1.鬼と少女のはじめまして
耳障りな悲鳴が鳴った。
残忍な笑い声が共鳴した。
繰り広げられているのは、燃え盛る炎と焦土を舞台にした鬼と亡者による本物の鬼ごっこだ。
獄卒に捕まった亡者は鼓膜を破壊せんと絶叫を上げて必死に抵抗するが、その声で喜色を滲ます獄卒に敵う道理はなく、手足は無情にも砕かれる。
すると今度は懺悔の声を亡者が発した。獄卒達はその声を聴くと下卑た笑みを一層深めて、その亡者を血で煮え立つ大鍋へと沈めた。浮いて来ぬよう獄卒の数名が棒で亡者を突き沈め、時折その剛力で亡者を突き刺しては血を流させる。
煮崩れた亡者が鍋の外で再生し、また結果の分かり切った鬼ごっこをさせられる。
休む暇も与えられずに苦痛を与えられ続ける、これはどこの地獄でも似たようなものだろう。
そう、ここは地獄だ。
死後、極楽へと昇ることを許されなかった魂達が、輪廻を再び巡るために辿り着く清めの場。
閻魔王が罪を裁き、業火が穢れを焼き、獄卒が魂を叩きなおす。
そうして無垢となった魂は、現世にて次の生を受け、転生する。
獄卒達は人の魂を清めるために生まれ、その使命を全うすることに享楽以外の私情を挟まない。
地獄そのものに産み落とされた彼らは寝食を必要とせず、人間にとっての欲求や快楽は等しく無価値。
亡者を拷問することこそが獄卒にとって私情の喜びであり、存在価値だ。
獄卒達は今より下層、亡者の犯した罪が重く、相応に厳しい拷問が許される地獄へと降ることが、生涯の目標なのである。
腹を開いた亡者に煮えた血を流し入れるという拷問を思いつき、それをいたく気に入ったらしい同族たちを、捻じ曲がった角を持つ鬼は少し離れたところからぼんやりと眺めていた。
彼に他の獄卒のような望みは無かった。
獄卒の仕事を嫌悪しないものの、拷問を楽しむ思考や、下層に行きたいという欲求が彼には欠如していた。
しかし、獄卒であることは間違いなく、彼は獄卒としての在り方を望まれる。
例え欠陥を抱えていようとも、獄卒とは地獄によって役割を割り振られて作られた存在である以上、彼にはそれに準ずる義務が生じるのだ。
故に欠陥を抱えた鬼は拷問を遠巻きに眺め、時折逃げおおせて来る亡者を獄卒の群れに叩き返す事でその義務を果たす日々を過ごしてきた。
「おめぇさん、ちっと河原で石崩してこい」
ある日、鬼は極卒の統括である長老からそんな命令を受けた。
長老は獄卒達がよく生まれてくる地獄の上層で、何千年もの間荒くれる獄卒達をまとめ上げた長寿の獄卒だ。彼にはどのタイミングで獄卒を下層に行かせるかを決める権利が与えられている。
河原で石崩し。それは地獄の極上層、賽の河原で子供らが作る石の塔を壊すだけの業務をしてこいということだ。
普通の極卒にとってはこれは大変に退屈な仕事であり、この仕事を任されることは役立たずであることを意味している。
「……うっす」
もちろんそんなことは言い渡された鬼も承知している。
だが彼には長老からの命令を背く権利もなければ、道理もない。仕事にこだわりも楽しみも見出していない彼にとってはどこだろうがやることがあるのならばそれに従うだけだ。
「おいおい落ち込むなよぉ。ずっと河原に居ろって言ってるわけじゃあねぇんだ。六時間ばっかし石崩したらこっち戻ってこい」
鬼の態度が気になったらしい長老がその強面を不器用に緩めて言う。
「……前任の獄卒はどうなったんですか」
「消えちまった」
獄卒の寿命は有限である。
ある程度生きると、獄卒は地獄に溶けて炎に変わる。その寿命は個体差がありまちまちであるが、賽の河原が担当となる獄卒はより短命となる傾向にある。何故短命になるか、今のところ原因は判然としていない。
「おめぇさんは俺ぁが次の担当決めるまでの繋ぎだ。研修だとでも思え」
「わかりました」
「聞き分けがいいのがおめぇさんの良いところだ」
鬼は金棒を担ぎ、賑わう獄卒達を背に受けて、その場を離れた。
☆
鬼が賽の河原に近づくにつれ、耳に染み付いた悲鳴が遠退き、始めて聞く清らかで静かな水の音が聞こえ始める。
鬼が最初に感じたのは灰色だった。
空は日が差すことのない曇天。
河の水は遠目からでもわかるほど濁り不透明。
河原の石ころに紛れて薄汚れた白い装束を纏った子供の亡者達。
生まれてこの方、赤と黒が支配する光景しか目にしてこなかった鬼の目にはその景色が新鮮に写ったが、それよりも鮮烈な白を見た。
子供の亡者だった。
一点の曇りもない真っ白な長髪を揺らし、しゃがんで石を積む子供らの間を、一人だけのらりくらりと歩いている。
白い子供は、一人の子供の前で立ち止まり、薄らと笑みをこぼしながら言う。
「まぁあなたの塔は歪んでいて酷く醜いわ。そんなものでご両親の為になると思っているのかしら。さぁさぁ早く積みなおして転生を願いなさいな」
白い彼女は子供らの中で一番高くまで積みあがっていた石の塔をつま先で突いて崩してしまった。
崩された子は虚ろな眼差しで石の塔の末路を見送り、さめざめと泣いた。
白色はその子供が爛れた手で塔を作り始めたことを認めると、また亡者の間を歩こうとして、鬼に気づいた。
「あら。はじめましての鬼さんね」
「お前は、なにをしているんだ」
「鬼さん達の代行よ。時間になってもこないのだもの。石を崩す鬼さんがいなくちゃここの河原は石の塔だらけになっちゃうわ」
「お前は亡者だろう」
「亡者よ? 別に亡者が鬼の真似事をしちゃいけない、なんて決まり事はないわ」
「鬼が恐ろしくはないのか」
「皆強面ね。もっと顔の力を抜けばきっとイケメンなのに鬼さん達はもったいないと思うわ」
獄卒の真似事をする亡者を、鬼は初めて見た。
この地獄で笑う亡者を、鬼は初めて見た。
獄卒を恐れぬ亡者を、鬼は初めて見た。
困惑する鬼はただ、目の前にいる少女に見える白い亡者はこの地獄では異質な存在であることだけを知る。
「ところで前まで来ていた鬼さんはどうしたのかしら。一昨日からふらりといなくなったのよ」
「前任は消えた」
「そう……。残念ね真面目な鬼さんだったのに。でも後任の鬼さんが来てくれたのなら、臨時獄卒は終業ね」
一瞬だけ、本当に残念そうな表情を見せたが、すぐに薄い笑みに紛れてしまった。
「次に鬼の真似事をしたら刑期を伸ばす」
「あらそれはいいわね。なら私はずっと鬼になっていたいわ」
「ふざけるな」
「ねぇねぇ鬼さん。私をお手伝いとして雇わない? きっと役に立つわよ」
「十も行かぬ子供に何ができる。とっとと親のために石を積め亡者」
「あら冷たい。仕方ないわね。でも親のための石はもう積み飽きたから、前任の鬼さんに積もうかしら」
風変わりな白い少女は、一昨日ぶりに徒労の石を積む。
何がそんなに楽しいのか、小さく鼻歌を歌い、薄い笑みを零す。