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ちょっと短いですけどキリがいいので上げます。
二つの呼吸が、それぞれのやり方で整えられていく。
ジグは深呼吸をするように深く、大きく。
ヤサエルは細く、長く。
どちらからともなく、構えた。
攻撃のための前傾姿勢、威圧殲滅を目的としたジグ。
防御のための重心を落とした後の先、反撃を目的としたヤサエル。
正反対の構えはそのまま二人の戦法を表しているかのようだった。
「その剛、柔よく制させていただきます」
己の技量を信じたヤサエルがそう謳えば、
「ならばその柔、剛よく断たせてもらう」
己の力を識るジグが宣言する。
交わす言葉はそれで最後だが、十分だった。
元より互いにどちらかが死ぬまで止まらない。
交渉や妥協点などなく、勝利か敗北かでしか事の幕は下りない。
永遠にも感じる静寂。
先に破ったのは、ジグの方だった。
火の魔術が炸裂した。
そう錯覚させるほどの踏み込みに石畳が爆ぜ、教会が揺れる。
全身を撓ませ、限界まで溜めていた足のバネを解放したジグの突貫。彼の巨体故に全力での疾駆は準備に時間が掛かるが、その速度はイサナの雷纏強化術にも劣らない。
ヤサエルの眼が大きく見開かれる。
二メートル近くの巨体が赤い軌跡を引きながら冗談のような速度で迫りくる。ヤサエルはその間合いを極限の集中でスローモーションのようになった視界の中で正確にはかる。舞う砂塵の一粒一粒さえも数えることが出来そうな思考の加速。吐く呼吸すらももどかしい。
「―――!」
自らの磨き上げた見切りと、反撃の一手。
この一瞬に、彼は自身の積み上げてきた経験全てを賭すつもりでその機会を見極める。
瞬きの内に距離を詰めたジグが双刃剣を振りかぶった。
大地よ砕けろとばかりに踏み込まれる脚。
幾度となく繰り返された一連の動作は一つの淀みもなく突進の勢いを斬撃の威力へと変換する。
特別な技法は何一つなく、あるのはただひたすらに積み上げられた研鑽のみ。
より速く、より強く。
ただそれだけを愚直に突き詰めた一つの到達点。
迎え撃つは柔の極致。
荒ぶる暴力。その悉くをいなして、流して、返す。
力で劣る人間が、より強力な亜人相手に効率よく戦うために編み出した技の理。
彼を免罪官足らしめた所以。
ヤサエルは昂る感情と冷えた思考で冷静に判断する。
相手の速度、威力は尋常ではない。
武器を見ていては間に合わない。動き全体のおこりを見なくては。
加速した思考の中でもなお捉えるのが困難な剣速。
それでも過去最強の強敵相手に歓喜した肉体は、ここ一番でかつてないほどの冴えを見せた。
緩い弧を描いた体重移動に合わせて鋭く錫杖を振るう。
双刃剣の軌道さえ変えられればそれでいい。
空振った所に錫杖を当てれば相手の踏み込む勢い、ただそれだけで十分に殺せる。
理想通りの軌跡を描いた錫杖。
勢いに乗りきる前の双刃剣を斜めに叩き、その軌道を逸らそうと迫った。
―――見切られた。
ジグは錫杖の軌道を見るまでもなく、ヤサエルの眼でそれを悟る。
全力をもって成した突貫。
振り下ろされた刃を止めるのは既に間に合わず、このまま前に出れば死ぬかもしれない。
承知の上で、前に出る。
ついに錫杖と双刃剣が交わる。
「―――!?」
軌道は見切った。タイミングも完璧だった。
だがそれでも、双刃剣の軌道を変えることは叶わなかった。
土壇場でさらに速度を増した刃は僅かに遅れた錫杖をねじ伏せるように下げ、相手を切り裂こうとその体へ一直線に振り下ろされる。
赤黒い刃がヤサエルの左肩口を捉えた。
防御術を苦も無く喰い破った刃は肉と骨を諸共に断ち斬っていく。
遅れてヤサエルが反撃に出る。
強引に下げられた錫杖が突き込まれ、ジグの腹部を抉るようにもぐり込んだ。
血が噴き出し、血を吐き出す。
これ以上前に出れば、死ぬ。
『――――――』
一瞬の視線の交差。
まるで長年共にいたかのような伝心に獰猛に笑い合う。
前に出れば死ぬではなく、前に出れば殺せる。
二人の男は止まらない。
互いが互いを喰らう武器を視界に捉えながらも、一歩も退かずに前に出た。
以って幕は下りた。
二人の人間が殺し合い、然して生き残ったのは一人だけ。
勝者は敗者に背を向け、そうしてまた奪った命を踏み台にする。
勝利に対して誇ることも、喜ぶこともせず、武器を支えに一歩ずつ進む。
進んだ先にいるのは一人の女。
長い黒髪を垂らした美しくも恐るべき力を持つ魔性の女で、彼の依頼主。
「勝ったぞ」
告げるのはその一言のみ。
血を吐き、今もなお出血し続ける重体。
ギリギリのところで致命傷こそ避けているものの、放っておけばすぐにでも敗者の仲間入りを果たしてしまいそうな体。
それでも勝者……ジグは普段と変わらぬ口調でそう言った。
「―――はい、信じていましたよ」
魔女……シアーシャは血に濡れたその顔を、手が汚れるのにも構わず愛おしそうに撫でて艶然と微笑んだ。