1-2 幸福であるという事
-西暦2078年9月7日12時20分-
郁朗は職員室に戻る途中の水道で手を洗う。
あまり煩くしつけをしなかった母親であったが、歯磨きと手洗いだけにはやかましく、口酸っぱかった。
もはや彼の習性となったと言ってもいい習慣である。
職員室に戻った彼は広い室内の中程にあるティーサーバーでそそくさとお茶を淹れ、ご飯ご飯と念仏の様に呟きながら足早に自身の机に向かい腰掛けた。
二十五歳になったばかりの郁朗は、まだまだ生徒と同じレベルの腹ペコ勢なのである。
(あー腹減って死にそう。今日は当たりかな? 外れかな?)
通勤に使っている大きめのツーウェイバッグから、普通の物よりも二回りは大きい保温用の弁当箱を取り出した。
机の上には余計な物は置かれておらずよく整頓されているせいか、大きな弁当箱が置かれても邪魔になる事は無かった。
我慢の限界なのか手早く弁当箱を開けるとそこには……いかにも新妻が旦那のために愛情を込めて拵えましたという体の、可愛らしく彩られた擬似愛妻弁当だった。
描かれたお兄ちゃん愛してるの文字がどうにも空々しい。
(は、外れにもほどがあるよ……恭子め、最近大人しいと思ったらこれだ……これはそろそろ父さんに叱ってもらわないとダメだな)
実家暮らしの郁朗の弁当は母親か妹のお手製で、彼の午後の生命線であると言っていい。
しかしこの妹が実に困った生き物なのである。
兄である彼にちょっかいを出す為ならば、豪雨だろうと四時起きだろうと全く厭わないという徹底ぶりなのである。
母親は母親で彼女を止める様な真似をせず、その殆どを微笑みと共に尽く見逃している。
それどころかたまに燃焼剤となってその火勢を強めるのだ。
この案件に関しては、郁朗の味方は彼の父親だけであった。
(気を使ってくれてるんだろうけど……さすがにそろそろ勘弁して欲しいかなぁ)
滅入りながらもモリモリと弁当へと箸を運ぶ辺り、郁朗にとって食欲というものはどうにも抗えない欲求なのだろう。
そんな目立つ弁当を食欲最優先で口に運んでいるのだ。
近隣デスクの先輩教員方が、弁当の内容に対して過剰に反応してくる。
「藤代先生の弁当、今日も手が込んでるなぁ。実に羨ましい」
「妹さんも頑張るよね、愛されてるじゃない」
「私もそういうお弁当作ってみたいけど……相手がいないものなぁ……チラッ」
郁朗の事情を知った上でこのザマなのである。
そんな先輩達を相手にしても、我関せずと郁朗は弁当を完食。
茶を一息で飲み干すと、そのまま逃げ出す様に職員室を出た。
(今日の午後は担当授業は無し……か。明日の授業の教材のチェックと練習メニューの作成でもしてのんびりしよう)
郁朗の足取りは普段よりも軽いものとなった。
軽くなった気分のお陰では無いだろうが、準備室に隠してある秘蔵の焼き菓子の事をついでに思い出した様だ。
弁当を軽く平らげておきながら、彼の胃袋はまだ満足していないらしい。
(食後に焼き菓子でお茶出来るなんて、昔の英国貴族みたいだな)
さらに上機嫌となった郁朗は、お菓子お菓子と謎の鼻歌を口ずさむ。
すれ違う生徒達にクスクスと笑われ威厳も何も無い状態のまま、社会科教員準備室へと突入するのであった。
優雅な午後はあっと言う間に過ぎていき、放課後となった。
郁朗の姿は水泳部顧問として、校内の外れに位置する室内温水プールにあった。
彼が赴任する前年に建て替えられたもので、設備は何もかもが真新しく、備品も部員達が丁寧に扱い手入れをしているのだろう。
綺麗で真新しい状態をよく保っている様だ。
大会が近いせいか部員達のテンションが高く、気合の入った声が大きく響き渡って普段とは違うレベルのものとなっている。
そんな部員達を眩しく見つめる郁朗は、ふとこの光景を懐かしく思った。
今ではもう取り戻す事も出来無い……自分が選手として嘱望されていた学生時代のあの日々の事を。
郁朗はかつて、水泳選手としての将来を期待されていた時期があった。
地下都市移住という背景から、国際大会こそ無くなったものの、この時代でもスポーツは大衆の娯楽として愛されている。
スポーツ選手も地表時代と変わらない花形職業として認識されており、郁朗も漠然とではあるがこの世界で戦って日々を過ごせればいいなと思っていた。
だが彼は大学時代にトラックの追突事故に巻き込まれた。
予定表通りに始まった人工降雨の時間帯に外で出たのが悪かったのだろうか。
どうしても急ぎの用事があり、普段より少し多い雨量が落とされている街を歩いていた。
不意に彼の後ろからガリガリガリッ、という音が聞こえたのだ。
何事かと思う間も無く、衝撃とともに急に身体を無理矢理前方に運ばれてしまう。
ガードレールに車体を擦りつけたまま走り続けるトラックの……ほんの僅かな突起部。
数cmもずれれば掠りもしなかったであろうそれに……その日着ていたコートが引っ掛けられると、そのまま一緒に引きずられて行ったのだ。
意識を取り戻した後に聞かされた話ではあるが、トラックが信号の支柱にぶつかって止まるまでに三百メートルもの距離を進んだそうだ。
その間、舗装された道路の上を……彼はずっと引き摺られたまま移動し、その身体の中を粉々に砕かれたのである。
病院に運び込まれた時、彼の意識が当然ある訳は無い。
駆けつけた家族は医者に苦みばしった顔でこう言われた。
『このまま眠り続ける確率の方が高いですね……意識が戻れば予後としては良い方でしょう……』
それを聞いた母親と妹はその場で泣き崩れたそうだ。
幸いにも郁朗はその状態から生命を拾い、意識の回復に成功する。
だが意識が戻ったら戻ったで次に宣告されたのは、歩行すら二度と出来無い可能性が高いという事だった。
当然だろう。
全身余すこと無く骨が折れ、筋肉も削がれている。
更には内臓にも少なくないダメージを負っているのだ。
まともに動けると思える方が不思議だと郁朗本人ですら思ったのだから。
こうして選手としてはおろか……日常生活すら困難になるダメージを全身に負い、郁朗の将来は一度閉ざされる事となった。
家族以外からの諦念や憐憫の視線が時に遠巻きに、ある時には直接ぶつけられる事もあった。
(不思議と涙は出なかったんだよなぁ。悲しくはあったんだけど……)
それでも郁朗の心だけは折れなかった。
普段の柔らかい印象からは考えられない、鬼気迫る姿……そう、何か執念のようなものを以ってして彼はリハビリを続けた。
その努力というには生易しい、もはや苦行とでも言うしかないリハビリ風景は周囲を絶句させる。
郁朗の担当である理学療法士が、逆の意味で匙を投げる程であったのだ。
間違いなくオーバーワークであったそれに、郁朗の身体はよく応えた。
日常生活へ戻るために必要な時間を、医者の予想を一年、半年と覆していく。
妹の悪戯が始まったのも丁度この頃であったと郁朗は回顧する。
彼女なりに郁朗の日常への回帰の一端を担いたかったのだろう。
郁朗本人と周囲の人間のそうした努力の結果、彼は短期間で大学へと復学する。
幸いな事に傷跡は高度な植皮手術のお陰で大きく目立たなくはなった。
それでも風呂あがりなどで血行が良くなるとその傷跡が不意に顔を見せ、時折ではあるが郁朗の周りの人間の心を締め付ける。
彼の戦いを知る人間にとって、あの事故を過去の物にしてしまうにはまだ早過ぎたのだろう。
周囲のそんな想いを知ってか知らずか、大学に戻った郁朗はマイペースにリハビリ中に思い描いた事の実現にかかる。
元々教職を取っていた事もあり、後進の指導をこれからの人生の糧として生きていく事を決めていたのだ。
どうにか大学を卒業し、教員になって今年で二年目。
まだまだ新米ではあるが、彼自身が教師の仕事に大きなやりがいを感じている。
叩き甲斐のある部員達に出会えた事も大きい。
少し舐められている感もあるが、バカにはされていないので良しとしている。
妹の悪戯やそれをスルーする母親には少し頭を抱えるが、彼自身を気遣っての物と思えばそんな悩みも些細なものだと思えている。
(無くした物も大きかったけど……この生活だってそんなに悪いものじゃない)
こうして彼等と何かにひたむきに向かいあっている生活は、一度大きく躓いてしまった郁朗にとって……とても価値のあるものであった。
そして彼はふと思う。
ああ、自分は今幸せなのだなと。
「よーし! 今日はここまでー! 全員で片付けしたら解散していいよー!」
(本当にうちの部員達は元気だなぁ……。いつもの倍の練習してまだあれだけ喋れるのか……)
路線バスの中は実に騒がしかった。
手すりを使って立っている郁朗は、そんな生徒達を苦笑いをしながら見守っていた。
「イクロー先生はさ……メガネ無い方が絶対カッコイイよね」
「いやいやイクロー先生はあのメガネあってこそでしょ、むしろあれが本体」
「あんたらダメだ、全然判ってない。メガネ外すタイミング狙うのよ。さも用事がある風に先生のとこに行って、外した瞬間にニコニコされながらうん? なに? って聞かれてみ? 生徒やめたくなるって!」
「先輩先輩、アタシもメガネ派ッス。いいっスよねぇ、やらかした時にあのメガネの奥の柔らかい目がひんやり笑う感じがもうたまんないッス!」
「「「イクロー先生、変態がいます! なんとかして下さい!」」」
今日は特に残り仕事も無いので帰りのバスが部員と同じになってしまったのだ。
静かに見守ろうにも女子部員達がなんともかしましいのである。
「楽しそうで何よりなんだけどさ、本人が居る前でそれは無いと思うよ? どうしようか、それだけ余裕があるなら明日のスイムロケット十本でいいかな? それともPKCを倍にしてみようか? どっちがいい?」
「たまんないッス……」 「あー、あの目は判るわ」
「いい……いいわ」 「先生、結婚しよう!」
郁朗は反省する様子を見せない彼女達に小さく溜息をつくと、翌日の練習メニューの追加を仕置きとして決定した。
「判ったよ、両方採用って事にするね? 明日の部活楽しみにしてて」
キャーキャー言いながらバスを降りていく女子部員達を見送り、今日の練習で疲れたのか眠ってしまっている坂口の肩を揺する。
「坂口、起きなよ。もうすぐ停留所に着くよ。このまま車庫まで行って寝たら風邪引くよ」
肩を揺すられた坂口は目を覚まし、少しぼやっとすると大きな欠伸をした。
「ふわぁ~あ。最近いくら寝ても寝たりねぇんだよね。なんか病気かな?」
「ただの成長期だから安心しなよ。ただし寝るんならちゃんと夜に寝ないとだめだ。成長ホルモンたくさん作ってでっかくなんないとね」
「それなら大丈夫だわ。家帰って飯食って風呂入ったら後はもう死体だし」
「数学の岩城先生から坂口にちゃんと課題やらせろって僕が怒られてるんだけど……着いたね、降りようか」
郁朗が説教という名目の愚痴を始めようとした時にバスが停車した。
同じ停留所の二人は揃ってバスから降りる。
地下都市でありながら、残暑の空気を再現している極東のこの時期の空気は生温い。
街灯の灯った薄暗い歩道を徒歩での帰路のさなか。
少しだけ汗が滲み始めた頃、不意に坂口が言葉を発した。
「……なぁイクロー先生。俺達次の大会勝てっかな?」
今日のタイム取りで少しタイムが落ちていた事を気にしてか、珍しく不安気な顔で彼が問いかけてきた。
「そうだなぁ。絶対勝てるとは僕には言えないな。他の学校の子達だって坂口達と同じ位か、ひょっとしたらもっと練習してるかもしれないしね」
郁朗は坂口の背中をポンと叩いて言葉を続ける。
「でも前の大会から半年。僕は坂口達に出来るだけの事はしてきたつもりだよ? まぁこの半年で一番タイムを伸ばしてみんなを引っ張ってきた坂口だからこそ、そんな不安の種も出てくるんだろうけどさ」
変わらず不安げな坂口は静かに話を聞いていた。
動き出すにはこれじゃあ火が足りないんだろうな、と郁朗は苦笑いする。
(だったらしょうがない、追い込んであげようか)
「じゃあ坂口が僕に絶対に言われたくない事を言ってしまおうかな……ねぇ、坂口。自分のやりたい勝負のできる場所に立てる事はとても幸せな事なんだよ? 立てなくなってからじゃあ本当にどうにもならないって事は解かるよね?」
郁朗の事情を知る坂口は、彼のその言葉に自身の愚痴を呑んだ。
幼少期から水泳の世界にいた坂口にとって、郁朗は言うまでもなくヒーローである。
彼の過去の栄光も挫折も、幼いながらに自身の事の様に喜び悲しんだ。
彼の赴任の挨拶を朝礼で聞いた時は、飛び上がって大騒ぎし、その場で生活指導の先生に取り押さえられた程である。
それだけに彼の今発した言葉の重さを、教え子の中では一番に理解出来てしまうのだろう。
「ッ……先生そりゃずるいわ……先生にそれ言われてヘタレてたら他の連中に何言われるか判んねぇよ…………なんかさ、大人って卑怯なのな」
「覚えとくといいよ、教師ってのは生徒のためなら卑怯な事でもなんでもやるもんなんだ……受け売りだけどね」
フフンと大げさに鼻を鳴らし、短く刈られた坂口の頭をワシャワシャと撫でる。
「勝ち負けなんてどうでもいいなんて僕は言わない。みんなでやれる事をこれでもかってやってさ、みんなで勝とうよ。負けて得られる物だって勿論あるけどさ、勝つ事でしか得られない物もあるんだから。ただし体を壊さないっていうのが大前提で頼むよ?」
坂口は少しは元気が出た様で、やる気に溢れた目で頷いてくれた。
「ちょっとスッキリしたわ。とりあえず今日は明日に備えて帰って飯食ってグースカ寝るよ。ありがとな、イクロー先生!」
走って帰って行く坂口を見送りつつ、自分の吐いた青臭い台詞に真っ赤になって悶々としながら……ゆっくりと家路につくのであった。
お読み頂きありがとうございました。
引き続きご愛顧頂けると嬉しく思います。
それではまた次回お会いしましょう。
2016.04.29 改稿版に差し替え