幕間 坂口正志《さかぐち まさし》
-西暦2079年6月5日16時20分-
腕が重い。
先輩達は気に入らないもの全部に、こんな風に八つ当たりするんだろうか。
俺はただ自分の出せる力の全部で泳ぎたいだけなのに。
でもあと少しでこのくだらない勝負が終わる。
終わってくれる。
これさえ終われば……これにさえ勝てれば。
もう文句なんて絶対言わせねぇ。
イクロー先生が居なくなってもう半年以上になる。
俺は推薦って形で、先生の母校のEブロック北部第一高校に入学した。
都市大会を見てくれていたここの監督の先生に、うちに来て欲しいと言われた時は本当に嬉しかったんだ。
俺だけじゃなくて、先生も一緒に認めて貰えた気がしたから。
どうにかしてイクロー先生に伝えたかったけどそれは無理だと解かってた……だから先生の妹さんに知らせに行った。
俺は頑張っていくんだって自分に言い聞かせる為に。
あの時だって本当は泣いてしまいたかった。
でも俺はキャプテンだったからそんな事出来やしない。
みんなの前で泣き言なんて言えないもんな。
卒業して俺は一人になった。
水泳部のみんなは近くの高校にバラバラに進学したし、一高に一般入試で入る様な頭の良い連中とは付き合いが無かったからだ。
推薦クラスの連中は気の良い奴が多かったけど、今年の水泳の推薦枠で入ったのは俺だけだったから部活ではいつも一人だった。
一般枠で入部した連中とはメニューそのものが違ったから、仕方無いと言えば仕方無い。
一人でいるのがちっとばかし辛いなって思った時は、職員室の前に飾られている賞状とトロフィーを見に行く事にしている。
イクロー先生が都市大会で優勝した時の物が飾られていて、それを見るだけで俺のやる気に火が入るからだ。
監督の先生も俺の力になってくれてるしな。
わざわざ誘ってくれただけあって、俺の練習メニューはイクロー先生の組んだメニューが可愛く見える位の内容だった。
けど、ちゃんと今の俺の実力に合わせてくれてるのがよく判るから辛くは感じない。
監督はイクロー先生がこの学校に居た頃から、ずっとここで指導を続けているそうだ。
たまに監督の話してくれる、高校生の頃のイクロー先生の話を聞けるのがとても嬉しかった。
俺と同じで、とにかく泳ぐのが楽しくて仕方がなかったみたいだ。
監督が止めても必死に、じゃなくてニコニコしながらきつい練習を消化していったっていうもんな。
ああ、なんか想像できて笑えてくる。
俺も負けてらんねぇ。
そう思えたのも五月の中頃を過ぎる頃までだった。
前日まで何も言わなかった先輩達が、急に俺のメニューに文句をつけ出したからだ。
「坂口よォ、お前だけ随分と特別扱いされてるじゃねぇか。まぁ推薦でここに来る位だから身体を動かす事だけは得意なんだろ? だったらこんなメニューなんて軽くこなせなきゃいけないよなぁ?」
その一言で監督の居ない時間帯の陸トレのメニューが勝手に増やされた。
一度無視したら十人程の先輩に更衣室に連れ込まれて、目につかない場所への暴力を振るわれたのはちっとキツかったかな。
ここ数年無かった推薦での入部だから目をつけられたんだろうか?
先生に言えばたぶん解決するだろうけど、俺は黙っていた。
どうせ隠れて続けられるだろうし、何が先輩達をそうさせるのか知りたかったっていうのもある。
俺は我慢して増えた練習メニューを続けた。
身体への負担も大きかったけど、俺の身体が辛抱強くそれに応えてくれているのが驚く位感じられた。
中学時代のイクロー先生の作ったメニューが、今の俺の身体に下地を作ってくれていたってのを痛感する。
玄関の姿見の前に立つと、入学前と比べると目に見えて身体がでっかくなったのが判った。
保健室に居るフィジカルトレーナーに食うもんの相談に行った時の事もそうだ。
身長を計って貰ったら7cmも伸びていたのには驚くしかなかったもんな。
どおりで身体が軋むと思ったんだ。
六月頭にあるタイム測定会で都市高校総体予選の枠が決まる。
学年関係無しのタイム重視って監督も言ってたし、こんなねちっこい事をしてくる先輩達に負ける気なんてしねぇしな。
絶対に負けらんねぇ。
測定会では先輩達を置き去りにして一番のタイムを叩き出してやった。
当然の結果だと思ってる。
先輩達が強豪だからって胡座をかいてダラダラと練習していた時に、俺はひたすらに身体をいじめ抜いたんだ。
「凄いね、坂口君。前の学校にもこんなタイム出す子いなかったよ。いっぱい頑張ってたもんねぇ」
タイムを取ってくれていたマネの先輩が声をかけてきた。
先輩達に目をつけられた原因の幾らかは、たぶんこのマネの先輩の事なんだろうな。
先輩は父親の仕事の都合で転校して来たそうだ。
通ってたWブロックの高校も急な父親の転勤の都合で受けた高校だって言ってたと思う。
出戻りだー、なんて言ってたから元々Eブロックに住んでたんだろう。
どういう仕事をしてるのか知んないけど、父親の仕事の都合に振り回されるってのは大変だよな。
どういう訳かこの先輩が俺にやたらと構ってくる。
一年生の中で孤立しているのが気になるのか、それとも転校してきて自分も一人だからなのか。
でも先輩が一人でいる所なんて見た事ないけどなぁ。
とにかく俺がプールでポツンとしていると必ず声をかけてくるってのが問題なんだ。
先輩は可愛い。
街を歩けば十人中八人、いや九人の男は振り向くだろう。
そんな可愛い人が放っとかれる訳が無く、コナをかける人達が部活の先輩を含めて沢山いる事は知ってた。
俺に構う様子をチラチラと窺ってた三年の先輩達の目が怖かったもんなぁ。
案の定、測定会が終わった直後に更衣室で先輩達に囲まれた。
「いいタイム出して調子に乗ってるよなぁ。そりゃあ特別メニューで贔屓されてるんだもんな。あの位のタイムは出せて当然だろうよ」
「ゴミみたいな成績でも泳いでりゃいいんだもんな。まともに試験も受けなきゃなんねぇ俺達の苦労なんて、お前みたいな馬鹿に理解出来る訳が無い」
「どうせタイムだって贔屓されてんじゃねーの? こいつ犬塚マネのお気に入りだからな。幾らか差し引かれて記録されてんだろ」
「マネに媚び売るなんてクズだよな。お前の捏造タイムのせいで三年が一人総体に出られねぇんだよ。責任取って土下座して詫びとけ」
「ホラ! 早く土下座しろよ!」
一番ガタイのいい先輩に髪の毛を掴まれて、無理矢理地面に頭を押し付けられた。
流石に我慢強い俺でもこれは許せそうに無い。
あー、もう殴っちゃおうか。
ここまでやられたら暴れた方が絶対楽だよな。
そう思った時、不意にイクロー先生のあの言葉を思い出した。
『自分のやりたい勝負のできる場所に立てる事はとても幸せな事なんだよ? 立てなくなってからじゃあ本当にどうにもならないって事は解かるよね?』
イクロー先生が事故でこの世界から離れなくちゃならなかった事を聞いた時、もし自分がそうなったらって考えたら……何日か眠れなくなったもんな。
それを思い出したら、握った拳から力が抜けていくのが判った。
つまんねぇ事でこんなどうでもいい人間を殴って、水泳を捨てる様な事になるのだけは絶対に嫌だ。
そんな事になるくらいなら土下座でもなんでもしてやる。
「フン! 直ぐに土下座する位の根性しかねぇのに調子に乗るからだ。お前が何かする度にこうなるからな? 嫌だったらとっととやめちまえッ!」
先輩達は一人づつ俺の頭を踏んでいくと更衣室から消えていった。
こんな事でやめてたまるかってんだ。
更衣室のベンチに座ると、冷えた頭で色々と考える。
俺が手を抜いてあの人達の納得するタイムを出すのは簡単だ。
でも他の事ならともかく、泳ぐ事で俺は嘘をつきたくない。
監督に言っちまうのもそうだ。
簡単だけど、部がどうなっちまうか判んねぇもんな。
泳ぐ場所を失くすってのは俺には切実な問題だし。
うーん。
流石にちっとばかしこの状況はしんどいかな……親父がストレスで禿げるって言ってたけど、この歳でそんな心配はしたくない。
プールの照明はまだ落ちてないし、気分直しに少し泳ごうか。
プールサイドに出ると誰かが泳いでいた。
そんなに早くはないけど、のんびりと泳いで気持ち良さそうだ。
いいな。
俺も久し振りにそういう泳ぎ方をしてみようと思えちまう。
でもこんな時間に誰だろうか?
女子みたいだけど……
「あれ? 坂口君こっちに来ちゃったんだ? 泳ぎに来たの?」
は?
なんで犬塚先輩がこんな時間に泳いでんの?
「先輩こそ何してるんスか……こんな遅い時間に一人で泳いで……いくら夏時間になったからって、照明落ちたら帰り道が危ないッスよ?」
「んー、たまにねー。こうやってみんなが帰った後泳いでるのー」
先輩は俺の言ってる事なんてまるで気にしないで、ちゃぱちゃぱと音を立てて浮かびながらそんな事を言った。
「あたしね。そんなに速いタイム出せないから選手は諦めてマネになったけど、やっぱり泳ぐの好きだし。だから監督に頼んで、たまーにこうしてね」
先輩がプールから上がってくる。
先輩の胸は……大きくて……正直、眼福だけど目の毒だ。
俺はとてもじゃないけど直視出来ない。
慌てて振り向いたけど変に思われてないよな?
「……ねぇ坂口君。さっきパドル借りようと思ってね、そ~っと男子更衣室に行ったんだよ。そしたらね、ヒドい話が聞こえてきちゃうじゃない? あたし、見ちゃったんだけどさ……どうしよっか?」
その一言で心臓が跳ねた。
なんだよ、あんな所見られちまったのか……恥ずかしいなんてもんじゃないぞ。
「……別にどうもしなくていいッス。俺の問題なんで」
「…………ふ~ん……でもあんなのが続いたら、いい事なんて何もないと思うんだけどなぁ」
「でも……大丈夫ッス。俺我慢出来ますから。あんなの屁でも無いッスよ」
「ほほう……やっぱり男の子なんだねぇ。うんうん、判った判った。でも……無理だと思ったら何時でも言ってくれていいよ。あたし、ああいうの大嫌いだから」
先輩はそう言って俺の頭をポンポンと二回叩くと、帰り支度を始めた。
叩かれた感触は、何故かイクロー先生のそれによく似ていた。
「今から泳ぐんだったら身体、冷やさない様に。オーバーワークはダメだからね。軽くにしとくんだよ?」
「ウッス」
「じゃあ、あたしは帰るね。また明日」
「ウッス、お疲れ様ッス」
恥ずかしいのやら何やらで、真っ赤になった顔を隠す為にプールに慌てて飛び込んだ。
火照った身体にプールの水が心地いい。
水の中にいれば色んな事がどうでもよくなってくる。
ああ、こうやってずっと泳いでられたらいいのにな。
そうする事で気持ちも持ち直して、気分良く家に帰る事が出来た翌日。
先輩達は踏んではいけない地雷を踏んだ。
「いくら先輩だからって言っていい事と悪い事があんぞ!? 俺がムカつくんなら俺の事を俺に言えばいいだろうが! ……あーもういいよ。どうせ俺があんたらに何言ったって、生意気だの一言で終わるんだろ? あんたら全員と勝負してやるよッ! 一人でも俺に勝てたらこの部も学校も辞めてやらぁ!」
放課後のプールに、思ったよりも大きく俺の声が響いてしまった。
でもここまで馬鹿にされちゃ引けねぇもんな。
絶対に勝ってやるッ!
お読み頂きありがとうございました。
引き続きご愛顧頂けると嬉しく思います。
それではまた次回お会いしましょう。
2016.05.13 改稿版に差し替え
第四幕以降は改稿が済み次第、幕単位で投稿します。