1-1 二人目の男
-西暦2078年11月18日15時50分-
「そろそろ目覚めてくれてもいいんじゃないかしら?」
耳触りの良い声が覚醒を促している。
彼は薄ぼんやりと自身の視覚を認識し始めていた。
体の感覚は全く無く、ただ見えて聞こえる、それだけの感覚しか無い。
「よかった、意識は無事に覚醒した様ね。私が見える?」
その声がする方向へ彼が意識を向かわせるとそこにはヒトがいると知覚出来る。
そう人だ。
女の人がいるのだと。
「聴覚は正常、視覚の感度も悪くないわね。二ヶ月も眠り続けていたから心配だったけど、どうやらあなたはうまくいったみたい。ようやく二人目ね……良かったわ」
その女性はそう言うと嬉しそうに彼を見ている。
そんな彼女に対し、彼は何か言葉を発しようと思ったがうまくいかない様だ。
「いいのよ、もうしばらく休んで感覚を馴染ませなさい。休んでいる間に色々と思い出してみるといいわ」
母親の様に優しい声が心地良かったのか、再び彼の意識が暗闇に沈み始める。
そのまま彼は自分が何なのか、そして何が起こったのかを静かに思い起こし始めていった。
-西暦2078年9月7日11時40分-
調光ガラスが自動でブラインドをかけ、段差を持った講義室が徐々に暗くなった。
指定の明度まで落とされたのを確認し、彼は部屋の最後尾に立つ。
教壇の下に仕込まれたAIプレートへ、手元の端末から指示を送信。
彼の今日の授業のメインとなる資料ムービーが、もう間もなく流され始めるのだろう。
教材のタイトルは[激動の世紀末~ピールドサーフェスを乗り越えた極東~]。
どうにもつまらない検証バラエティの様な陳腐な物であった。
『前世紀、1981年2月に地球環境の悪化を懸念した国際連合により、国連内に地球環境監査委員会・EEACが設置されました。事務総長であるロイク=ボードレールの権限とコネクションにより、自然科学におけるあらゆる分野の学者が招集される事になり、当時の地球環境の問題点が浮き彫りにされていったのです』
AIプレートの上に地球の3Dモデルが浮かび上がり、様々な当時の問題が表記されていく。
『まず自然界への無秩序な工業物質の放出による汚染や、無計画な自然開発が陸上の植物資源を危険なレベルで減少させ続けた結果、生態系への影響を与えると同時に、除々にこれ等を破壊していきました』
年間にどれだけの種が地球上から消えたかという細かいデータが映し出される。
『さらに中空に舞った工業物質は地球を温室にし、温暖化による極点の氷床の融解とそれに伴う海面上昇が起こります』
続いて当時の気温と海面水位のグラフが3Dモデルで浮かび上がった。
『その影響による潮流の変化で海洋基礎生産が減少します。先程の植生の破壊と合わせて地球全体の酸素生産量を著しく低下させる事となりました』
酸素供給量のグラフが表示されると、ある年代以降真っ赤になったままである。
その減った数値を取り戻す事は叶わなかったのだろう。
『その結果、オゾン層の破壊量と復元量のバランスが大きく崩れ、一部地域では有害紫外線のレベルが危険な段階にまで迫っていました』
3Dモデルの地球が端々から赤く染まっていき、最後には赤いリンゴの様になってしまった。
『それらのデータの検証が終了した1984年7月、常任理事国の静止を無視し、ロイク=ボードレールの独断による地球環境の非常事態が宣言されました。各国政府や経済界は一時的に混乱を来しましたが、最終的には加盟国の足並みを揃えて対策を始めるという議題が国連総会にて満場一致で採択されたのです』
早くも船を漕いでいる生徒を見つけると、彼はそっと近寄り頭をポンポンと軽く叩く。
船頭を止め振り向いた生徒と彼の目が合う。
少年は申し訳無さそうな顔をして合掌すると、唇だけ動かして『センセー、ごめん』と謝罪した。
少し微笑みながら教壇を指してやると、生徒は頷いてそちらの方を向いた。
『同月、EEACが複数の環境回復計画を提言しますが、採択されたにも関わらず、この期に及んでも自国の利益を追求する国家の存在がこれらの計画の実施を難しくしていました。異なる主義主張を持つ複数の国家が足並みを揃える事はなかなか出来なかったのでしょう』
他にも居眠りしている生徒が居ないか確認すると、彼は再び部屋の後ろの定位置に戻っていった。
『そして1984年9月、決定的な出来事が起きます。国際連合事務総長ロイク=ボードレールが暗殺されました。地球回帰派と名乗る団体が直後に犯行声明と国家との絶縁を宣言します。EEACと環境回復計画の舵取りを積極的に行っていた彼が暗殺された事により、計画はほぼ頓挫する事となるのです』
後年の評価が二分された歴史上の人物の顔写真が投影される。
『その状況の中、当時日本国と呼ばれていた極東は独自に活動を始めます。1985年1月、三井重文内閣の提出した[日本国の環境汚染対策に関する法案]、[国土防衛力拡張整備法案]の二つの法案が、圧倒的多数による与党と一部野党の賛成もあり、両院議会を通過、即時施行されました』
法案の詳細な補足が必要ではあったが、教材が自動的に生徒の端末へその内容を転送、表示してくれている様だ。
彼からしてみれば手間が減ってありがたい事なのだろう。
『この法案に基づいて日本は国際連合を脱退後、居住圏を地下に移す為に注力する事となります。国土防衛も含めたこの計画は[子号計画]と呼称され、当時北海道と呼ばれていた地域の地下の掘削を開始する事となりました。既に経済大国であり技術大国でもあった日本は、国家の持てる限りの技術と予算、それに付随する大量の人員を投入します。過去に様々な災害と戦い続けた日本の技術者達は、足りない技術すらもその執念と開発力によってクリアする事に成功するのです』
当時の新型掘削機械や先端構造材、難易度の高かった工程などが矢継ぎ早に表示されていく。
大部分の生徒は送られてくる捕捉部分以外に興味を持つ事は無い。
だが中には自身の端末へ送られてくる補足以外の、個人的な興味に必要な情報をピックアップしている熱心な者もいる。
オートンと呼ばれるAI重機関連の技術者という職は、それなりに人気のある職業なのだ。
『幸いな事に当時の友邦であった北米・欧州国家群が同調し、追随するかの様に国連を脱退します。主軸となる国家が離脱した国際連合は瓦解、組織として機能する事ができなくなり、1994年6月に消滅する事となります』
彼は教壇まで歩きながら教員用端末の一時停止のボタンに触れ、教材を一時停止させた。
窓のブラインドはそのままにして室内の照明をオンにすると、黄色に近い照明の色が目に強かったのだろう。
生徒達は少し眩しそうにしている。
「とりあえずここまでで質問のある人はいないかな?」
教員である藤代郁朗は教壇に立ち、生徒達の反応を待つ。
Eブロック北部第八一般中等学校社会科教員。
それが彼の肩書であった。
木製柄の樹脂製の机が規則的に並んで段差を作っている中から、生徒の一人が挙手し席を立つ。
「藤代先生、日本は国連を一方的に脱退したんですよね? 元々国連は第二次世界大戦の戦勝国が中心になって設立されたと一学期に習いましたけど、脱退が原因で何か制裁される様な事は無かったんですか?」
「当時の世情の混迷の度合いを考えるとそれはやろうにも出来なかったと考えるのがいいかもしれないね。様々な国家からの圧力はあったみたいだけども、当時の国連は事務総長が暗殺されてまともに舵取りが出来なかったというのが大きかったと思うよ」
補足されるべき項目が抜けている事に気づき、郁朗は少し慌てて追加の説明をする。
「制作会社の不手際かどうかは判らないけど補足資料には表示されていなかったから追加で説明するよー。試験が怖くない人以外はメモしておいてね。えーと、制裁回避の要因として、北米国家の同調がかなり早い時期だった事が大きかった訳なんだけども、この時期が……っと1986年の3月だ。さらに欧州国家群の同調は翌年の1987年だったから日本へ何らかの制裁を要求する事もパワーバランス的にできなかったわけだね。業者側には後でクレームを入れるとして、答えとしてはこんな感じになるけどいいかな?」
質問した生徒は少し微笑みながら頷いて着席した。
「はいはいはい!」
続いてやたらと大きな声をあげ挙手する生徒がいた。
「おや坂口か、珍しいね。ちょっと寝たから元気になったのかな。質問どうぞ」
またかよーという声とクスクス笑う声が講義室の構造上よく響き、クラス全体が少し弛緩した。
「ひでぇよイクロー先生。えーと、俺の爺ちゃんが曾祖父ちゃんに聞いたって話でさ、日本にはその頃軍隊が無かったって言うんだけどそれって本当? さっきのムービーで国土防衛とか防衛拡張整備とか言ってたから軍隊あったんだーみたいに思うじゃん?」
「半分本当だよ。前にやった昭和期の日本国憲法制定の話の時に、紛争解決手段としての戦争を放棄したって話はしたよね? そのため日本は明確な軍隊を持つ事が出来なかったんだ。でも自衛を目的とする武器を持つ組織というのは存在した。名前はそのまま自衛隊なんだけども、さっきの資料にも出てきた三井重文内閣の時に改憲されて、自衛隊が母体となってまず日本国軍が再編成される事になったんだね。それ以降は資料の続きで出てくるから続きを見てもらってからの話になるよ」
「ふーん、そんだけやばい状況だったのに喧嘩の準備しなきゃならないって大変だったんだなぁ」
「そうだね、どうにも人間っていうのは業の深い生物だと思うよ。資料の続きを見るともっとそう思っちゃうかも知れない。でもその歴史があったからこそ、今僕達がこうして生きていられるって事になる訳だから……一概に全否定も出来ないとも僕は思うよ」
「へーい。じゃあ頑張って居眠りしないで見るよ」
坂口はニカッと笑うと席についた。
「他に質問は無いかな? 無い様なら資料の続きを見ようか」
郁朗は室内照明を消していき、資料を再び再生させた。
『日本は友好的な国家に対して、資源の輸入を確約する替わりに地下都市建造技術を段階的にフィードバックしていきました。強固な繋がりを得た国家達は地下都市推進国家群と呼ばれる様になります。一方、地下都市推進国家群の有り様を認めない国家群は、色々な形で手を結び、国連という轡が無くなったのを発端とし、地下都市推進国家群への侵攻を始めます。1997年4月に開戦された東欧州紛争を皮切りに、各地で紛争が勃発しました』
当時の世界地図が映しだされ、様々な地域で青と赤の矢印が衝突した。
『日本もいくつかの紛争に巻き込まれますが、先だって防衛戦力の拡張をしていなければ日本はこの状況を乗りきれなかったのではないかと言われています。地下都市建築用のオートンの簡易AIを軍事転用した軍用オートンの導入により、侵攻国家と比べれば人的損失は少なかったのですが、それでも小さいとは言えない人数が命を落としました。この時点で日本の人口は五分の三にまで減っています』
前世紀の人口推移グラフが表示されると、その急落ぶりに何人かの生徒が息を呑んだ。
『紛争や地球回帰派のテロ、環境汚染の進行など様々な障害を乗り越えた2002年9月、地下都市Sブロックの落成を切っ掛けに地下都市への第一次入植が開始されました。それ以降も地下都市の拡張は順調に行われ、2018年12月の最終入植をもって生活圏の完全移行が宣言され、計画が完了する事となります。そして地表は生命体の居住できない不毛の大地となりました。ここまでの出来事が現在はピールドサーフェスと呼ばれ、最終的に日本の人口は五分の二に、世界の総人口は五分の一にまで減少したものの、人類の滅亡だけは回避され、危機的状況を乗り越える事に成功したのです』
進行した海面上昇により海抜0mが変わった世界地図が表示され、そこに三十箇所ほどの光点が宿る。
『現存する地下都市は大小合わせて世界で三十二箇所となりました。国家としての名称は消え、日本も極東にある人類生存地区という事で、地下都市極東と名乗り始めます。所有戦力の名称が日本国軍から極東軍に変更されたのもこの時期でした。各地下都市は単独での生存サイクルが確立されているため、現在各都市間の繋がりはとても希薄なものです。陸続きの都市間は小規模の連絡用トンネルを繋ぎ、極東の様な四方を海に囲まれた地域は海底ドッグから小型潜水艇での往来が細々と続けられる事となっただけにとどまりました』
郁朗が時計を見ると、あと五分程で授業時間が終了するタイミングであった。
キリのいいタイミングだったので、そのまま資料を停止して授業のまとめに入る。
「はい、ちょっと中途半端な所で終わっちゃうけど、今日はもうあんまり時間残って無いから次回に回すね。相当殺伐とした時代だったと思うんだけども、先人が希望を絶やさなかったおかげで僕達はここにいます。人間のどんな行為もちょっとしたきっかけで起こってしまうという事を覚えていて欲しいかな。それじゃあ今日はここまで。続きは明後日の授業でやります」
生徒達は立ち上がり授業終了の挨拶をした後、講義室をぞろぞろと出て行く。
「えっと坂口。ちょっといいかな?」
郁朗は同様に部屋から出ていこうとした坂口を呼び止める。
こちらに近づいてきた彼の襟首を捕まえ説教を開始する。
「あのね、坂口……さすがに授業中にイクロー先生は無いと思うんだ」
「ご、ごめん……ついね、つい」
坂口は申し訳無さそうに謝る。
「君のその距離感は嫌いじゃないけど、部活中ならともかく授業中はもう少し敬意を払って欲しいかな。次やったらわかってるよね?」
郁朗は自分の掌に向けてゴッ! ゴッ! と指を弾き当てて、およそデコピンとは思えない様な鈍い音を坂口に聞かせた。
「いやほんとごめんって! それだけは勘弁してよ……先生のデコピン死ぬほど痛ぇんだもん」
「判ればよろしい。それと今日二百メートルのタイム取るからちゃんと昼飯食べなよ? 前みたいに飯代浮かせるとか言って昼飯を抜いて、バカみたいにプールにプカプカ浮く事にはならない様に、いいね?」
「アイサー。次の大会まで時間無いしね、気合入れていくよ。じゃあね」
坂口はヒラヒラと手を振ると部屋を出て行った。
これから昼食で騒然となるものの、いつもの平穏な学校の……そんなよくある退屈な日常の一コマであった。
お読み頂きありがとうございました。
引き続きご愛顧頂けると嬉しく思います。
それではまた次回お会いしましょう。
2016.04.29 改稿版に差し替え