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17話 「抗いの結果」

 ――夜の闇が、時々流れるそよ風が、静寂に包まれた寂寥感のある雰囲気が心地よく肌を叩く。

 懐かしい感覚だ。かつての自分の感情が戻ってきそうだが、それをなんとか抑える。


 一定の間隔で振るわれる太い腕をすり抜けるように避ける少年――ファルベは、自然と笑みを浮かべていた。

 彼は、命のやり取りを行うとき、夜の暗闇の中にいるとき、無意識のうちに口角を上げてしまう癖がある。

 別に楽しんでいるわけではない。嬉しくなっているわけでもない。感情が昂っているわけでもない。心は冷静で、頭は冷えていても、それと関係なく笑みが浮かんでしまう。


 殺しも、殺されも、傷つけるのも、傷つけられるのも全て嫌いになったはずだ。「嫌い」に、慣れたはずだ。


 だが、これも悪いことばかりではない。ファルベ自身は認めないが、笑みを浮かべていることで、たとえ本心からのものでなくても精神的な余裕ができる。


 今もそうだ。一度でも触れれば、或いは掠っただけだとしても、致命傷は免れない攻撃に対し恐怖感を覚えないのも、心のどこかで余裕があるおかげだ。


 見ることができれば、避けられる。反応ができるなら、当たらない。

 そして、攻撃から目を逸らさず見ることができるのも、恐怖に怯えず反応ができるのも、ある種この笑みが一助となっていると言える。


 落ち着いて、背の丈を超える漆黒の巨体を見上げながら、魔物の体毛が何故この色になったのか思い至る。

 元より、気になる点はあった。夜は魔物にとっても活発に動かない時間だ。しかし、熊のようなシルエットのこの魔物は見ての通り、何の不具合もなく動いている。


 つまり、夜行性なのだ。そして当然夜に活動する場合、周囲は暗いことが多い。ならば、その景色に溶け込むために黒色に進化したと考えるのが妥当だろう。


 夜の闇に紛れ、獲物を確実に狩ることができる。それに、ファルベは共感と同じような感覚を覚える。言葉を変えると、親近感を覚えるになるかもしれない。


 何故なら、ファルベは闇に隠れる感覚を知っているからだ。本当に、よく、知っている。


「闇に紛れるのはお前の専売特許ってわけでもないんだぜ」


 直後、ファルベの身体は暗闇に溶けるように消失していく。

 闇はファルベにとっても好都合だ。ある程度自分に付着させる「色」が不自然であっても、暗い景色に合わせて黒く変色させればある程度は誤魔化せるからだ。


 彼は、相手から見た視界の景色と同化するように色をつけることによって擬似的な透明化を果たす、というのはルナに説明した通りだが、それには多大な集中力を要する。

 しかし、それは朝や昼にスキルを使う場合の話だ。夜は先程言った通り、誤魔化しが効くため、余剰分の集中力は他に回せる。


 だから――


「く……そ……ッ!」


 ――こうして、視界から消えている筈のファルベに向かって的確に腕を振るう魔物の攻撃を避けることができている。


「これだから、魔物は苦手なんだよ……」


 人相手なら、視界から消えた時点でファルベが圧倒的に優勢に立つことができる。

 人が現実を認識する主な器官は目、鼻、舌、耳、手だが、その中でも目が果たす役割は大きい。相手がどう動いているのか。どこを見ているのか。そういった情報を最も受け取れるのが目であるためだ。


 だから、視界から自在に消えることができるファルベのスキルは人相手には有力だ。

 といっても、そもそもの前提として――相手が人であれば、だが。


 ファルベは自分の擬似的な透明化をより完全なものにするため、匂いは最小限にまで抑え、服は音が鳴らないような装飾の付いたものや固めの生地は選ばないようにしている。

 人間の五感ではそこまで拘られた擬似透明化を見破れない。


 ただ、魔物はごく普通の動物と同じく人間より鼻がきき、人間より聴力が優れている。

 僅かな匂いすら察知して、小さな衣擦れや足音ですら反応できる。だからこの魔物も視界で捉えられないファルベを追い続けて、攻撃ができるのだ。


 空を切る死の手がファルベの頭の上から振り下ろされる。今までと同じように当たる直前で身をよじり、回避してもいいが、避けてばかりでは相手を倒すことは叶わない。

 重量感のある腕をあえて長剣で受け止める。だが、強引に止めたところで腕の威力にファルベの得物は耐えきれない。鋼でできたそれは受け止めた衝撃によって原型を止めることなく破壊される。


 真正面から受け止めたのなら、そうなっただろう。


 だから、落ちてくる爪を受けた後、剣をずらす。直撃する筈だった衝撃を受け流すように爪の側面をなぞる。金属の擦れる甲高い音を立てながら火花を散らし、暗闇の中に橙色の明かりが灯る。

 剣が爪の横腹をなぞって軌道を変えたため、本来ファルベに当たる筈だったそれは虚しく地面に突き立つことになった。


 腕を振り切って、体勢の崩れたチャンスを見逃す手はない。だが、その皮膚は鋼の刃すら弾く硬度をもつ。いくらチャンスだからといって有効打になり得ない攻撃は行えない。


 大地に突き刺さる魔物の巨腕に足をかけて、ファルベは跳躍する。魔物の腹部を超えて、胸部を超えて、首、顎、口を超えて、彼の狙ったところへ辿り着く。


 狙いは、眼球だ。どれほど強靭な肉体を誇っていても、絶対に鍛えることのできない部位。

 そもそも埒外の強度をもつ魔物にはそんな常識すら通用しない可能性も考慮したが、流石にそこまでの常識はずれではなかったようで、ファルベの得物は少しの抵抗感の後狙い違わず柔い眼球の中に入り込む。


「――――!」


 さしもの魔物であってもその痛みには耐えきれない。

 巨体を大きくのけぞらせて、痛覚を訴えるかのような叫び声を上げる。

 あまりに格が違う強さで近くにいる人間に死を撒き散らした魔物を相手に、一矢報いたことに達成感と少しの安堵感を抱いて地面に着地する。


 剣で刺した右目からは血が吹き出し、止血でもしようとしているのか、両手でそこを押さえているが、血液が溢れ出る勢いは止められない。


 そこから追撃を仕掛けようと再び得物を構える。が、それは実現することなく中断刺せられる。


「まだ結構元気だな……お前。そろそろ帰ってくれてもいいってのに」


 ファルベはそんな軽口を叩く。彼の言葉を聞き入れることはないと理解していても言いたくなってしまう。


 何故なら、魔物の瞳には、明確な怒りの色が表れていたからだ。先ほどまでの「狩り」ではない。己の糧にしよう、自らの戦闘経験を積もうというものではなく、ただひたすらに、「殺す」その一点のみを重視した目だ。


 ファルベの浮かべていた笑みが乾く。彼の今の心情を端的に表すなら、マジでやばい、が適切だ。

 脳に警鐘が鳴り響く。ファルベの本能が、今すぐに逃げろと叱り付けている。


 だから、なのか。憤怒と憎悪で埋め尽くされた魔物が、さっきまでとは明らかに違う速度で接近してくるのに、反応が遅れた。


 初動からミスを犯したファルベは回避不可と判断し、無謀だと分かっていても、攻撃を受け止めるべく長剣を構える。


 だが、そんな防御は圧倒的な暴力の前に呆気なく砕け散る――前に、


 目の前の景色が一瞬にして切り替わる。すぐ前にいた筈の魔物は視界から消え、暗闇に包まれた草木のみになった。


 この現象をついさっき経験した。それは、魔物が出現し、ファルベに攻撃を仕掛けた時だ。危険が迫ったファルベを助けるためにシャルロットが時を止めて彼の体を移動させて――そこまで思考して、気付く。


 背後に柔らかな手の感触。男性の固いそれとは違い、手入れの行き届いた滑らかな肌。その感覚は女性のもので。


「悪い。また助けられたな、シャルロット」


 彼女の名前を呼ぶ。


「いいんだよ。今度は、間に合って良かった」


 シャルロットは優しく微笑むと、安心させるような声でそう言った。



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