魔性を生まれ持ち、深い瞳をしたその存在を。
数々の経験という根に支えられたジグという個は、生まれながら程度の魔性で崩せるほど脆くはない。
ジグは態度に出さぬように努めながら、さり気ない仕草で重心を動かす。
戦うためではない。逃げるためだ。
(やはり、魔女か)
見た所身体能力に優れているわけでもないのに、こちらの索敵を上回るほどの隠密技術。指弾を防いだ際に一瞬だけ見せたあの影のような魔術。
そして何より、あの深い瞳。
見たものを引きずり込むかのような、どこまでも深く昏い瞳。
実のところ、一目見た時からもしやとは思っていた。
だがこちらに来てから幾度か書物などを調べても、それらしい記述や存在を聞いたことがなかったので確信が持てなかった。
しかし先ほどの眼で、理屈ではなく本能で理解した。
シャナイア―――彼女は魔女だ。
「……あれぇ?」
変わらぬ様子で返すジグにシャナイアは首を傾げる。
瞬きもせずジグの目を見つめたまま、焦点をずらさず首だけ傾ける姿はフクロウか何かのようだ。何事かを口元で呟き、再び先ほどと同じ魔術の匂いがする。
それでもジグには通じず、また首を傾げる。
感知した魔術の匂いは初めて嗅ぐものだ。状況から察するに、直接的な攻撃ではなく相手の精神に作用するものの可能性が高い。
日頃一緒にいるシアーシャのおかげで魔女に慣れているせいだろうか。理由は不明だが自分には効果がなかったようだ。
魔術の気配に反射で攻撃しなくてよかったと胸をなでおろす。
魔女は見た目から戦闘能力や戦い方を判断できないのもあるが、そもそも人間が正面から魔女と戦うのが土台無茶なのだ。
シアーシャを倒した時は討伐隊が体を張って事前に攻撃方法を教えてくれたのに加え、様々な好条件が重なった綱渡りでの結果に過ぎない。もう一度同じことができるかは怪しい。
未知の魔女と、しかも丸腰で戦闘など冗談ではない。死にに行くようなものだ。
「……何を不思議そうにしている。手伝う対価は何だと聞いている。まさかこの街に居ながら善意などとは言うまい?」
内心の動揺をおくびにも出さず、シャナイアの出方を窺う。
この地で魔女がどのように扱われているかは知らないが、あまり大っぴらにしているようにも見えない。こちらが気付いていると知られた時に相手が何をしてくるか分からない以上、素知らぬふりで通すしかない。
「……あ、ああ。もちろんだとも。えー、っとぉ……君には手伝ってもらいたいことがある。それが終わったらボクがこの街から出る準備を整えてあげようじゃないかぁ!」
こちらが魔術に掛からなかったのが予想外だったのか、取り繕うように条件を出すシャナイア。
「その頼み事とは?」
その場凌ぎで口にしたのか、彼女はバツが悪そうに視線を逸らす。誤魔化しや隠し事が上手くないのは魔術頼りにしてきた弊害だろうか。
「……あー、後で話すから、それから返事をくれればいいよぉ。もうこんな時間だし、早めに宿をとった方がいいんじゃないかい? ジグ君が夜盗やゴロツキに後れを取るとは思えないけど、向こうはそんなことお構いなしに来るからねぇ……浮浪者でもない人間が、路上でまともに眠れると思わないでねぇ?」
誤魔化すように笑う彼女にそれもそうかと、ジグが頷く。
いくら相手が弱かろうと、対処するには起きなければならない。睡眠はとれるに越したことはないのだ。
「こっちさ。安宿でよければ案内するよぉ」
そう言って踵を返したシャナイアの体を改めて観察する。
恰好は襤褸でどこかしら薄汚れているのに肌は白く、スラムの人間によく見られる皮膚病の跡などもない。紫紺の髪は美しさを保っており、紫水晶の様な輝きを見せている。
こんな劣悪な環境で過ごしているとは考えられない身なりだ。
そんな当たり前の疑問すらも、彼女は先ほどのように誤魔化してきたのだろう。
「……ああ、頼む」
普段のジグであれば面倒ごとに巻き込まれては堪らないと背を向けるところだ。
時間こそ掛かるだろうが、この街から抜ける方法など彼女に頼らなくてもどうにかなる。弱肉強食を旨とするストリゴならば、金と力を上手く使えば出来ないことではない。
それでもシャナイアの提案に乗ったのは情報収集と興味のためだ。
大海を跨ぎ、魔獣や魔術という神秘が溢れたこの大陸。ある意味最もふさわしい場所で暮らす魔女が、神秘の無くなった地で暮らす魔女とどう違うのか。
群れる気質を持たぬせいか、それとも知識の継承が正しく行われていないせいか、シアーシャ自身もあまり詳しくない魔女という存在。
シャナイアならばそれを知っているかもしれない。
(シアーシャ以外の魔女というのも気になるしな)
情報と興味。
その二つに惹かれたジグは彼女の誘いに乗ることにした。
常の彼らしからぬ行動だが、シャナイアの魔術はジグになんら影響を及ぼしていない。
彼を動かしたのは魔女という存在、その在り方への関心だ。
強力な力を持つがゆえに、生れながらに孤高を強いられる魔女。個として比類なき強さを持つが、種として不安定な面を持つ不可思議な存在。
その背反した魔女の在り方が、ジグの行動指針に影響を及ぼしたのだ。
魔女がどういう存在なのかもっと理解したい。どう考えているのかを知りたいという欲求。
仕事をする上では必要のない情報だ。必要以上に深入りする、彼らしからぬ行動。
かつての、シアーシャと出会う以前ならば決して取らなかったであろう選択。
―――それが彼の、大きな変化。
その変化が如何なる結果をもたらすのか。
それはまだ、誰にも分からない。
なろうは既に原稿が出来上がっているようなものだから、書籍化作業は簡単!
そう思っていた時期が、私にもありました……(三巻の加筆量に頭を抱えながら)




