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一章

「あれはもう良いんだよ」


 捜査局員に呼び止められた男は、何事かを思い出すようにそう言った。その声に力は無く、疲れが感じられる。


「番号が違ったんだ。関係無いよ」


 嘆息して行こうとする男の腕を、捜査局員が俊敏な動きで掴んだ。挙動が不審であり、犯行を認めていると取れなくもない。それに、番号が違った事は捜査上の重要な秘密だ。手錠を掛け、身柄の拘束を宣言する。


 自身の刑事司法上の権利が読み上げられ、捜査局員が無線で誰かと連絡を取っている間、男は動揺し、混乱していた。何が起こったのか理解出来なかった。


 間も無く捜査局の車が到着し、男は連行された。


 強盗殺人容疑だった。



        *



『ミラクルアクアは何とスーパーアクアの二倍、二〇億円の大チャンス。三一日まで。お急ぎください。なお、ミラクルアクアの売上金の一部は水源の乏しい地域に井戸を掘る活動に利用されます』


 街中のモニターというモニターに新しい夢切符の広告が宣伝される。時刻は二二時を過ぎ、アルバイトを終えた江洲虎吾は後輩の浦路美衣を自宅まで送り届けているところだ。


「また夢狂いですね」


 沈黙に耐え兼ねたように、浦路美衣が江洲虎吾に話し掛ける。内容は広告からの連想だろう。


 夢狂いとは夢切符を狙った強盗事件であり、夢切符とは富くじの一種である。最近は本当に物騒になった。夜間に女の一人歩きは禁物という事で、江洲虎吾が割合に得な役回りを演じている次第である。


「どうして当たるかどうかも判らない夢切符なんか狙うんだ。殺しまでして」


 江洲虎吾が解り切った疑問を呟く。浦路美衣は社会的な問題を解説するのが大好きだ。事実、国内で報道される種類のニュースには明るく、勉強家なのは間違いない。


「雑誌に載ってる当選予想番号が狙われるんですよ。あれって結構惜しかったりもして。それにほら、国民番号情報が流出してて、購入者が特定出来ちゃうんです」


「惜しいって何だよ。例の一〇〇も二〇〇も番号を載せてるやつだろ。どれかしら何かしらの共通点はあるだろう、当選番号と。そもそも国民番号制度なんて誰が始めたんだ。選挙の投票行動まで筒抜けじゃないか」


「サッカーの赤井選手が代表に選ばれなかったのも共産党に投票したからだって言われてます。捜査局の聳登局長も黒らしいです」


「ミーちゃんの話は時々良く解らないよ」


 既に浦路美衣の自宅前まで到着していた。玄関先で無駄話を続けていたら嫌われてしまうだろうか、そんなことを漠然と考えながら江洲虎吾は話を切った。


 ところが浦路美衣が唐突に脈絡の無い話題で会話を続けようとした。


「私、今度の木曜日が誕生日なんです」


「そうなんだ。おめでとう。木曜日っていうと、三日後か。もっと早く教えてくれれば良かったのに」


 今から何かを用意するのは経済的に不可能に近い。文字通り命取りになる。先月分の人工臓器の料金が未払いだ。


「そうやって気を遣うじゃないですか。良いんです。何も要りませんから。それよりも、私、十六歳になるんで、今度の金曜日に、一緒に夢切符を買いに行きませんか」


 金曜日は二人にとって週払いの給料日に当たる。そして十六歳の誕生日とは夢切符購入の解禁日であり、この社会に生きる人間に取って特別な意味を持つ。そして江洲虎吾にしてみれば、一緒に、というのは決して悪い話ではなかった。


「夢切符ねえ、博打は好きじゃないんだよなあ」


 断っていると取られないように口調に注意しながら、江洲虎吾は逡巡を顕わにする。


「え、夢切符、買わないんですか」


 浦路美衣が霞に千鳥か真昼に星空でも見たような顔をする。


「買い方も知らないよ」


 江洲虎吾は目を細め、白い歯を見せる。この社会に生きる人間で夢切符を買わない者などいない。それは呼吸に近い。


「江洲さんって、何歳ですか」


 浦路美衣が狼狽気味の表情で問う。


「今年で二十七」


 江洲虎吾は相手を試すように笑う。経験の違いは明らかだ。楽しんでさえいる。


「買った事、無いんですか。一回もですか」


 大抵の者であれば軽蔑の眼差しを向ける。狂人を見る目だ。しかし浦路美衣の大きな瞳には純粋な驚きの他に何の感情も見て取れない。それが江洲虎吾には心地良かった。そしてそれは意外ではなかった。


「博打は嫌いなんだって」


 嗜好としては好きなんだろう。そう江洲虎吾は思った。そう思う節が彼にはあった。そして彼の父親も夢切符に入れ込んで絶命している。血は争えない。恐かったのだ。


「夢切符はギャンブルじゃありませんよ」


 浦路美衣は大衆好みの常套句を口にする。確かに、法の運用上はそうだ。しかし法律が禁ずる賭博のその法律上の定義とは、言いかけて、江洲虎吾は退屈な話だと思い直した。現実的な話題を選択する。


「一八〇〇円は高いよ。スーパーアクアでさえ一〇〇〇円もしたのに。当たる確率なんて隕石の直撃で死ぬよりも低いよ」


 もっとも、これについて江洲虎吾は科学的な根拠を知らなかった。ただ良く言われる事だ。


「私は隕石より夢切符の方が良いです」


 浦路美衣が謎の宣言をする。何故か目が輝いている。たまに不思議な反応をする。


「選択の問題じゃないよ。どっちも殆ど当たらないんだって。始めは余裕のある中から買うけど、その内に使っちゃいけない分まで使い込んで、それを取り戻そうとして取り返しのつかないところまで行く。そうやって人工臓器の料金が払えなくなって命を落とす人が何人もいるんだよ」


 言いながら、当たらない夢切符に縋るしかない現実も江洲虎吾には良く解っていた。時給六〇〇円では名目七時間、実質一一時間働いたところで所得税四〇パーセントを差し引けば日給は二五〇〇円余りにしかならない。これで人工臓器の利用料が月額で二万円では減税の対象になる公正な生活など到底送れない。この地獄を抜け出す方法は確かに博打で一発当てる事くらいだろう。


「私は大丈夫です。無茶はしません」


 浦路美衣が少し強い語調で断言する。己の計画性、成熟した理性を否定されたように思ったのだろう。当然だ。子供でも知っている事実を変に説教めかした言い方でわざわざ聞かされて気分の良いはずはない。失敗したな、と江洲虎吾は思った。人は常に思考するよりも伝達されることを好む。そして伝達の内容よりも伝達の形式を。


「俺もそう思うよ。ミーちゃんは大丈夫だよ。けど、それにしても、実際の当選者は襲われないのかな。購入者の情報は特定されてるはずなのに。そんな話、聞いた事が無い。料金未払いで人工臓器が停止されて死者が出てるってニュースだって聞かないだろう。結構な問題だと思うんだけど」


 少し考えてから、少し不安そうな、或いは少し不服そうな表情で、浦路美衣が後半の質問にだけに答える。


「交通事故がニュースにならないのと一緒じゃないですか。もっと悪質な、会社の手違いで停止させたりしたらニュースになると思いますけど」


 交通事故、巧い喩えだ。単純に交通事故の死者数を減らそうと思えば法定速度を大幅に引き下げれば良い。だが実際には法定速度は上がってゆく一方だ。移動の減速は必要に相反する。損失が大きすぎるのだ。


 果たして、その損失とは。


「俺達は何を望んでいるんだ」


「え」


「この前の海原原発の事故だって一切報じられなかった」


「げ、原発の事故って何ですか」


 浦路美衣は言葉の響きに本能的に衝撃を受けたようだった。それでいて一瞬だけ周囲を気にするような素振りを見せた。浦路美衣が知らないはずの遠い過去の禁忌、ある種の遺伝がそうさせたのだ。太古の神と新しい神、美しい神話と矛盾する原典。思考と伝達。


「原発が吹っ飛んだんだ。西の方だよ。今では見ようと思えばインターネットで世界中のニュースが見られるんだ。アルワーハなんかだと原発事故のニュースで持ち切りだよ」


「アルワーハって、あっちの方のテレビですよね。英語ですか」


 浦路美衣は自分の知っている話題で何とか精神の均衡を保とうとする。素直なのだ。切ないくらいに。


「首長国連合。アラビア語」


「アラビア語、解るんですか。江洲さん、上級学校行ってますもんね」


「卒業してるよ、上級学校は。アラビア語は習わなかったけど。だから、ちゃんと勉強したわけじゃないから解らない部分も多いよ。でも大変な事になってるのは解る。とにかく大騒ぎだ」


「お金はどうしたんですか」


 どうやら浦路美衣は学校の話がしたいらしい。純粋に相手に対する興味なのか、それとも忌避すべき話題から逃れたいのか。


「内臓が高く売れたんだ。全部健康で。尋常学校の八年生だったかな。それでも随分と借金も残ってる。中退したけど一応は特別学校にも行ったし」


「良いなあ。私は子供の頃に癌で摘出したから売れなかったんです。その分の税金を払わなくて良くなったって親は言ってますけど。友達も皆そうでしたよ」


 それも随分と怪しい話だ、と江洲虎吾は考えた。癌と診断しておいて、治療費は愚か健康な内臓までも手に出来れば、病院としては莫大な儲けが出る。考え過ぎだろうか。それにしても。


「俺の時代は殆どいなかったけどなあ、小児癌なんて。そりゃあ例外はいたんだろうけど、俺の学年には一人もいなかった気がする」


「原発事故の影響ですか」


 浦路美衣が小声で囁いた。顔を近づけてきたので江洲虎吾は大いに焦ったが、質問の内容は取るに足らない事のように思えた。


「事故は最近だよ。ずっと西の方だし。吹っ飛んだって言っても水素爆発で、核爆発とは違うんだ」


「本当に大丈夫なんですか」


 浦路美衣は心配そうに江洲虎吾の顔を見上げる。本当に、痛ましいほどに純粋だ。


 夜も更けていた。江洲虎吾は話を切り上げる事に決めた。半歩後ろに遠ざかって、声のボリュームを少し上げた。


「よし、夢切符か。買いに行ってみようか」


「本当ですか。約束ですよ」


 浦路美衣の表情が輝いた。


「うん。約束。じゃあ、もう遅いから。おやすみ」


「おやすみなさい」


 浦路美衣は笑顔で玄関へ向かった。その扉が閉まるのを見届けてから、江洲虎吾は二人で歩いて来た道を引き返し始めた。

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