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過ぎたことにいつまでも悩むのは愚かだ、というのはカークの持論である。
ひっくり返してしまった盆の水は戻らない。あの時ああしていればよかったと後悔するくらいなら、今目の前で起きていることに対処する方が余程建設的というものだ。
人間、諦めと切替えが大事なのである。
だから彼はこの後の対処を冷静に考えていた。
たとえ目の前で頑丈なはずの扉が恐ろしい音を立てながら縦に裂けていても、冷や汗一つ垂らすだけで済ませてみせた。
真っ二つに裂けた扉から悠々と現れたのは、これ以上ないほどの笑顔を浮かべたシアーシャ。
魔力の余波で艶やかな黒髪を波打たせながら入室した彼女は、鈴を転がしたような声で名を呼んだ。
「―――カーク、カァーク、カァークゥ……我らが親愛なるギルド副頭取にして、冒険者たちの導き手カーク=ライト。本日は私めの様な一冒険者のために時間をとって頂いたこと、深く感謝をいたします」
彼女は謳うように美辞麗句を並べ立てると、こうべを垂らして長い黒髪が床につきそうになるほどの一礼をした。
決して慣れている動作ではない。しかし不思議とその動きには気品というものが感じられ、頭を下げてはいても彼女の気位を損なうものではなかった。
むしろここまで見下ろされている気分の礼も初めてだなと、そんなことを思ったほどだ。
彼はそんな内心をおくびにも出さず、毅然とした態度で鷹揚に頷いて見せる。
「……うむ、歓迎するともシアーシャ君。私たちはいつでも、冒険者諸君の悩みを聞き、それに寄り添う用意がある」
「えぇ、えぇ、そうでしょうとも! 私たちは戦う場は違えど共に苦難を乗り越える仲間であり、友であり、同志なのですから……」
茶番だ。そう表現するほかあるまい。
しかし必要な茶番であった。これに乗るくらいで失言を流してくれるのならば、否応はない。
「そういえば同志カーク、この部屋の扉は少しガタがきているみたいですよ? あなたほどの人物なら、もっと良い扉にしないと」
「ハッハッハ、同志シアーシャよ。実はその扉、両開きではないのだよ?」
「あら、私ったら……」
花開くような微笑み。何も知らなければ見惚れていたかもしれないその笑みが、唐突に冷たいものに変わった。表情を変えたわけではなく、視線の温度が変わっただけ。
ただそれだけで部屋の温度が下がったかと錯覚するほどの悪寒が走る。
来た。身構えていたカークが一言も間違えぬよう慎重に思考を巡らせる。
「―――時に、カーク。私の聞き間違いかもしれませんが……先ほど何か、妙なことを口にしていませんでしたか? 確か、愛想がどうとか……?」
操り人形のようにかくんと首をかしげて、問いかける。
「君の雇っている傭兵、腕は良いが少し仏頂面が過ぎると思ってね? もう少し愛想良くすれば仕事も増えるのにと話していたのさ」
相手の逆鱗がどこかを一瞬で読み取り、そこへ触れぬよう話を逸らす。見事な機転だった。
話に聞いてはいたが、シアーシャとジグの関係は中々に複雑なようだ。ジグの言うように単なる依頼主と傭兵だけの関係でもなければ、男と女の関係でもない。
それでいて彼女の見せるジグへの執着心はまともではない。愛だの恋だのといった甘酸っぱい何かでは断じてない。
だがカークはそこに関して触れるつもりはない。明らかに危険だからだ。
彼女は上品に口元へ手を当て、カークの言い訳を本当に信じているかのように頷いて見せた。
「そうでしたか。確かにジグさんは威圧的な風貌をしていますからね。……他意は、ありませんよね?」
「無論だとも。ジグ君の仕事に対する姿勢に文句などあろうはずもない。それは彼の横に立つ君が、一番理解しているだろう?」
ジグの相棒は君だろうと、言外に告げた。
相手の不快感を煽らないよう、露骨ではない程度におだてる。
「…………」
カークの意図を探ろうと、顔は微笑んだまま氷のように冷たい視線を向けている。
宝石の様に蒼く美しく、石ころの様に無機質な眼。
「―――まあ、いいでしょう」
時間感覚さえ曖昧になるほどの一時が終わった。
シアーシャは興味を失ったように意識を逸らし、それと同時に掛けられていた圧が緩んだ。
気取られぬよう静かに息を吸って、吐いた。自分の失言が原因とはいえ、間違いなく寿命が縮んだ……そんな錯覚すら覚える。
「そう、仕事といえばですけど」
職員に彼女が来た際の対応を徹底させなければならないななどと考えていると、思い出したかのように用件を切り出すシアーシャ。
そう言えば彼女は何か用があってここを訪ねたのだとカーク自身、今思い出した。
「今ジグさんに依頼していることについて、教えていただけますか?」
「……」
眉間に皺が寄るのを我慢した自分を褒めてやりたい。
厄介な事件に、厄介な奴が首を突っ込んできた。それだけで頭痛がしてくる。今朝方ジグから受けた報告もまだ調べている最中だというのに、これ以上厄介事が増えるのは御免だ。
「すまんが、まだギルドも正確な情報を掴んでいるわけではないのだ。いたずらに混乱を招くのを避けるため、憶測を話すわけには行かない……理解してもらえるね?」
実際は憶測どころか諸々の経過をすっ飛ばして結果だけは得ているわけだが。それを彼女に話す理由も意味もない。如何に才能があるとはいえ、彼女は未だ中堅冒険者なのだ。
ギルドという組織として、内部情報を話せないと伝える。流石に彼女もそれ以上踏み込んではこまいと。そう考えた。
「私の意図が、正しく伝わっていなかったようですね?」
しかしカークの考えは見当違いだった。
シアーシャはギルドの内部情報に興味などなく、あの事件が人為的なものであったかどうかなど知ったことではない。
「私は、ジグさんがどんな仕事をしているのか。それが知りたいだけなんですよ」
「……結局は同じことだ。彼の仕事内容を伝えれば話したのと何も変わらない」
話せないと口を閉ざす彼へ、シアーシャはとても悲しそうに語りかけた。
「あぁ、カーク。残念です……友が助けを求めるのに、見捨てるなんて……これでは私たちの友情にヒビが入ってしまうかもしれません。恐ろしいですね?」
彼女はそう語りながらカツカツとブーツを鳴らしながら近づいて、カークの机に腰かける。
トントン。カークの意識を引くように指で机を叩いた。
「……私たちの友情は、不滅だとも。だがもし、万が一の話だが……友情にヒビが入ったら、どうなるかね?」
その音を聞きながら問えば、シアーシャは肩越しにこちらを見て胸を押さえるような仕草をした。
「私の心は今、溢れんばかりの悲しみに満ちています。もしカークとの友情にヒビが入ってしまったら、あぁ……きっと、ヒビから溢れ出した悲しみがあなたを飲み込んでしまうでしょう」
分かりますね? と小首をかしげてシアーシャ。
笑みに隠された……いや隠さないむき出しの暴力の気配にカークがごくりとつばを飲む。
笑顔は本来攻撃的な表情だと何かの本で読んだことがあったが、あれは間違いだ。
貧弱な人間にとっては危険な人間がどんな顔をしても恐ろしく、攻撃的にしか見えないからだ。
「……なるほど、な? それは……うむ、良くないことだ」
「そうですとも。私たちの友情を守れるのは、あなたしかいません」
だから、ね? と胸に当てていた右手を彼へ向ける。
「さ、友情パワー」
お前の命を握っているぞと掌を見せつけられれば。
「……ゆうじょうぱわぁ」
それを拒むことなど、出来はしないのだった。




