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不自然に静まり返った森。
草木の合間を何かが走り抜ける。
駆ける音は素早く、身軽だ。
聞こえてくる歩幅の間隔や速度から、それが二足の生物ではないことが分かる。
「……」
ジグは腰だめに構えた双刃剣を動かさぬまま五感を研ぎ澄ました。
足音はすれども姿は見えないのは単に視界が悪いだけではない。
青臭いような独特の魔術の匂いには覚えがある。
(あの時の魔獣と比べればお粗末だがな)
思い出すのは初めての冒険業の時に遭遇した幽霊鮫。
宙を遊泳する魔獣と地を走る魔獣とでは隠密性に天地の差がある。
姿を隠す能力にも差があるようで、目を凝らして何とか気づけた幽霊鮫と比べるとこの魔獣は体の輪郭や色を誤魔化すのが精々といったところだろう。
それでもジグの視界を欺く辺り、魔獣というものは侮れない。
こちらの隙を窺うように聞こえていた足音がジグの斜め前方で途絶えた。
膨れ上がる殺気にジグが備える。
―――来る。
身構えた次の瞬間、背後の樹上から魔獣がジグに飛び掛かった。
攻撃に際して隠蔽魔術が途切れ、空中でその姿があらわになる。
しなやかな体をした豹のような魔獣。
つやのある黒い体毛に身を包んでおり、体長は二メートルほど。
名を偃刃豹
特徴的なのは両腕から伸びる刃だろう。
前腕から伸びる金属ではない鈍色のそれは、金属以上の鋭さで獲物の首を切り落とさんと迫る。
音もなく背後から飛び掛かった、そのはずだ。
しかし必殺の一撃は、赤黒い刃にて阻まれる。
「ふっ!」
構えた双刃剣の下刃を持ち上げて、首元に迫る腕刃を防いだジグが回る。
飛び掛かる偃刃豹をいなすように体を回し、反転。
攻撃をいなされて無防備を晒す魔獣に反撃はせず、その後ろから迫る三匹目へ双刃剣を振るう。
不意打ちをしくじった二匹目のフォローをするように走り込んできていた偃刃豹が飛び掛かるが、それは悪手だ。
隠蔽魔術と群れでの行動で相手を翻弄し、不意を打つ戦法を得意とするのが偃刃豹。であれば、初手が失敗した時点で逃げるべきだったのだ。
振り下ろされた双刃剣と腕刃がぶつかり合う。
勢い、質量、共に双刃剣が上回っている。
それでも腕刃は砕けなかったが、勢いを止めること敵わず押し切られた。
叩き伏せられ、頭部をかち割られた魔獣が息絶えるより早くジグが動く。
振り向き、今まさに着地したばかりの二匹目に振りかぶった双刃剣を投擲。
逃げようとした偃刃豹の背を斜めに貫き、大地へ縫い留める。
残る一匹を探そうと視線を巡らせるが、
「終わりましたよ、ジグさん」
シアーシャが頭だけ無くなった魔獣の死体を土盾に乗せて、戦闘終了を告げた。
「それにしても厄介ですねここは」
シアーシャが魔獣の皮を剥ぎながらそうこぼした。
偃刃豹の役に立つ素材は見ての通り毛皮と腕刃だ。
上質な黒毛皮は防護として使うには強度不足だが衣服の素材として重宝され、貴族などにも人気が高い。
それに反して腕刃は鋭く硬いが、見栄えが良くないので冒険者用の短剣などに使われる。
どちらも高値で取引されており、需要は高い。
だがこの魔獣を積極的に狩ろうとする冒険者は少なかった。
「仕方あるまい。隠密性に特化した魔獣の多い場所だからな、ここは」
初めて魔獣と戦った森のさらに深部。
樹木が多く視界が悪いこのウラトリア森林は別名“見えざる森”とも呼ばれており、その環境に適応するように魔獣も隠密性が高い。
体色や移動方法、魔術など身の隠し方はそれぞれだ。
単なる強さとはまた別の厄介さがあり、安全を見て数を揃えればそもそも魔獣が近寄ってこないという。
直接戦闘能力に特化していたり、索敵技能が不得手な冒険者によっては全く立ち寄らないことも珍しくはない。
しかし競争相手が少ないということは、それだけ儲かるということでもある。
一部の技能を持った冒険者にとっては美味しい狩場であり、他とは一味違った素材が取れることでも有名だ。
そしてなぜジグたちがその厄介な場所にわざわざ来ているかというと。
「封鎖されちゃいましたからね、あそこ」
「それも、仕方あるまい」
あの騒動の後、刃蜂の巣周辺が一時封鎖状態となった。
巣を攻撃されたことで気が立っている刃蜂は未だに危険で、安易に踏み込めば先日の二の舞になることは避けられない。
刃蜂が落ち着いて、ギルドが元の環境に戻ったと判断するまで立ち入り禁止令が出された。
「あそこで稼いでいる大量の冒険者が他所に流れ込んだ結果、狩場の取り合いになったと……前にもこんなことなかったか?」
「ありましたねぇ。あの時は賞金首でしたか。……誰が、倒してくれたんでしたっけー?」
毛皮を剥いでいた血まみれのナイフを弄びながらぐりんとジグを見るシアーシャ。
頬に跳んだ血が相まってとても怖い。
以前に蒼双兜の賞金首が出現した際にも似たようなことが起こった。
そのときはワダツミの若手が賞金首狩に挑んだのだが、ベイツたちに依頼されたジグが保険としてその様子を見守ることとなった。
結果的には賞金首は倒され、低等級冒険者の立ち入り禁止も解除された。
しかし予想外のトラブルが起きてジグは重傷を負い、後からそれを知ったシアーシャがのけ者にされたことに大層腹を立てたのだ。
「……ワダツミだったかな? それより、毛皮を剥ぐの上手いなシアーシャ」
藪をつついてしまったジグが視線と話を逸らす。
だが実際、彼女の仕事は見事な物だった。
一応できるといった程度のジグと比べるとその手際は慣れたもので早く丁寧だ。早々に腕刃はジグが、毛皮はシアーシャがと役割分担が決まった。
「もう……森で散々やりましたからね。上手くもなります。初めてやったときは酷いものでしたけど……」
話を逸らされていることに不満気な顔をしつつも、褒められて満更ではなさそうに手を動かす。
思えば初めて袋狼の剥ぎ取りをした時も手際は良かった。
あの時は袋の臭さに半べそかいていたので記憶に残らなかったが。
「誰かに教わったわけでもないだろうに、大したものだな」
シアーシャを褒めながらジグも腕刃を剥ぐ。
腕から生えているだけかと思ったが、そうではない。鈍色の刃は肘の骨が異常発達したように飛び出ている。
まずは腕を切り落とし、ナイフを滑らせて筋繊維に沿って肉を削いでいく。
ある程度肉を落としたところで血を拭って荷台に放り込む。
あまりゆっくりしていると血の匂いに誘われた魔獣が来てしまうので、手早く済ませる。
「こっち終わりました」
先に終えたシアーシャが革紐で結んだ毛皮を荷台に放り、大きく伸びをする。
同じ姿勢で作業をしていた背筋がぱきぽきと乾いた音を立てた。
首を逸らして背筋を伸ばす彼女の仕草に猫の様だな、と思いながら最後の一本へ手を伸ばす。
「俺もこれで最後……っ!?」
答えようとした直前、首筋が粟立つ。
直感が告げる危機に逆らわず動いた。
立ち膝の状態からさらに姿勢を低く、頭が地に着くほどに下げる。
伏せた視界の端、頭部のあった所を緑の軌跡が薙いだのが見えた。
攻撃の主は必殺の一撃が躱されたことにも驚かず二の太刀を振るう。
「っ!」
武器は近くにあるが、この体勢で拾って防ぐことは難しい。
ジグは咄嗟に左手に持っていた刃物……偃刃豹の腕を攻撃の軌道に合わせた。
鈍色の腕刃と緑の薄刃が火花を散らしてぶつかり合う。
押されたのは鈍色の腕刃だったが、それは意図的なものだ。
この体勢で打ち合うのは不可能と判断し、相手の攻撃の勢いを借りて転げるようにして距離を取る。
振り切られた緑の薄刃がジグの頬に一筋の傷を作った。
魔獣との距離が離れた所にシアーシャの術が襲い来る。
一瞬で組み上げたとは思えぬほどの強度を持つ岩槍が殺到する。
しかし飛来した岩槍は、不自然な動きで上に逃げた相手に避けられた。
その時初めてジグは襲って来た魔獣を見た。
蝉の頭部と体に蟷螂の手足をつけたような魔獣だった。
全体的に暗めの緑で木々に紛れるような色をしているのに、両腕の鎌だけが綺麗な緑色をしているのが妙に不気味な印象を受ける。
その魔獣は後ろ足で木からぶら下がってジグの首を刎ねようとし、シアーシャの魔術を身を起こして木に張り付くことで回避してのけたのだ。
「薄刃首狩蟲!」
不気味な魔獣の名を口にするシアーシャの声を余所に、双刃剣を手にして体勢を整えたジグが向かい合う。
薄刃首狩蟲は逆さまに木に張り付いたまま、鎌を構えて上半身だけをゆらゆらと動かしながらこちらを見ている。
頬を伝う血が地面に落ち、生温い感覚を与えてくる。
恐ろしいほどの切れ味をした鎌だ。
掠ってすらいないのに頬を裂いたその斬撃に背筋が凍る。
偃刃豹の腕刃が頑丈で助かった。半端なナイフなどで防いでいたなら、それごと首を持っていかれていただろう。
あの鎌も危険だが、何より恐ろしいのは今まで一度も魔術の匂いがしていないことだ。
つまりあの魔獣の隠密性と、木に張り付いている立体機動力は自前のもの。
体の大きさは二メートル弱だが、足と鎌を伸ばした時のリーチは一体どれほどのものになるのか。
遥か頭上から音もなく振るわれる鎌はかなりの脅威だ。
油断は、していなかったからこそ避けられたのだろう。
魔術に頼らない隠密をする魔獣がいるとは理解はしていても、ここまでとは。
「死肉では……満足してくれそうもないか」
足元の偃刃豹の死体に目もくれないあたり、中々に好戦的な魔獣のようだ。
「気を付けてください! 首を刎ねて、口吻で中の血肉を啜り取るらしいです!」
「死んだ後の捕食方法を説明されてどうしろと!?」
「あれ?」
「馬鹿やっていないで行くぞ!」
JR秋葉原駅二階コンコースに「魔女と傭兵」の広告が貼ってあるそうです。
その大きさなんと7メートル。でかすぎる……
5/28までなので、よければお近くに寄った際に見ていってください!




