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雷(いかずち)の君へ

作者: 宇田遥

 宝塚記念の前日、私は神戸の妙光院という寺院にお参りに行った。大分に菩提寺がある私には全く縁のないお寺ではあるが、どうしても来てみたかったのである。ここには日本最大の馬頭観音菩薩があり、その後ろにテンポイントなどの有名馬から無名の競走馬までが供養されている愛馬供養塔がある。その日は競走途中、前脚に重度の脱臼をして不幸にも安楽死処分になった馬の3周忌であり、彼もここに供養をされているのである。私は彼のことを今でも『雷の君』と呼んでいる。


 阪急電鉄の王子公園駅から摩耶の山並みに向けて上り坂が続く。前日、心斎橋のバーで散々飲んだからか、朝まで降っていた大雨で湿度が上がっていたためであろうか、全身から汗がしたたり落ちる。しかも寺院に近づくにつれて2年前のことが思い出され、目からも湿ったものが出てくる。本厄を過ぎた頃から涙腺がかなりゆるくなっているのは自分自身でもよく理解している。

 15分程坂道を歩き、ようやく寺院を見つけた。馬頭観音菩薩の前には20段ほどの階段があり、私はその階段を見上げた。涙腺はすでに崩壊している。


 初めて君と出会ったのは2014年の1月3日の川崎競馬場だった。下の娘が中学受験をしようか思案していた時期だったので、学業成就のダルマを買いに行こうということになり、娘と二人で川崎大師にお参りに行き、その帰りに川崎競馬場に寄ることにした。

 当日、家を出て新宿に着いたところで駅のアナウンスがあった。有楽町駅近くで沿線火災があり、山手線や京浜東北線が運休だということである。正月早々迷惑な事故である。で、仕方なく地下鉄などを利用して川崎大師に着いたのはお昼近くになってしまった。お参りをしてダルマを買い、川崎競馬場に着いたのは5レースが終わった頃になった。内馬場で販売されている評判のモツ煮込丼と私はビールも追加して遅めの昼食をとったのち、今年最初の勝負をすることにした。その時の私は新年最初の馬券勝負でかなり意気込んでいたことは確かであった。しかし、平穏か大荒れか極端な結果のレースが続き、財布は徐々に薄くなっていく。こういう時、普通なら早々に退散するのだが、何故かその日に限って競馬場に居残っていたのでる。これが君と出会うきっかけになろうとはそのときは思わなかった。

 7レースが終わった頃だろうか、その日のメインレース、報知オールスターカップで本来は君に騎乗するはずの下原理騎手と金沢のジャングルスマイルに騎乗する平瀬騎手が規定の時間に到着しないということで騎手の変更が場内にアナウンスされた。どうやら有楽町の沿線火災で新幹線もずっと運休していたようだ。

鞍上変更で君には張田京騎手、ジャングルスマイルは内田利雄騎手が乗ることになった。騎乗変更が発表された時点でも君は一番人気だったはずだけど、私はさすがにテン乗りに疑問を感じて、船橋のエミーズスマイルを軸にした3連複の馬券を購入することにした。ところがこれがまずかった。結果は2周目3コーナーから先頭にたった君は辛くもハナ差で逃げ切り優勝した。騎乗をしていた張田騎手は君のことを知っていたのだろうか? これ以上ないような絶妙な騎乗に見えた。

 兵庫所属の馬はやっぱり強いと思い、自宅に戻って君の戦績をネットなどで詳細に調べると、君は地元の園田ではとても強いが、なぜか中央馬との交流重賞では勝っていない。まるで自分の様に見えてきた。社内の業務はそれなりに無理を聞いてくれる人がいて、得意先の期待に応えることが出来るのだが、外部の入札案件や競争入札には不思議と負ける。しかも君は短期ではあったけど転厩までしている。僕も転職組なのでさらに親近感が湧いてきた。次に関東圏の重賞に出走してきたらまた応援に行こうと思った。

その後、君は佐賀、名古屋、そして地元園田の重賞に出走。やはり君は2回の交流重賞で負けて地元の重賞には勝つ。君は強いはずなのに何故か中央馬との交流重賞に勝てないのか不思議に思った。シャイなのそれとも「人」いや「馬」見知りなのか。

 次に君が出走してきたのは最後になってしまった大井の帝王賞。その日はこのレースが最終レースで会社を早々と抜け出したはずだったが、大井に着いたのは帝王賞の前のレースの少し前になってしまった。2レースしか見ることができないのなら会社近くの後楽園の場外発売所でもよかったのだが、結果的には現地で観戦して正解だった。君は先行する中央勢のすぐ後を追っていたのに4コーナーで突然外にふくれて止まってしまってゴールができなかった。まさかそんな事故が目の前で起きようとは思いもしなかった。勝ったワンダーアキュートの表彰式には大勢の人がウィナーズサークルに群がっていたが、君の事故に気がついた人はどれだけいたのだろうか。

 翌日の朝、駅の売店でスポーツ新聞を買って大井競馬のページをそっと覗いた。結果欄には競争中止としか記載はなかったが、会社のパソコンで調べると骨折のため予後不良ということがわかった。志半ばでの死亡、関係者や馬主さんもそうだと思うが君が一番無念だったのではなかろうか。一度くらいは交流重賞で優勝したかったろうに。


 その後、地方競馬のサイトで君のために献花台が出るということが発表された。地元兵庫だけかと思っていたら、なんと最期の出走になった大井競馬場でも同じ時期に出るというではないか。他場所属の馬の献花台なんていままで聞いたことがない。

「え、うそだろ」

会社のパソコンの前で思わず声が出た。また、君に会えるのか。これは絶対に行かなければと思い、仕事の調整をして大井競馬場で献花台の出る最終日に花を手向けに行くことにした。

大井町駅に降り立ち、駅ビルの中を探したが花屋が見つからない。駅ビルの外、競馬場に行くバス停のまわりを探していたらすぐ近くのスーパーに仏花があったので迷わず購入した。同じバスには通勤カバンとそのような花を持っている人などおらず、恐ろしく滑稽に見えたに違いない。

 15分程で送迎バスが競馬場に着いた。入場口を通りカラフルなネオンが輝く場内のほぼ真ん中、幾分照明が暗くなった場所に献花台と記帳台があった。たくさんの花や人参、ファンが撮影した写真、3歳の時に大井で勝った黒潮盃の優勝レイとゼッケン。本当に君は兵庫所属の馬だったのかと思うぐらいにいろいろな物が置いてある。その時は目頭が熱くなるのをぐっと堪えてしばらく手を合わせた。その後、パドック脇の馬頭観音にも手を合わせて投票所に向かった。そしてその日も君への弔い合戦は叶わずいつものように税金を払うことになった。

 時折、SNSなどを見ていると、兵庫の方では君の一周忌に合わせて思い出話をする会とか開催されたようだが、関東在住の人間には行くこともできず記事を見ながらパソコンの前で手を合わせるくらいしかできなかった。


 妙光院の階段を昇りきり、本堂にお参りして馬頭観音菩薩に向かった。後ろの愛馬供養塔の蔵には遺骨やたてがみが奉納されているのだが、関係者でもない私は中を見ることはできないので、馬頭観音菩薩に一礼をして外からしばらく手を合わせた。父親の墓前でさえこんなに長く手を合わせたことはなかったのに。


 お参りをしたあと、阪神競馬場に向かった。初めての阪神競馬場、場内をしばらく散策し、て2階の投票所に向かった。投票所のモニターには阪神競馬ではなく、私の主戦場である東京競馬の1レースが映し出されていた。芝の1600m戦。モニターで輪乗りのシーンを見ているとゼッケンに君の馬名が見えたような気がした。

「え?」

 白日夢にしてはリアリティがあり過ぎである。

その日は関西版の競馬新聞しか持っていなかったので、東京の午前のレースは小さな馬柱しか掲載されていないし、馬券購入の検討もしていないので見過ごしていた。しかし、新聞をよく見ると冠名が違っていた。

その時ふと思った。そう、君には一度でよかったから芝のレースに出走して欲しかった。コスモバルクのようにはいかなかったろうが、いくつか出走可能なレースはあったはずである。どんな走りをしたのかと思うと残念でならない。

だって君の牝系を辿っていくと戦中のダービーを勝った牝馬クリフジなんだから、きっといいレースができたのでは? と思うのは私だけであろうか。

 さて、私がまた君に会えるのはいつになるだろうか。君の名は「オオエライジン」雷の君へ、またしばらくはお別れだね。




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