幕間 ???
2月11日21時55分-
どうしてわたしがこんな所を裸足で駆けなければならないのだろう。
どうしてあの人やお母さんがああならなければならなかったのだろう。
どうしてこんなにも世の中は生臭さに溢れているのだろう。
何としても逃げ切らなければと思う。
そしてわたしの人生を狂わせた人間達に報いを与えなければ。
逃げる時に持ってきた包丁はもう刃がこぼれて血塗れだった。
人生では色々な初めての体験というものがあると思う。
初めて立って歩いた日。
初めて誰かと喋った日。
初めて人を好きになった日。
初めて女になった日。
そんな過去の日々を顧みながら、わたしは今日初めて人を殺した。
4月16日23時40分
あれから二月が過ぎた。
わたしは復讐する資金と情報を集める為、個人認識チップを物理的に除去し、名前を変えて風俗街へ身を落とした。
運が良かったのか既に終わった事になっているのか、追っ手はかからなかった様だ。
初めてをあの人にあげられた事は幸運だったと思う。
こんな場末で、よく知りもしない脂ぎった中年に奪われずに済んだのだから。
今日も知らない男達に抱かれる事で歩みを進める。
大きな収穫のあった日もある。
わたしを追った人間達と対立している組織の幹部と知り合えた。
事情をぼかして復讐したい旨を伝えると、男が組織のトップに繋ぎをつけてくれのは運が良かったのだろう。
組織のトップは女性だった。
連中を潰してくれるなら互いに利用し合う関係で構わない、彼女そう言うとわたしへの助力を申し出てくれた。
あいつらと似た様な組織の人間を信用など出来ない。
それでもわたしはそれにすがった。
お母さんとあの人に手を掛けた連中を潰せるのならなんでもしよう。
彼女の持つルートのおかげで連中を消す為の材料は揃ってくれた。
薬物を大量投与されて死んだお父さんの様な人を出さない為に、苦労して大学に入って得た知識を、こんな形で使う事になるとは思わなかった。
連中の事務所の前に到着するともう一度だけ手元の武器を確認する。
致死量の筋弛緩剤の塗られたニードルガン。
それと刃渡り25cmの出刃包丁。
あの時に持ちだした包丁だった。
本当ならここにいる全員をお母さんがされた様に刺し殺してやりたい所だったけど、非力なわたしにそれは望めなかったからだ。
事務所の中を掃除するのは思ったよりも簡単だった。
連中は一人を残して皆、まさかこんな事になるなんてという顔をして死んでいった。
たった一人残された男は痩せぎすの男だった。
自分は命じるだけで他人を手に掛けた事など無いのだろう。
わたしが現われた時にも部下を呼ぶばかりで手出しをしてこなかった。
部下を全員始末した事を伝えると男は泣いて命乞いをしてきたのだ。
わたしは応じるフリをして男の手足の腱を破壊してやった。
わたし達をこうした依頼人が誰かという事は既に判っていのだが、わたしは男の口からそれを聞く事に固執した。
泣きながらはっきりと依頼人の名前を言った男に優しく笑みを向けた後、お母さんがされた事をそのまま男にトレースする。
あの日、帰宅したわたしが見たお母さんの遺体の有り様はひどいものだった。
身体中を実験するかの様に切り刻まれ、遊びながら殺されたのが一目で判る殺され方だったのだから。
思い出すと少し吐き気がしたが、やるべき事はしっかりとやらなければ。
出刃包丁が刺し込まれると、男は痛みに泣き叫ぶ。
馬鹿を言うな。
お母さんだって泣いて乞うたはずだ。
わたしの名前を呼んだはずだ。
解体途中で男は気が触れたまま死んでいった。
それでも私は作業をやめない。
作業を終えたわたしは、フラフラと連中の事務所から出て行く。
その足で痩せぎすの男の自宅へ向かい、彼の妻と娘と息子を殺した。
あの男の家族がこのままのうのうと生きている事が許される訳が無い。
一緒にあの世に行けるだけ感謝して貰いたいものだ。
後処理は彼女の部下がやってくれた。
監視なのかも知れないが、わたしの行動を見た彼等は口を揃えてこう言った。
わたしには殺しの才能があると。
そんな事、わたしの知った事では無い。
部屋に戻りシャワーを浴び、ベッドに倒れ込む。
天井を見たわたしは一つ目的を達成した事で薄く笑みを浮かべていた。
人を殺して笑みを浮かべるなど、まともな人間からしたら狂っているとしか思えないだろう。
そう、わたしは狂っていた。
逆に問いたい。
身内を刻む様に殺された人間がまともでいられるのか?
自らも同じ目に遭遇しそうになってまともでいられるのか?
わたしはそれを免罪符に、今日も狂気の階層を一層下って行った。
4月25日01時50分
わたしの人生を狂わせた内の一人が、目の前の病院にいるという。
既に社会的地位を失って心を病んだその男は、外界に出る事を許されなかった。
鉄格子と白い壁に囲まれる生活を不憫に思う人いるだろう。
だがあの男のやった事はその程度の不自由で許される事では無い。
わたしの人生を狂わせた罪は重い。
殺されたところで、自分が何故殺されたかも判断出来ないだろう。
それでもわたしはあの男を許すつもりは無い。
わたしにはその権利があるからだ。
彼女の用意してくれたIDを使って深夜の病院に忍び込む。
男の病室まで障害と呼べる物は存在しなかった。
途中で看護師に出会って誰何されたが、筋弛緩剤を撃ち込んだら倒れて静かになった。
わたしの邪魔をするからそんな目に遭うんだ。
看護師は喉を掻き毟りながら死んでいったが、わたしは悪く無い。
理不尽はいつだって不意に襲いかかってくるという事を教えてやっただけだもの。
わたしが今、こうしている様に。
男の病室のドアを解錠し、するりと部屋へ忍び込んだ。
男は大いびきを立てて眠っている。
いい気なものだなと思うが、それもあと僅かの時間の事だ。
男の腕と足をベッドに縛り付け、口には猿轡を噛ませる。
口で呼吸が出来なくなった事で男が目を覚ますが、わたしは一向に気にしなかった。
身体のあらゆる場所にショック死しない程度の麻酔を射ち、意識と呼吸器以外の感覚を奪う。
男は自分が何をされているのか全く理解していない様だ。
わたしは出刃包丁で男を解体し始めた。
大きい血管を避けて出血は最小限に、そうしながら男の身を文字通り削いでいった。
麻酔が切れた時が楽しみだ。
麻酔が切れ始め、徐々に痛みが脳へと伝達され始めたのだろう。
男が呻き声をあげはじめた。
無傷の顔は汗と涙と鼻水で塗れつつある。
呻き声が悲鳴に変わったであろう頃に、男は勝手に窒息して死んだ。
動かなくなった男を一瞥すると、わたしは闇に紛れながら病室を出た。
既に監視と思われる人間は居ない様だ。
これでまた復讐の完遂に一歩近づいた。
邪魔する人間も同罪だ。
わたしの邪魔をするな。
その日の夜、夢にあの人が現われた。
なんでそんなに悲しそうな顔をしているの?
そうか。
一人でいる事が辛いんだね。
安心して。
全部終わったらわたしもあなたの所に向かうから。
天国と地獄に隔たれるまでは一緒にいよう。
だから待っていて。
5月7日16時45分
人通りの多い場所に来るのは久しぶりだ。
彼女の協力のお蔭でわたしは復讐に専念できる。
知らない男に抱かれる日々はもうたくさんだ。
彼女が何故わたしに協力してくれるのかは解からない。
人殺しの手伝いをして何が楽しいのだろう?
楽しいのだろうな。
わたしが彼女の協力を得る代わりに生じた義務は、一部始終の報告だ。
わたしが報告に現れ、彼女に事細かく手管を説明している時の彼女の顔。
快楽に堕ちた雌の顔をしているもの。
雑居ビルのある部屋の扉を開けると、そこには十数人の男女が居た。
一人の女性に、
「何かご依頼でしょうか?」
と聞かれたので黙ってその場で腹を刺した。
何が起こっているのか判っていない内に他の人々の腹にも次々と出刃包丁を刺し込んでいく。
刃先が肉を掻き分けていく感触にはもう慣れた。
抵抗を試みる男性には筋弛緩剤を多目に使った。
彼等は喉を掻き毟る間も無く絶命していった。
全員の処置を終えると唯一あった扉を開く。
誰か居るなら飛び出して来てもおかしくないはずだ。
扉の先には誰も居ない。
畜生。
目標としていた人物を殺す事は出来無かった。
それでも世の理不尽さを味わう事にはなるはずだ。
次の機会には絶対に逃さない。
わたしは騒がしくなる前に雑居ビルから姿を消した。
5月18日02時20分
ドジを踏んだ。
お母さんやあの人、そしてわたしを殺す様に依頼した一番の大罪人を殺したまでは良かったのだ。
逃走する前に警察局の人間が踏み込んで来た。
病院の一件から足が付いたのだろうか。
同じ企業の人間を狙っていたのだから有り得る事ではある。
警察局の人間はわたしが女でも容赦が無かった。
何故その力をお母さんが殺された時に使ってくれなかったのだろうか?
あと一人殺さなければいけない人間がいるのに!
こんな所で終われないのに!
藻掻くわたしに彼等は群がりながらスタンロッドを振り下ろす。
痛みと衝撃で意識が失われていく。
ああ、わたしの復讐は失敗に終わったのだ。
5月21日13時15分
わたしは精神鑑定を受けた。
わたしは狂っていると医学的にも認められたらしい。
それはそうだ。
狂わなければこんな事が出来る訳が無い。
拘置施設に入れられてはいるが、どうにか隙を探しだして逃げ出さなければ。
捕まってからの三日間はずっとその事ばかり考えていた。
担当係官が房の扉の前に現われた。
こんな狂ったわたしに面会だという。
一体誰がと思ったが、彼女だった。
「元気だった?」
彼女は開口一番、そう言った。
復讐が頓挫したのだ。
元気な訳が無いだろう。
わたしが黙っていると彼女は話を続けた。
このままだとわたしは死刑になるらしい。
当然だ。
十六人も殺したのだから。
だが一人足りない。
足りないんだ。
彼女は自分の提案に乗れば死刑にならずに復讐を継続出来ると言う。
そんな旨い話がある訳が無い。
法律を知っていれば誰でも判る事だ。
だが彼女にはそれを可能にするだけの力とコネクションがあるらしい。
そしてさらに告げられた言葉がわたしを決意させる。
復讐の相手はもう一人いるそうだ。
行方を晦ましていたからしばらく所在を辿れなかったらしいが、存命していたと彼女は言う。
なんだ。
あと一人どころの話じゃない。
わたしの復讐はまだまだ終わっていないじゃないか。
命を懸けても復讐したいかと聞かれた。
わたしはこの悪魔の誘いに乗らなければ何も終わらないのだと悟った。
はっきりとした意思を以って、わたしはイエスと答えた。
5月26日11時50分
拘置施設から出されたわたしは、どこか判らない場所に連れて来られた。
そこで身体を徹底的に検査され、何かを待っている。
あなたは生まれ変わるのだと彼女には言われた。
生まれ変わる必要なんて無い。
殺すべき人間を殺したら直ぐにでも死んでやる。
あの人の所に行くのだ。
お母さんの所に行くのだ。
白衣を着た男達と彼女が姿を見せ、準備はいいかとわたしに問う。
好きにしてくれとわたしが言うと、彼等はわたしを明るくて眩しい場所へと連れて行った。
目が慣れる前に注射された薬品でわたしの意識は底へ底へと落ちていく。
「次に目覚めた時が楽しみだね」
彼女のその声を最後に、わたしは意識を閉じた。
お読み頂きありがとうございました。
引き続きご愛顧頂けると嬉しく思います。
それではまた次回お会いしましょう。
2016.06.14 改稿版に差し替え
第五幕以降は改稿が済み次第、幕単位で投稿します。