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6.鬼と少女と地蔵菩薩

※作品のモチーフとして某宗教の世界観を取り上げていますが、聞きかじりの情報を都合よく解釈して都合の悪い情報を見て見ぬふりして書いています。

実在する宗教と大きく異なりますので、興味を持った方は自分でちゃんと調べてください。


「あぁ。醜い醜い。ほんにそなたは見るに堪えぬ」


 清らかな金属音と共に優し気で慈悲深くも、棘のある声がした。



 少女の刃が餓鬼の腹を裂くことは無かった。

 皮膚を数枚切れたところで、餓鬼が忽然と姿を消したからだ。


 行き場を無くした刃先は空を切り、体重を掛けていた物が消失したために少女は尻餅をついた状態で声のした方を見る。


 一人の僧侶が立っていた。

 質素だがどこか煌びやかな輝きを放つ布で身体を隠し、目を瞑り、ふくよかで穏やかな表情を浮かべた男性だ。

 慈悲深く、慈愛に溢れた高貴な存在。

 そこにいるだけで神々しく、この地獄に太陽があるかのように眩い存在だった。


 その隣には、先ほどまで瀕死になって腹を裂かれそうになっていた餓鬼が無傷で立っている。

 餓鬼は何が起こっているのか困惑している様子で、折れた手足や傷だらけだった肌を擦っている。


 後光すら差す彼と並び立つと、薄汚れた餓鬼の醜さは酷く際立って見えた。


「さぁ。清き者よ。そなたはそなたのいるべき所にお戻り」


 汚れることを厭わず、餓鬼の背中をそっと触れ、優しい声色で餓鬼に囁く。

 思わぬ救いを得た餓鬼は、感極まった様子で涙を溢れさせて幾度も頭を垂れながら、自身を待つ地獄に戻っていった。


 餓鬼の薄汚れた背中が遠ざかるのを見送りつつ、少女は彼に険しい目を向けた。


「あんな醜く変わり果てた人ですら助けるのね。さすがは慈悲深き地蔵菩薩様」


 落胆のため息とともに、神々しい僧侶こと地蔵菩薩は口を開く。

 その言葉の抑揚は穏やかで、不思議と聞く者の心を宥める音を持っていた。


「あの者の罰はあの姿に転生したことですでに完結しており、あれ以上の責め苦は閻魔大王より許されておらぬ」


「知ったことじゃないわ。先に手を出したのは向こうの方よ」


 しかし少女は折れた刃を握りしめたまま、彼にむき出しの敵意で対応した。

 彼女にとってこの声色は救いの手などではないからだ。


「その手を圧し折ることは無かっただろうに。可哀想に、救いを求めた手だったというのに、邪険にされた挙句惨めを受けるとは」


「生前、散々にされた人の手を取るなんて虫唾が走るわ。むしろ清々した気分よ。あなたが割って入らなければもっと気分が良かったかもしれないわね」


「そなたがやったことは獄卒の真似事などとは程遠い。単なる八つ当たりに過ぎぬ」


「八つ当たり? 上等よ。見知らぬお偉い様が勝手に与えた罰程度で留飲が下がるわけがないじゃない。せめて苦悩して後悔して懺悔しているところぐらいは見ておかないと気が済まないわ」


「あぁ。何故そなたほど無垢な魂が、そのように醜く歪んでしまったのか。嘆かわしい嘆かわしい」


「余計なお世話よ。私は今が気に入っているの。勝手に嘆かれる言われは無いわ」


「そなたのような者は、我が救わねばならない」


「義務感で救われるのはごめんよ博愛主義者」







「離して!」



 鬼が賽の河原に訪れると、少し離れたところから聞き慣れた声に聞き慣れない必死さが混じった金切声を聞いた。

 この地獄においてそのような声は珍しい物ではない。どの亡者も必死に助けを求めるし、懺悔もする。けれどそれは白い少女が持ち合わせるものでは無かった。


 きつく眉間に力を入れ、金棒を担ぎ、小走りで声の元に近寄った。


 賽の河原から少し離れた先。神々しい僧侶に腕を掴まれた少女が目に入った。

 真っ白な細腕を掴まれた少女は、その全身を使って自由を奪わんとする者に抵抗していた。


 骨ばっていても妙に頑強な腕で少女を掴んでいる僧侶は、少女の抵抗をものともせず、慈悲深い表情の中に微かな侮蔑を滲ませて彼女を見ていた。


「何をしていらっしゃるのです。地蔵菩薩殿」


 極めて冷淡に、模範的な獄卒らしく、色のない声色を努めて鬼は尋ねた。

 白い少女は鬼に気付き、顔を上げて彼を視界に収めた。その瞳からは鬼の動向を観察する、どこか冷静な色合いが見える。

 地蔵菩薩を視界の中央に収めつつ、まるで長老のような目だ、と鬼は思う。


「あぁ。何かと思えば獄卒か。幾分気配が違う故に気づかなんだ」


 彼は瞑った目で鬼を捉え、白々しく言う。


「本日は既に子供の亡者を十人程連れていかれたはずですが」


「あぁ。我が愛すべき者共を輪廻に流した。今回はそれまでにしようとも思ったのだが、この者があまりにも憐れ故、ついつい救済の手を伸ばしてしまった」


「何が救済よ。この偽善者。押しつけがましいのよ」


 鬼は白い少女がわかりやすく感情を表に出していることに若干驚いた。

 薄ら笑いを張り付けて人の不幸も絶望も飄々と受け流して、自分はさも幸せであるかのように振る舞う彼女が、本気で嫌悪している。

 決して長く生きていない鬼でもそれが演技ではない事は明白にわかった。


「それがあなた様の存在意義なのは理解しましょう。しかし俺の目があるところで亡者を連れ去られることは容認しかねます。お引き取りを」


「……あぁ。獄卒らしからぬとは思ったが、そなたは己を獄卒と称するのか。成程成程。ならば仕方なし。今回のところはこれまでとしよう」


 地蔵菩薩の手からするりと少女の腕が抜け、鬼が瞬きする間に彼は姿を消していた。

 まるで照明が消えてしまったかのようなほの暗さと静けさが河原に流れたが、すぐに霧散し少女はため息を吐く。


「鬼さんが獄卒で助かったわ」


「俺はお前を助けたわけではないんだがな」


 地蔵菩薩は地獄に落ちた亡者の唯一の救済だ。

 彼以外に、亡者を地獄から救い出せる手段を持つ者はいない。


 地獄に落ちた亡者たちはその罪の重さによって責め苦を負う。それは彼らにとって永劫の苦しみに感じるが、それは一種の浄化作業だ。

 いつか終わりが訪れ、現世の罪や穢れを流された無垢な魂はまた現世へと送られる。

 その手段を持つ者が地蔵菩薩である。


 そして極楽浄土への導きを担うのも彼だ。

 現世での善行を鑑み、輪廻の輪から外し、永遠の楽園へとその魂を誘う。

 そこにはこの世のありとあらゆる享楽があるとされ、輪廻から解放された者たちは世界が消えるまで極楽で過ごすらしい。


 地蔵菩薩は輪廻転生の一旦を司り、同時に救済を成す存在なのである。


 一度地獄にその姿を晒せば、亡者は折り重なって跪き救済の手を乞う。地獄から極楽へ行くことは叶わないが、亡者にとっては地獄から抜け出せることが最も切実な救いだからだ。


 無論、獄卒らもその存在は周知している。

 獄卒は救いを齎す地蔵菩薩と対極でなくてはならず、互いに互いを不可欠な存在と認知しながらも、対面上は対立しあう。そうすることで罰と救済の天秤を釣り合わせているのだ。


 故に、例え浄化が終わった無垢な魂を転生させるために地蔵菩薩が手を伸ばしても、それを獄卒が見ているのならば邪魔しなければならないのだ。


 その光景を見れば、どのような亡者でも獄卒への恨みを大いに募らせることだろう。


「それでも助かったわ。私は二度と転生なんてしないから」


「地獄に落とされた亡者の悲願じゃないのか? それは。転生を妨げられた時の亡者は凄まじいらしいぞ」


「あら。私は今天国に居るのよ。転生する理由がないわ」


「それはどうだろうな。少なくとも地獄よりはまだ報われるから亡者は獄卒に噛みついてまであの方の手を取りにいくんだろう」


 過去に、かの地蔵菩薩が一度に大量の亡者を現世に転生させたことがあったらしい。その時、獄卒に邪魔されて転生しそびれた亡者達は大変に荒れ狂う事件が起こったそうだ。

 当時の獄卒達は相当苛々しながら亡者を叩き潰して沈静化していたと、長老は鬼に語ったことがあった。


「その他大多数の人たちと私個人を比較するのはとても愚かだと思わないかしら? 鬼さんだって他の獄卒と同列で比較されると微妙な気分でしょう」


「確かに比較対象とは大きく逸れ過ぎているな。それにしてもお前の思考は理解しがたいがな」


 鬼のその応答に、彼女は驚いた風に目を開いた。


「不思議な事を言うのね。鬼さんは亡者の事情なんて興味ないと思ってたのに理解しようとしていたのかしら?」


「ただの亡者には興味はないな」


 白い少女は薄い笑みを口に引く。

 それは言外に、彼女に興味があると言っているのだ。

 お気に入りの鬼が自身に興味を持ってくれるのならばと、少女の気分は少々上向きだ。




「それじゃあちょっとだけ私の話をしましょうか。楽しくは無いけれどね」

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