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日が落ちた空が暗くなり、辺りを行き交う人影も少なくなった頃。薄暗い街並みの一角が蝋燭の火のように一瞬だけ灯りを放ち、すぐに暗くなる。
ハリアンの北区へ向かうシアーシャは、その明るさが攻撃魔術によるものだと気づいた。
「うわ、もう始まっちゃってる!」
急がなければと走る彼女。駆ける彼女を追うように、夜よりもなお昏い髪が靡く。
言葉とは裏腹に、シアーシャの表情に焦りはない。彼女が急ぐのは事態を収拾するのが目的ではなく、ただ彼と共に何かを成したいだけが故に。
「もう私だけ置いてけぼりは嫌ですから」
夜闇に光る蒼い瞳が寂し気に細められる。
仕事をするのはいい。怪我をするのもいい。
―――だけど、そこに自分が居ないことが我慢ならない。
何故そう感じるのかは分からない。
ジグの強さだろうかと考えたが、恐らく違う。
彼は確かに強い。だがそれはあくまでも人間の範疇での話だ。
魔女の強さを単純に百とすれば、彼のそれは精々が十と言ったところだ。特定の状況下であれば魔女をも倒せる鬼札になりえるだろうが、強さに執着するというにはそれでは弱い。
ではなぜ?
答えは今でも出ないままだ。
「―――あぁ、歯痒い」
胸を焦がす理由の分からない衝動。長い生の中、かつて一度も感じたことのない執着心。
それら全てを混ぜ込んだ感情が澱のように溜まっている。
日を追うごとに増していくそれが良いモノなのか悪いモノなのかは分からない。
「―――あぁ、欲しいなぁ……」
彼女は飢えていた。満たされず、渇いていた。
何に飢えているのか、何を求めているのかすら理解せぬままに。
ただただ、彼女は求め続ける。
寂し気に細められていた瞳は、いつの間にか姿を消しており。
歪に吊り上げられた口の端は、歪んだ笑みを形作る。それでいてなお美しさを損なわないのは魔女のなせる業か。
暗闇を行く魔女は一人、狂った笑みを浮かべながら、剥き出しの欲望のままに駆ける。
「……もう一度、お願いします」
「だから、ジグは敵の魔術でどこかに飛ばされちまった!」
だから、そう。
目の前の茶髪の少女が言っていることが中々頭に入ってこず、理解してもなおシアーシャは首を傾げて問いかけた。
「どこに?」
飛ばされたのかという言葉すら出てこない問い。
「知らねえよ! 知ってそうな奴がこの中にいるはずなんだが、どこ探したって見つかりやしねぇ!」
苛ついたようにカティアが吐き捨てる。
シアーシャは脇に転がる人間二人に視線を移す。彼らはジグが捕まえた者達で、既にきつい尋問を受けた後なのか呻く気力すら残っていない有様だった。
「コレは?」
「このゴミ二つは捨て駒だよ。くっそ、一体どこに逃げやがったんだ……オイ床だ、床を調べろ! 建物を囲んでたんだ。逃げるとしたら地下しかない! 床板全部引っぺがせ!」
カティアはそれ以上話すことはないとばかりに言い捨ると、部下に指示を出しながら自らも捜索に加わる。
残されたシアーシャは虚ろな瞳で足元へ視線を落とす。
「……地下」
ポツリと呟いた彼女がうずくまり、両手を地面に当てる。
一つ息を吐くと、意識を集中させ両手から魔力を流し込む。普段魔術を使用するときと何ら変わりない、ごく普通の作業。
しかし、その規模が尋常ではなかった。
土魔術師が掌握できる面積は通常その魔力量に左右される。
魔力が多いほど広く、深く操ることができ、遠くを操るには支配域を細長くする必要がある。
地下深くを捜索するなど、まともな人間では到底できない力技だ。
「……あぁ、そこですか」
しばらくそうして探っていたシアーシャが小さな笑みを浮かべる。
地中に廻らせた魔力の中に感じ取った異物。蟲の様に小さな反応は少しずつこの場から遠ざかろうとしていた。
シアーシャは探っていた魔力をそちらに集約させると、詠唱しながら両腕を動かす。
まるで芋でも洗うような手つきだ。始めは文字通り手探りのように覚束ない手つきだったが、しばらくすると川魚を素手で掴もうとするような仕草に変わる。
「捕まえた」
その言葉と共に彼女が両手を掲げるように持ち上げると、
「―――うわぁあああああ!! 何だこれはぁあ!? 放せぇっ!」
シアーシャから少し離れた所の地面が突然割れ、中から複数の大きな手が湧き出てきた。土で作られた腕は一人の男を捕らえており、決して放すまいと四方から抑え込んでいる。
男は突然の異常な光景に我を忘れたように喚きたてている。必死で逃れようと藻掻いているが、土の腕はびくともしない。
土腕は騒ぐ男を掴んだまま、滑るようにしてシアーシャの前まで移動する。
「今の悲鳴は……こいつだっ!! でかしたぞ冒険者!」
彼の叫び声は捜索中のカティアたちにまで届いていた。
一斉に周囲をマフィアたちが囲み、逃げ場がないことを悟った魔術師が絶望の表情で項垂れる。
「よくやってくれた。後はこっちで情報を絞り出すから、そいつを渡してくれ」
代表してカティアがそう要求する。尋問は彼らの十八番であり、より効率的に仕事を済ませられる。その情報は結局ギルドへ伝えられるのだから。
真っ当で、理性的な判断だ。
「ねぇ。ジグさんをどこへ?」
だがカティアは理解していなかった。
目の前にいる女は真っ当でも、理性的でもないことを。
カティアの要求を完全に無視して……いや、そもそも聞こえてすらいないシアーシャが捕えた男に問いかける。
「……」
魔術師は項垂れたまま何も答えない。黙秘するつもりなのか、これから待つ拷問に答える気力すらなくなったのか。
どちらにしろ、結果は変わらないというのに。
「いぎぃあああああ!?」
突如として悲鳴を上げ始める魔術師。
見れば彼を拘束する土腕の一本が足首を握り締めていた。加減をせずに力を加えられ、骨の砕ける乾いた音が響く。砕けた骨が肉を突き破り、滴る血が土腕をどす黒い赤へと染めていく。
「どこですか?」
再起不能と呼べるレベルまで足首を破壊したシアーシャが、眉一つ動かさずに重ねて問う。
「あ゛あ゛あ゛!? いっ……いだぃ……おれ゛、おれ゛のあしぃ……!」
魔術師はそれどころではない。痛みに悲鳴を上げ、シアーシャの声は耳にすら入っていない。
「……まぁ、強情な人ですね。嫌いじゃありませんよ?」
見惚れる程の微笑みを浮かべた彼女が腕を翳す。
魔術師の左腕だけが解放され、すぐに伸びてきた土腕が横に伸ばした。
「やめろ! それ以上は死んじまうぞ!」
情報源が死んでは堪らないカティアが止めようと、シアーシャの肩を掴んだ。
蒼い瞳が一瞬だけカティアに向けられる。
「―――ひっ!」
向けられた瞳、それが帯びる鬼気に呼吸が止まる。怒りだとか、憎悪だとか、そういった類ではない、理解できぬ恐怖がカティアを襲った。
漏らした息は悲鳴のような音を鳴らし、体が強張ったかのように動かない。
「お嬢ォ!!」
分かったのは、襟首を掴まれて無理矢理に引き剝がされたこと。護るように体を抱きしめられ、直後に衝撃が走って吹き飛ばされたことだ。
土腕が振るわれ、カティアを庇ったレダ諸共二人が弾き飛ばされる。二転したレダはすぐに立ち上がるが、骨が折れたのか右肩を抑えている。
仲間を攻撃されたマフィアたちが一気に気色ばんだ。
「その女に近づくなぁ!!」
一触即発の空気を止めたのは他ならぬカティアだった。
彼女はレダに肩を貸しながら部下へ吼えた。
「誰も手を出すなぁ! そいつは、まともじゃない!」
真っ青な顔をした彼女にそう言われれば、マフィアたちも動くわけには行かない。
怖気づいたように一歩下がることしかできなかった。
「ふん……」
邪魔が居なくなったシアーシャが再び魔術師に視線を戻す。
先ほど邪魔をしてきたカティアを殺さなかったのはただの偶然だ。ちょうど空いている土腕があったから、うるさい羽虫を払った。ただそれだけのことだ。
魔術師を捕らえるために土腕を展開していなかったなら、使い慣れた地の杭で串刺しにしていただろう。
「さぁ続きです。ジグさんは、どこですか?」
「しぃ、知らないぃい! 俺がやったんじゃないぃいい!!」
必死に叫ぶ魔術師。彼の左腕を人間サイズの土腕が三本、等間隔で掴んだ。
これから起こる惨劇を想像した男が絞り出すように声を上げる。
「ほ、本当だぁあああああ嘘じゃないぃぃ!!」
「……誰がやったかは、聞いていないんですよ」
みしり。
魔術師の腕を掴む土腕が少しずつ動き始める。
「どこに行ったかを、聞いているんです」
三本の土腕が、雑巾を絞るように互い違いに動き出す。
初めは、皮が裂けた。
「あ、ああああ……!!」
次に肉が千切れ、血が滴る。
絞った雑巾のように、滴る。
「―――ジグさんは、どこですか?」
飛び散った血がシアーシャの頬を濡らす。
何処までも深く蒼い瞳が、魔術師を飲み込む。
「す、スどリごぉ!! ストリゴだぁああああああああああ!!!!」
「はい、よくできました」
ぶちゅり。
大きな腸詰にかぶりついたような、そんな音がした。
シアーシャが花開くように笑う。
魔術師の腕を握る土腕は、既に一回転していた。
筋繊維や神経、血管がでたらめに絡まった糸のように捩じられ、粉砕した骨が飛び出ている。
漏れ出る血は留まることを知らぬかのように溢れ続けていた。
「あ……アハハははははは!! はははぁ雑巾だぁ! 俺の腕ぇえ!!? うで雑巾になっちゃったよぉお!!?」
身の毛もよだつほどの悲鳴から狂ったような哄笑へ。
極限の痛みと恐怖に耐え切れなかった男は、自ら正気を手放すしかなかった。
あるいはもう少し早く心当たりを叫んでいれば、助かっていたかもしれない。出鱈目でもなんでも、適当な街の名さえ口にすればこの場は凌げたかもしれない。この後マフィアに尋問をされるにしても、心まで壊されなかったかもしれない。
だが彼は追い詰められた恐怖と痛みでそこまで考えが回らず、自分がやったのではないと伝えることに意識が行きすぎたのだ。
それに気づいた時にはもう手遅れだったのだ。
知りたいことを聞けたシアーシャが術を解いて解放する。
片足片腕を粗挽肉にされた男が笑いながら地に倒れ伏した。彼女は既に男への興味は一かけらも持っておらず、まるで飽きたおもちゃを放り出すかのようだった。
「すぐに医者へ診せろ。……まともな情報源になるかは怪しいけどな」
壊れた男の救助を部下に命じたカティアが視線を移す。
月明かりの下、頬を血で濡らしたシアーシャが艶然と微笑んだ。
「ストリゴ……ストリゴですかぁ」
彼女は踊るようなステップで、謳うように街の名を口にする。
美しい光景だ。身の毛もよだつほどに。
「アタシは……勘違いしていたのかもしれないな」
背筋が凍るほどの怖気と、今すぐこの場を離れるべきだと叫ぶ本能を感じながら、カティアは口にする。
ジグの持つ力を見た時、化け物だと思った。
イサナの振るう武を見た時、人外だと思った。
だがこれは、違う。今目の前で嗤う人の形をした何かこそ、本物の―――




