瑠佳の冒険-2
無機質に黒く輝くその目は、感情を読めなくしていた。白目が無いせいで、どちらを向いているのかわからない。ひたすら不気味だった。
ブラックマンティスとかいう蜘蛛カマキリがカタカタと首を鳴らし、まっすぐに瑠佳目掛けて、網の上を歩いてくる。足と首以外を動かさず、鎌を振り上げたまま近づいてくる。小さな虫でさえ恐怖を感じていたのに、それが大きいとなるとなおさら恐怖は増した。瑠佳の背筋が寒くなった。口の中が乾く。怖い。怖い。恐怖のため、瑠佳は目を見開き、歯を強く噛んだ。
ピクシーのクローバーとダイヤは、危機感などさっぱり感じていないのだろう。笑いながらこちらを見ていた。
私はこんなところで死にたくない。死ぬわけにはいかない。涙で濡れた目で、三角顔のカマキリを睨む。考えろ、何か。何か。しかし、焦るばかりで何も思いつかない。次から次へと頭をよぎるのは、あの鎌で身を引き裂かれる自分だった。首を一刀両断され、頚動脈から波打つ血飛沫が飛び、倒れる自分。鎌で手の甲を貫かれ、悲鳴をあげ、抵抗しようとする気概を削がれる自分。両手両足が無い状態で、無様に這い転がり、少しでも生を長引かせようする自分。
ああ、私は、こんな何処かもわからない世界で死ぬのか。お父さん、お母さんに会いたい。嫌だ、嫌だ、死にたくない。晴夜は私がいなくなっても大丈夫だろうか。晴夜、悲しまないで、私のことなんてすぐ忘れても・・・って、それも嫌だ。私だってこんな世界から、早く元の世界に帰りたいよ。晴夜と一緒に帰りたいよ。
涙で滲んだ視界が、蜘蛛カマキリ一色になった。瑠佳の目の前に、黄色と黒の横縞模様の卵型のお腹が見える。少し顔を上げると、三角顔があった。よく見ると、黒目の中心に一層黒い点があり、それが瑠佳を凝視していた。
後ずさりしようとするも、お尻も手も足も強く引っ張っても、動きそうになかった。無我夢中で手足をジタバタさせるが、少し動いても、糸の粘っこさで戻される。手足を動かすたびに、足や手の皮膚が剥がれそうだったが、痛みは感じなかった。
「ひ!?」
突然、無機質だったカマキリの目が笑ったような気がした。涙で目が滲んでいたせいかもしれないが。ピクシーたちの笑みも視界に入ってきて、目眩で頭がグルグルとした。
蜘蛛カマキリが、ガキンッ、ガキンッと、口元のハサミを打ち鳴らす。両手の鎌を擦り合わせ、鈍い金属の擦れる音を響かせると、続いて、口元のハサミでその自慢の鎌を研ぎ始めた。捕らえた獲物の前で行うその行動は、油断以外の何物でもなかったが、粘つく網で捕らえられた瑠佳にはもうどうすることも出来ず、ただただその行動を見ているだけだった。
動悸が頭の中で響き、冷や汗で濡れ冷たくなった手のひらをギュッと握る。
蜘蛛カマキリが、両手の鎌を見つめ、ようやく満足したのか、頭を振りカタカタと首を鳴らした。
殺される。極限状態の瑠佳は、胸の奥から迫り上がる吐き気を覚えた。
「!!」
すると刹那、体が飛び跳ねた。
「うわーお。♢」
「ばうん、ばうん。♧」
呑気な小年の声が聞こえる。しばらくして、瑠佳は、今起きた現象が、蜘蛛の巣全体が大きく揺さぶられたためだと気づいた。目の前にいた蜘蛛カマキリは、忽然とその姿を消していた。
揺れの余波を体験しながら、瑠佳は辺りを見回し、必死に現状を把握しようとした。異音が聞こえて来たのは、ちょうどその時だった。
ばり、ぼり、ごり、と、硬い殻を砕く音が左耳からを通して聞こえた。そちらに顔を向けると、蜘蛛カマキリのお腹と足だけが空中で見え隠れしていた。そして、殻を破る音がしてしばらく続いたのちに、蜘蛛カマキリの姿は空中に吸い込まれていった。続いて、プリズム光がモザイク状に輝き、それはうっすらと姿を現した。
はじめに目に飛び込んできたのは、ぎょろっとした目。その焦点は左右非対称に動いていた。また、両目の間に二本と鼻先に一本、角が生えていて、茶褐色に太陽光を鈍く反射していた。岩肌と似たようなゴツゴツとした鱗を全身に持ち、背中からはコウモリに似た羽を生やし、尻尾は体の長さと同じほど伸び、それを岩に巻きつけている。鋭い歯が目立つ口元から、桃色の舌がちらちらと覗く事が出来た。
瑠佳がその怪物を観察していると、蜘蛛の巣の中心にある岩が少し欠け、ぼろっと小さな石が落下した。
瞬間、その怪物が口を開けたかと思うと、轟音とともに視界が揺れた。岩がボロボロと崩れていき、空中に張られた蜘蛛の巣が、徐々にその高度を下げていく。
ががががと、土煙とともに巣に貼り付けられたままの瑠佳は、そのままゴツゴツとした地面に尻餅をついた。
「・・・・・・」
思考が追いつかず、また先ほどまで恐怖を感じていたため、瑠佳は強張った顔で、口を固く閉じたまま状況をただただ見守ることしかできなかった。
土煙が風に流され、サーっと晴れていく。土煙がかすかに残る向こうで、怪物が口から岩を吐き出した。吐き出された岩の勢いで、一つ岩山が崩れ落ちた。
「・・・!?」
すると、バラバラに動いていた焦点が、瑠佳の方へと突然ピタッと定まった。
身構えるが、身動きは取れない。蛇に睨まれたカエルのようだ。
しかしその時、二人の妖精の声が聞こえると、瑠佳の狭まった視界は元に戻っていった。
「動いてはいけないよ、瑠佳。♢」
「伸び〜るベロで絡め取られたらおしまいさ。♧」
コクリと頷いた後、瑠佳は怪物をじっと見つめながら、胸が動かないように静かに呼吸をし、待った。
じっと待つこと数分。しばらくして、怪物はその羽を広げると、空へと飛び立っていった。
怪物の姿が遠くの点になったのを確認して、
「はぁ〜。」
と、瑠佳は大きく安堵の息をついた。
「ダメだね、瑠佳。♧」
すると、後ろから妖精たちの声がした。なんだかんだで助けてくれたピクシーたちに礼を言わなくては。そう思い、振り返った瑠佳は、開口したまま、しばし固まってしまった。
「なんで!さっきまで蜘蛛の巣に絡まってたじゃない!どうやって?」
なぜか、ピクシーたちは蜘蛛の巣をいつのまにか抜け出して、空中を優雅に羽ばたいていた。
「あーこれはね。ブラックマンティスの糸は熱に弱いのさ。だから、羽や手を震わせて発熱させれば、簡単に抜けることができるよ。♢」
「早くやりなさいよ!」
瑠佳は、憤慨して、蜘蛛の巣を手に引っ付けたまま涙目でジタバタした。そんなことはおかまいなしに、
「そんなことよりさ、瑠佳。♧」
クローバーが、やけに真剣な表情に変わり、瑠佳の目を見つめた。
「何よ。」
涙目でたじろぎつつも、クローバーを睨み返す。クローバーは、頭を左右に振った。
「はっきり言うと、瑠佳、君はファーブニルに殺されてしまうよ。魔道具が手に入る確率は万が一にもないと思う。♧」
「晴夜もいずれ死んでしまうだろうけど、すぐではないよ。ここで引き返せば、あと少しだけど、瑠佳は晴夜と一緒にいられる。♢」
瑠佳は黙り込む。そんな瑠佳にピクシーたちは畳み掛けた。
「もしも瑠佳が死んでしまったら、晴夜は一人で死んでいくんだよ?♧」
「瑠佳には何もできないよ。♢」
きつく唇を噛む。何もできないなんて、言うな。私だって。瑠佳はピクシーたちを睨んで叫ぶ。
「心配してくれてどうもありがとう。でもね、私は先に進むわ。私はやらなくてする後悔よりも、やって得られる未来が欲しいの。さあ、この蜘蛛の巣を解いてくれる?」
「・・・・・・。♧♢」
クローバーとダイヤは表情を一瞬曇らせたが、すぐに笑顔に戻った。
「ちょっと熱いからね。♧」
瑠佳の両手に、それぞれクローバーとダイヤが手を重ねた。
「・・・んっ」
少し手に粘っこさが残ったが、蜘蛛の巣からは自由になった。ピクシーたちは、同じ調子で糸を溶かしていった。
「ありがとう。なんだかんだで助けてくれて。さあ行こう。」
「うん。行こう。♧」
「すぐ行こう。♢」
ダイヤとクローバーが前を飛ぶ。二人の笑顔は、後ろを進む瑠佳には見えなかった。
進む先の山の上には、薄く白くモヤがかかっている。三人はその先にどんどんと入っていった。
合コンははっきり言って楽しくなかった。あれから、カフェでしばらく昼食を楽しんだ後、カラオケに行って、その後解散という流れだった。男子陣はまだ遊びたい感じだったが、また後日集まろうという話でまとまった。そして、現在、瑠佳は、彩香、舞花とファミレスに寄って、女子会ならぬ反省会、感想会を開いているところだった。
「舞花的には誰が一番だった?」
「うーん、私は道人君かな〜。けど、道人君、なんか瑠佳の事気に入ってる感じだったね。ねー、瑠佳?」
「・・・・・・え?」
ぼーっとしていた瑠佳は、いきなり話を振られて、呆けてしまった。心のモヤモヤが全く消えず、話が全然耳に入ってきていなかった。
「聞いてなかったの?だーかーらー、道人君って瑠佳の事、絶対好きだよって話。」
舞花が頬をふくらませる。
「え?えーと、ごめん。道人君って誰だっけ?」
「信じらんない!名前覚えてないの!?今日来てた茶パーマイケメンのことよ!」
「えーと・・・ごめん。顔はなんとなく分かるんだけど・・・。」
「あっきれた!彩香がせっかくセッティングしてくれた合コンだったのに。」
「まぁ、まぁ、舞花。これでわかったじゃない。」
彩香がなだめると、二人は一瞬見つめあってニヤニヤし始めた。
「な・・・なによ。」
二人が自分のことをニヤニヤと見つめているこの状況がわからない。なぜ、笑わなければならない。
「かわいいなぁ。」
「もっと素直になりなよ。」
「だから、何よ!」
声を少し荒げた瑠佳だったが、舞花と彩香の表情に変化なし。
「傍若無人な女王様も、恋となると別ね。」
「そろそろ気づいたら?瑠佳はさ、あの地味太郎、鈴木君のことが好きなんだよ。」
「・・・え?」
瑠佳は呆然と口を開けて固まった。
「ち、違う!別に好きじゃないし!ただ、小さい頃からずっと一緒にいるってだけで、兄弟みたいなものだし!」
両手をわたわたと振りながら、否定する。
「それなのに、あいつに何があったか知らないけど、急に私のこと無視するようになるし!おかげで周りからごたごたと言われるようになるし!全然あんな奴のこと好きじゃない!」
少し大声になってしまい、周りの席に座っていたお客さん達が注目していたが、興奮して鼻息が荒くなっている瑠佳は気づかなかった。すると、
「はぁ・・・、ちょっと瑠佳らしくないんじゃない?」
と、彩香がなだめるように静かな声で話し始めた。
「いつもの瑠佳だったらさ、良い意味で他人の言うことなんか聞かない、動じないじゃない。ちょっとらしくないよ。」
舞花もつづく。
「友達思いの瑠佳はさ、その人のためだと思ったら、とことん言ってあげる、やってあげるの人じゃん。鈴木君に何かあったのかはわからないけど、何を言われようと、いつもの瑠佳なら気にしないんじゃない?」
突然バンッと音がして、机の上のコップが倒れ、黄色い液体が舞花の服にかかった。原因は、叩きつけられた瑠佳の手であった。
「わかったようなこと言わないでよ!」
騒がしかったファミレスが、シーンと静まり返った。
「瑠佳・・・」
彩香のその声で、瑠佳はハッとして、我に帰った。
「今日はもう帰りなよ。」
舞花の言葉に瑠佳は静かにうなづくと、小さく謝りながら財布から千円札を取り出し机に置き、大勢が注目する中、出口までのランウェイを足早に歩いた。
ザクッザクッと歩くたびに軋む音がする。あたりが吹雪いている景色は数時間変わらない。ゴツゴツの岩肌に雪が降り積もったその景色からは、生命の面影を感じることはできなかった。Tシャツ1枚しか来ていない瑠佳は、その景色と非常に不釣り合いである。しかし、瑠佳は寒さを感じていない。両肩に座るピクシー達のおかげであった。同様に疲れも感じていない。しかしながら、瑠佳の両指先は白く凍り、時々足の力が抜け倒れることがあった。
「まだなの?ファーブニルの財宝がある場所は。」
指先を見るのは怖い。ただひたすら前を見つめる。寒さも疲れも感じないし、それは両肩に乗るピクシー達のおかげであることもわかっていたが、イライラを抑えられない。それは、焦りから生まれるものでも、不安からくるものでも、恐怖により生じるものでも、もちろん怒りが引き起こすものでもあった。
「少し昔話をしよっか♢」
ダイヤの声は相変わらず少年の響きであったが、彼の発する声だけからは理知的な雰囲気を感じた。瑠佳は少し落ち着きを取り戻した。
「昔々、二人の強欲な兄弟がいました。彼らは、裕福だったけど決して満足をしませんでした。あらゆるものを欲しがり、そしてあらゆるものを他人から奪いました。しかし、彼らにも奪えないものがありました。それはその地に住まうドラゴンが守護する魔道具でした。♢」
ぼさっという音とともに、ダイヤの話が中断される。瑠佳が積もった雪の上にこけてしまったからだった。右手の凍っている指が2本欠けた。
「!?」
声にならない悲鳴をあげる。しかし、ダイヤはこけてしまった瑠佳に構わず、淡々と続きを話し始めた。
「ドラゴンが守護する魔道具、それは兄弟が何より望んでいたものでした。兄弟が強欲なのには訳があったのです。彼らの母は重病を患っていました。兄弟は魔道具を欲しました。しかし、ただの人間にドラゴンを倒すのはおろか、守護する財宝を奪うこともできやしない。♢」
瑠佳の目の前で、雪煙が2人の青年に姿を変えた。そのさらに奥でより大きな吹雪がドラゴンを形作っていく。
「兄弟は神に力を求めた。ドラゴンを倒す力を。そして、神に誓約した。」
瞬間、片方の青年がもう片方の青年にいばらが巻きつく剣を突き刺した。瑠佳の目の直前で、何度も何度も突き刺した。
「兄はこれまで何をするにも一緒だった弟を肉塊へと変えた。そして力を手に入れた。♢」
剣を持ち立つ青年の頭が割れ、何かが飛び出した。何かは、急速に大きくなり、その形をドラゴンへと変えていった。そして、奥のそびえ立つドラゴンの首元に噛みつき倒すと、雄叫びをあげた。
「兄は魔道具を手に入れた。けれど、幸せにはなれなかった。病気が治った母は目を覚ましたけれど、兄は怪物に、弟は死んでいるという現実に耐えられず死んだ。強欲な兄は欲したものを手に入れたけれど、代償に大切な人を失った。そして、兄はこれまで手に入れた財宝と、弟と母の死体と共に山へ引きこもった。♢」
目の前のドラゴンは、吹雪に再び戻った。そして、その奥に小さな洞窟が現れた。
よろめきながら、瑠佳は立ち上がる。
「さぁ、瑠佳。あれが入口だ。♢」
「瑠佳はどうするのかな?♧」
2人のピクシーの問いに瑠佳は無言で答える。そしてポケットの中に手を入れ、いばらが巻きついた短剣を取り出し、しばし見つめた後、洞窟の中へと足を踏み入れた。