I cut all the things which you hate : 3
黒い影が僕たちの前に現れてまだ十分も経っていないはずだ。けれど、虹ヶ崎ショッピングモール内西館三階部分は見るも無残な状態にまで変わり果てていた。
店を区切っていた壁には大きな穴が開き、全ての店の仕切りが無くなり大きな店へと無理矢理に合併させられている。さらに外が一望出来る大きな窓ガラスは粉々に叩き割ることで開放的にリフォームされ、冬の冷たい空気が容赦無く館内へと入り込んでくる。けれど、決して寒くない。先ほどまで僕たちがいた喫茶店からはコンロでも壊れたのだろうか真っ赤な炎が溢れ出している。その炎の所為で寧ろ逆に熱いくらいだ。出火した事により防火シャッターが下りてきたが黒い影は気に入らなかったのか、力任せに押し曲げて壊し、天井に取り付けられていたスプリンクラーから水が出たことも気に障ったのか、その全てを片手での一撃だけで壊していった。炎に囲まれながら暴れ回る黒い大きな巨体は、正に地獄絵図のようであった。
せめてもの幸いは、その場所に人はほとんどいないと言う事だろうか。
ほとんど。
そう、その場所には、ほとんど人はいない。けれど、ほとんどと言う事は誰もいないと言う事ではなく、少ないけれど誰かがいると言う事で、先ほどから西館三階部分の惨状をまるで見ているかのように描写している僕がその場所にいないと言う事は決して在り得ない訳で。
結局、西館三階部分、黒い影が暴れ回っているその場所には僕と路城さんが残っていた。
「路城さん、もうすぐあいつは二階に下りるみたいです。待ち構えて奇襲をかけましょう 」
「分かったの。先導するから付いて来るの」
二人とも降ってくる煤や埃で全身汚れている。路城さんの巫女服など元が白い為汚れがさらに目立ってしまっている。僕の左手には白と黒の六面体、《導きの箱》が、路城さんの右手には禍々しい妖気を放つ日本刀、《艮》がそれぞれ握られている。
二人で燃え盛る三階から避難し、二階の日用品店が立ち並ぶフロアへと下りてくる。黒い影はまだ暴れ回っているのか、上のフロアから鉄を殴りつけるような鈍い音と、大きな塊が地上へと落ちていくのが窓から見えた。
「さて、何処に隠れれば、奇襲が成功するの? 」
路城さんが煤で汚れた顔を手の甲で拭いながら訊ねる。緊張の所為だろうか、顔中に汗が滲み、表情も酷く強張っている。
まぁ、こんな状況なら当然だろう。あんな得体の知れない化け物を相手にしているのだ。恐らく今の僕の表情だって路城さんのように強張っているに違いない。芸術作品と関わって一ヶ月近くになるが、こんな酷い状況に遭遇したのは今回が初めてだ。今まで僕が目の当たりしたのだって、随分悲惨なものだったが、それでもこれほど酷いものでは無かった。圧倒的な暴力と絶望的な勇力。それらによって壊滅的な破壊が行われ、結果として無関係な多くの人々が傷付くことになった、こんな不条理なものでは決して無かった。芸術作品が引き起こす事が此処まで惨い事だと初めて知った。
「あそこのトイレの影に隠れるみたいですよ」
白のローデッド、黒のシェイブドを手のひらの上で転がす。六面体はいつかのように『十』、『一』、『零』を出して僕と路城さんを導く。一週間前とは全く異なるこの状況。前回はふざけてだったが、今回は真剣だ。失敗すれば、命さえ危ぶまれるかもしれないのだ。
僕が男性側の壁に、路城さんは女性側の壁にそれぞれ身を隠す。それから黒い闇が姿を現すまで、暫く体を休めることにする。肩の力を抜き、床へと座り込む。緊張の連続で心身共に疲れ切っている。上のフロアから聞こえる音が近付いてくるまではゆっくりと休もう。
《導きの箱》。それは未来を予測し、所持者に最良の選択肢を示す芸術作品。『ありとあらゆる物を斬ってしまう』《艮》や『所持者が望む以上の力を与えてしまう』《理想像》などと同じく、事件を引き起こす芸術作品の一つだ。実際、僕もこの六面体が引き起こす事件に巻き込まれ、痛手を負った。
いや、違う。僕と六面体が引き起こした事件だ。
だから、それは自業自得で、因果応報だ。それは自然の摂理で、当然の報いだ。僕が痛手を負ったことに何ら不思議は無い。
けれど、だったら、その痛みは僕が負わなければならかったし、その傷は僕が背負うべきだったと、今でも悔まない日は無い。あいつが痛みを負い、あいつが傷を背負う必要なんて無かった。
それが僕の心に負ってしまった痛手。恐らく、これは一生消えることも無いかもしれない。
けど――
「……ごめんなの……」
物思いに耽っていた僕に向かって、路城さんがぽつりと呟いた。
「あたしが此処に残るって言わなければ、瞬君は巻き込まれる事は無かったの」
ああ、その事か。
今から十分前の事を思い返し、僕は路城さんに「別に気にしないで下さい」と返した。
黒い影が三階に現れた当初、かすみは二メートルを超える巨体から路城さんを守るように背中で庇いながら、視線は黒い影に向けたままゆっくりと後退し続け僕と天木の元へとやって来た。喫茶店や三階フロアにいた他の客は悲鳴を上げ逃げ惑っているのに比べると、かすみのその行動は冷静で落ち着いたものだった。それが功を奏した事が良かったのか悪かったのかは甚だ疑問ではあるが黒い影は僕たち四人を襲う事は無かった。けれど、その代わりに逃げ惑う人の何人かがその太い腕で薙ぎ飛ばされた。人体が軽々と弾き飛ばされ近くのショーウィンドウに突っ込んで止まった。階段に殺到する人波に飛ばされ、バランスを崩した人波が二階へと折り重なるようにようして雪崩れ落ちていった。
三階部分は僕たちのような少年、或いは大人向けのフロアだ。幼い子供向けのフロアじゃない。だからガラスに突っ込んでもないし、人波に押し潰される可能性も低いだろう。それがせめてもの幸い。
幸い?
何が幸いなのだろうか。
ウィンドウに突っ込んだのは足元も覚束ない男の子ではない。高校生くらいのガッチリとした体格の少年だ。全身に細かい切り傷が出来ており、また床に打ち付けられたのか全身を抱えて苦しんでいる。
階段へと投げ飛ばされたのは人形を大事そうに抱えた女の子ではない。旦那も子供もいそうな女性だ。飛ばされた際、女性が下げていた大き目の紙袋から大量の新品の衣服が舞い落ちた。女性は蒼褪めた表情を浮かべたまま飛び、人波にぶつかりそのまま大勢の人と一緒に二階へと雪崩れ落ちていった。落ちていく間、ずっと女性の声で謝罪する声が聞こえた。
一体、これの何処が幸いなのだろうか。傷付いたのが子供じゃなかったからか。怪我をしたのは鍛えていた少年に、ふっくらとした女性だから怪我も少ないからだろうか。
自分で自分に腹が立つ。一瞬でも怪我をしたのが子供で無かった事に安堵している自分に。怪我をした人が生きている事に安心した自分に。そして何より、怪我をしたのが自分で無かった事に胸を撫で下ろしている自分に。
黒い影は未だに暴れ回っている。手当たり次第に壁やガラスを殴り壊し、散乱する物を所構わず投げ回す。
かすみが僕たち三人を背中で黒い影から庇いながら、そっと三人で逃げる事を提案する。
かすみは天木隊四部、その序列一位だ。少なくとも僕たちよりずっと戦闘のプロだ。だからかすみの言う事は正しい。正体不明のあんな化け物を相手に、僕たち三人を庇いながら戦う事など幾らかすみと言えど無理だ。怪我人を助けるにしても、屈強な体格の少年だ。運ぶのも骨が折れる。この場で唯一の僕でもその少年を運ぶのには手間取り過ぎ、かすみにかなりの負担を与える事になるだろう。かすみならばその華奢な体の何処にそんな力があるのか不思議に思える程あっさり重い荷物を持ち運んでいたのを目撃した事があるので、難無く運んでいけるかもしれないが、それだと黒い影から逃げるのに時間を稼ぐ役が必要になる。それに二階には多くの人が残っている。その人々の避難経路の確保をしようとすると、時間稼ぎ役は長時間黒い影を相手にしなければならない事になる。ならば、一旦僕たちだけで避難し、救援を呼び戦う準備を整えてから、怪我人の救助や黒い影の相手をするべきだ。かすみの言う事は正しい。それが最も最善の策。
けれど。
けれど何人かは犠牲になるだろう。一番危ないのは黒い影を相手にしなければならない、かすみ。彼女は『芸術作品』を持っていない。零位の宇月とは違い、かすみは所持者として芸術作品から認められていない。僕の六面体も路城さんの日本刀も彼女の為に力を使おうとはしなかった。その為、使える武器は普通の、心許無い物しか使えない。そんなもので果たして無事で済むのか。芸術作品の引き起こした相手に芸術作品も無しに。
かすみはいつものように穏やかに笑いながら、大丈夫ですよ、とだけ言うだけだった。不安も何も感じていないように、恐怖も何も感じていないように、ただ優しく微笑むだけ。
だけど、その表情は自らの主に心配させない為のものだと僕は知っている。実際、かすみを含めて天木隊のメンバーはどんな状況でもどんな恐怖でも揺るがない。自らが従う主の為に言葉の通り命さえ投げ出す覚悟を持っているのだ。だからかすみはただ微笑み、天木の無事を願う。
「ちょっと、待ってくださいなの。黒い影を引き付ける役は私にやらせて欲しいの」
かすみの笑顔をじっと見つめていた路城さんが、ぎゅっと自らの芸術作品《艮》を握り、決意したかのように口を開いた。
「私なら、私と《艮》なら。あの子が相手でも時間を稼げると思うの」
「けど、路城さんは普通の方じゃ…」
反対するのは天木。当然だ。戦闘の専門家であるかすみでも難しいというのに、高々芸術作品を持っているだけの一般人にそう簡単に任せられる訳が無い。
けれど、路城さんもまた優しく微笑む。
「大丈夫なの。あの子とは慣れているの」
その笑顔はかすみとは違う。犠牲を覚悟している訳では無い。死を恐れていない訳では無い。
それはまるで自分が死ぬ事なんて端から在り得ないと信じているかのようだった。
「それって、どういう――」
「早くするの! 怪我した人に万が一後遺症とか残ったら大変なの!! 」
天木の言葉を遮り、路城さんが語調を荒げて言った。有無を言わさぬ雰囲気。穏やかな性格の路城さんでは在り得ない口調。
僕はかすみに向かって大きく縦に頷く。かすみも僕の言わんとする事を理解してくれたようで、ショーウィンドウに倒れていた少年をやはり軽々と抱え上げて、それから天木を促して二階へと向かう。
「気を付けてねー!!! 」
天木が去り際、ほとんど叫ぶかのように自らの思いを伝えた。
「分かったの。必ずまた淡雪ちゃんに会いに行くの!!! 」
路城さんもまたその思いに言葉で返す。
さて。
「行きましょうか」
僕は路城さんに向かい言葉を掛ける。
「しゅ、瞬君。何してるの!? 瞬君も一緒に逃げるの!! 」
慌てたように路城さんが突っ込む。面白い。どうやら僕が天木たちと一緒に避難していない事に気付いていなかったらしい。
「僕も残りますよ。僕には《導きの箱》もありますし、これで路城さんが傷付くのも随分軽減出来ると思いますよ」
「良いから、瞬君も早く逃げるの!! 」
再び語調を荒げる路城さん。
けど、それは。
「演技ですよね? 」
「はう!? 」
先ほどよりも驚いたらしく、目が大きく見開かれて固まっている。
『声を荒げる』なんて行動は路城さんには似合わない。中央広場で初めて会った時も、喫茶店でかすみにメニューについて訊ねている時も、始終路城さんは穏やかに笑い、親切にされた事を喜び、知らないメニューに目を輝かせていた。あれ程都会に偏見を持っていたのに、初めて会ったばかりだった、路城さんの言う所の都会に住んでいる、この僕に穏やかな口調で人懐っこく話し掛けてくれた路城さんが、そう簡単に怒ったりしないだろう。普段穏やかな口調で話す人が声を荒げれば、ギャップで怒っているように思えるが、そんな演技は僕には通用しない。人の内面を生きてきた人間なのだ、僕は。恐らく、いや間違い無くかすみも天木も気付いていたな。そういう事が身に付く境遇に彼女達もいるのだから。
「演技までして貰う程気を遣って貰ったようですが、僕は路城さんを手伝いますよ。昔から『好奇心旺盛で何にでも首を突っ込む』性格だって親には言われていたので」
つい数十分前まで認めていなかったけど。
けれど、それで納得してくれたのか、路城さんは大きく一つため息をついて《艮》の柄に手を伸ばす。
「仕方ないのです。しっかり私のサポートをお願いするのです」
「了解です」
「その代わり、瞬君の安全は私がしっかり確保するのです」
そう言って路城さんは《艮》をゆっくりと引き抜いた。
曇り一つ無い白銀色の刀身。緩やかな曲線を描いた刀身がその姿を現した。