I cut all the things which you hate : 8
「私がこの子と出会ったのは、私がまだ物心ついたばかりの頃のことなの」
静まり返った店内で、路城さんは穏やかに言葉を語り始める。
黒い影に止めも刺さず、その目の前で背中を無防備に晒し、僕と日暮に向かい黒い影との想い出を口にする。まるで路城さんが知る黒い影についてのことを一つも零さず掬い上げようとするかのように、ゆっくりと一つ一つ丁寧に言葉を紡ぐ。
「夜行村は本当に何も無い場所だったの。山によって囲まれているからかもしれないけど、テレビは村に一つしかなくて映るチャンネルも限られていたの。お洒落な雑誌やお店も無かったし、遊び場って呼ばれるのはただの広場だったの。あるのは雄大過ぎるくらいの自然だけ。そんな辺鄙で不便な場所だから当然なのだけど、村人は長年この村に住んでいるお年寄りの人だけを残し、他の人は皆村を出て行ってしまったの。同世代子はいなかった。学校では毎日高齢の御爺さんと二人っきりで勉強を教えて貰ったし、遊び場ではいつも一人で飯事やお手玉をしていたの。飯事やお手玉って、瞬君や春音ちゃんには馴染みが無いかもしれないけど、夜行村ではそれくらいしか出来ることが無かったからなの」
僕と日暮を見つめ照れ臭そうに路城さんは微笑んだ。まるで、そんなことしかすることが出来ないほど長閑な生まれ故郷を誇るように、穏やかな笑みを浮かべる。
「父も母も神社の仕事が忙しくて私に構っている暇もなく私は邪魔にならないように外で一人遊ばされたの。時々御爺さんや御婆さんが相手してくれるくらいだったの。勿論、私には有り難かった。六十から七十も違う私なんかに付き合ってくれて日陰で一緒にお喋りしてくれたり飯事したりしてくれたことには感謝もしているの。不満なんてあるはずが無かったの。親は毎日忙しい中私の為に時間を作ってくれた。村の皆は暇さえあれば、私に優しくしてくれた。不満なんてあるはずが無かったの。
けどある日私は思ってしまったの。私は駆けっこや鬼ごっこもしてみたい。一人では出来ないことをしてみたい。喧嘩もしてみたい。少しの間気まずくなってもまた直ぐに謝って前よりもっと仲良くなれるような、そんな相手が欲しいと思ってしまったの。
私は知らずのうちに村に不満を抱いていたの!
…そう気づいてしまった時、私は酷く自分を嫌ったの。
『こんなにも自分は恵まれた境遇にいるというのに、何を望んでいるのか』って」
まるで自らの中にある汚いものを吐き捨てようとするかのように声を荒げる路城さん。先程僕を黒い影との戦闘に巻き込まないように演技した時とは違う、心から溢れ出す気持ちを包み隠さず外へと放つ。
「…そんな不満を抱いて過ごしていたある日、私はこの子と出会ったの。
それは私が村の外れに不法投棄されていたゴミ山を探検しに行った時のことなの。私はこの子を見つけた。見つけた時、この子は動物を模した小さなぬいぐるみの姿だった。所々破れて汚れていたけど、捨てるには可哀想な程度だったの。だから私はこの子を家と持ち帰り、修繕したの。出来上がりは継ぎ接ぎだらけで、お世辞にも上手いとは言えなかったけど、私はその時声が聞こえたような気がしたの。『ありがとう』って、この子が言うのを聞いた気がしたの。今考えると、いくら芸術作品でも喋るように作られていないのだから、気のせいだったのかもしれないけど、当時の私はひどく驚いて、またそれと同じくらい喜んだの。
だって、この子がいれば私は村に不満を抱く理由も無くなるの。友達が出来たから私はもう大丈夫だと思ったの。私は毎日この子と一緒に過ごした。残念ながら、お礼の言葉以来声は聞こえなかったけど、暫くするとこの子は自分一人で動けるようになったの」
愛おしげな表情で優しく黒い影を撫でる。いつしか黒い影も抵抗するのを止めていた。大人しくその場に横たわった状態で、実際どうかは僕にも判断出来ないが、その姿はまるで路城さんの言葉に耳を傾けているようだった。
黒い影の中核である芸術作品《牙を剥く魂》。白黒二つの【勾玉】であるそいつらが、リィベルテのように言葉を発せられる機能を付けられているとは考えられないが、かと言って気のせいで済ませるのも些か性急過ぎると思う。かの天才芸術家が生み出したものなのだ、言葉を発せずとも芸術作品自体には意思がきちんと宿っているのだ。もしかしたら路城さんはその時本当に声が聞こえたのかもしれない。
路城さんはさらに言葉を継ぐ。
「二人で飯事をしたの。二人で鬼ごっこをしたの。二人で村の外れに探検に出かけたの。
二人で喧嘩した事もあったの。二人で泣いた事もあったの。けど、いつも二人で笑っていたの。一人でいた時よりずっと毎日が楽しかったの。不満を抱いていたことすら忘れてしまうほどだったの。
けど楽しかった日々は突然に終わりを告げてしまったの。
数ヶ月前に不法投棄されるゴミの量が深刻化したの。村の人は皆それまでも何度も県や国に訴えかけていたの。けど、県も国も手一杯で訴えは聞いて貰えなかったの。『そんな辺鄙な所に構っていられない』って。さらにはその方が役に立つからと村を潰してゴミ処理所を建てる計画まで出てしまったの。
もう私にはどうして良いか分からなかったの。村の人たちにはもう県や国を相手に出来る力は残っていなかった。村を追い出されるのを待つ事しか出来なかった。
もし村人がお年寄りばかりじゃなかったら。
もし数人でも村を守るために立ち上がってくれる人がいたら。
もし村に温泉や文化遺産など残すだけの価値があったら。
そもそも村が辺鄙じゃなかったら。
…私はまたいつかのように村に対して不満を抱いていたの。
だからなの。私の不満を感じ取って、この子は不法投棄された物を取り込みさっきまでのような禍々しい姿になって、処理場建設の視察にやってくる人や不法投棄する人を襲い始めるようになってしまったの」
全ての元凶が自分にあると訴える路城さん。けれどそれはどうなのだろうか。確かに路城さんは村に不満を持っていたかもしれない。けどそれでリィベルテの説明してくれたように《憤りを正す》ことが出来るのだろうか。今回は変則な力の発現ではあるものの『村に対する不満』に起因するなら、村を破壊すると思う。村に害を及ぼす存在に危害を加えるというのは納得いかない。寧ろ逆に―――
と、突如として黒い影が暴れ始めた。最早残骸と表しても差し障り無い惨めな姿で、黒い影は残った部位全てを揺する。その行為の意味が路城さんから逃れようとする為なのか、それとも、路城さんの考えを否定しようする為なのかは残念ながら僕には分からない。
けれど、そのどちらの意味だとしてもその行為は失敗に終わり、黒い影は逃げ出すことも出来ず、路城さんを諭すことも出来なかった。
路城さんによって黒い影は押さえつけるように胸に抱えられた。きつくきつく抱きしめられてやがては大人しくなった。静寂が戻ると路城さんは再び僕たちに視線を戻す。
「暫くすると、この子は手当たり次第に襲い始めたの。不法投棄されたものを取り込むにつれそれは酷くなっていって、毎晩夜中ずっと木々を圧し折ったり家屋を潰したり地面を陥没させたりするにまで至ってしまったの
村の皆は『神様がお怒りになられている』って怯えていたけど、私にはこの子が苦しんでいるように見えたの。毎晩毎晩、必死に自分自身を押さえ込もうとして、けど出来なくて苦しそうに呻いているように感じたの。
私はこの子を止めてあげたかったの。苦しまないで良いようにしたかったの。だから私は家宝だって言われていた《艮》を無断で持ち出した。元々、親からは『神を鎮める為の物』だって聞かされていたから気休め程度だけど、何かの役に立つと思っていたの」
そこで路城さんは黒い鞘に収められ床に転がされている、黒い日本刀の芸術作品に視線をやる。その瞳からはここまで共に付き合ってくれた作品に対する感謝の感情や愛しむような暖かい感情が込められている。
「私は日本刀を抱えてこの子の説得を試みたの。けど、この子は止まらなかったの。苦しそうに呻きながらその場で暴れて、その時に腕が私に向かってきたの。私は咄嗟に《艮》を抜いてしまったの。この子の腕は縦に割れて、私に怪我は無かったけれど、この子には酷く痛みを与えてしまったの。そんな私の言葉をこの子が聞き入れてくれるはずが無いの。それからこの子は毎晩私の元にやって来て襲ってくるようになったの」
恐らく出合った時見てしまった路城さんの体の青痣は黒い影によって出来た怪我だったのだろう。毎晩何度も黒い影と闘い、影を壊すことも出来ず、その圧倒的な暴力をずっとよけ続けていたのだろう。
「けど、それは当然なの。友達なのに、私の所為でこの子は人を襲うようになって、私の所為でこの子は毎晩苦しんで、私の所為でこの子は傷を負ったのだから、恨まれて当然なの」
自嘲するように路城さんは僕たちに向けて微笑んだ。夕焼けに照らされた路城さんの微笑みは儚げで、まるで今にも消えてしまいそうな印象を僕に与え、背筋に冷たいものを走らせた。
「路城さ――」
「だから!」
僕の言葉を遮って、路城さんは再び声を荒げた。
「だから、この子だけが罰を受けてじゃいけないの! そんな不公平なことがあってはいけないの!」
ゆっくりと路城さんは割れた窓へと近付いていく。両手で抱えた黒い影の残骸が激しく暴れるが、路城さんは止まらない。
虹ヶ崎ショッピングモール二階。二階とは言え、一階のフロアには大きなオブジェや、小さなアドバルーンのようなものを浮かせている為、普通の建物の二階よりは高く設計されている。落ちればまず助からないだろう。
路城さんはあっさりと全身が通り抜けられるような大きな窓の縁で立ち止まり、一言だけ発し、口を閉じた。
「瞬君。春音ちゃん。この子を止めてくれて有難う。それから迷惑掛けて御免なさい」
静かだった。
最早路城さんの言葉だけが明晰に聞こえる。他の音は耳に届かない。それは僕の脳が路城さんの言葉を刻みつけようとでもしているからなのだろうか。路城さんの最後の言葉を。
最後?
最後って何だ。
路城さんの体がゆっくりと外に向かって、傾いていくのが見える。
このまま見殺しにするのか、僕は。
在り得ない。絶対に在り得ない。
穏やかな笑みを浮かべたその表情が次第に見えなくなる。
右足を踏み出す。二つの六面体を投げ出し、手を伸ばす。
距離が在り過ぎ、届かない手。
路城さんの長い漆黒の髪が、風に煽られ上へと靡く。
左足を続けて前へと踏み出し、手をさらに伸ばす。
まだ届かない。
路城さんの足が床を離れた。
右足。空を掴む右手。
僕と路城さんとの距離は絶望的だったのだ。
芸術作品の関わる事件なんてろくなものではない。そんなこと最初から知っていただろう。今回なんて、今まで経験した中でも飛び抜けて性質の悪いものだと分かっていたはずだ。
だから。だからこの終わりだってある意味予想通りだろう。
優しい一人の少女は、厳しい大きな現実に否定された。ただそれだけの話なのだ。
………。
……。
…。
…。
……。
………。
本当に芸術作品の関わる事件なんて、ろくでもない。
そもそも非現実的な力を持つ芸術作品が現実に存在している時点で矛盾を孕んでいるのだ。厳しい現実という言葉は始めから意味を成すはずも無い。
今回の事件に関わる芸術作品は全部で四つ。
事件の発端《艮》。
事件の元凶《牙を剥く魂》。
僕の所持品《導きの箱》。
そして最後に、
日暮の所持品《理想像》。
その能力は《所有者を所有者の望む姿にする、望む力を与える》こと。
「危ない危ない。色んな意味で危なかったね」
黒い影との戦闘で疲れ切っていて、今まで目立たなかった日暮が呟く。
日暮は《艮》を縁のぎりぎりの床に突き刺し、それを左手で掴むことで体を支え、右手はまるで路城さんの体を包み込もうとするかのように形を変えていた黒い影をしっかりと掴んでいた。
「…本当にろくでもないな…」
死んだかと思ったじゃないか。もう少しで本当に後味悪い結末になるところだった。
ふと視線を床に向けると、路城さん救助に一切関わらなかった僕の芸術作品が転がっているのが見えた。
二つの六面体は必死に訴えかけるように飛び跳ねて、僕に猶予を示していた。
残り時間は既に三分を切っていた。