7-26 喪失を越えて
-西暦2079年8月6日11時45分-
郁朗が隠す事を諦めた様にした発言。
何かを喪失したという彼のその言葉の意味を、片山は計り兼ねていた。
唐沢から聞かされているエクスドライブの後遺症の話が彼の脳裏によぎる。
水名神に回収した後の簡易検査、アジトに戻った後の精密検査。
そのどちらにおいても、郁朗の脳の物理的な欠損……つまり運動野や言語野の脳細胞の破損は見られなかったと聞かされている。
問題なのは『聞かされている』という事だ。
細かい内容を知っているのは郁朗とC4、そして唐沢だけなのである。
戦後処理に追われて多忙であったという事もあるが、差し当たり大きな障害が残っていないという安心感もあって、郁朗の状態については片山もついつい後回しにしていた。
そうしている内にあれよあれよと全員の新型装甲への換装が決定し、郁朗の身体は刷新される。
片山の最初に感じた違和感は、単に新しい機体に馴染んでいないだけだろうと感じられる程に小さいものだった。
だが数日の動作慣熟訓練を経て、その違和感は少しづつ膨らみ大きくなり始めた。
この機体において自身の踏み均してきた道程を考えれば、郁朗の動作の慣熟速度があまりにも遅いのだ。
そうして膨張を続けた違和感は肥大の限界を迎え、片山に先程の言葉を吐かせる事となったのである。
「ここなら人払いも盗聴防止もされてるからな。誰かに聞かれる心配も無いだろう。他の連中はともかく、俺はお前等の身柄を預かってる人間だ。身体に違和感がある事をな……いつまでも黙ってられちゃあ困るんだ。それは判るな?」
元は千豊の執務室だった密室を借り受け、片山は郁朗との面談を開始した。
郁朗がここまで頑なに口にしなかったという事は、それ相応の内容なのだろうと彼が判断したからだ。
「……そうだね……欧州行きも決まってるんだ。抱えてる不安要素は取り除かないとマズいとは思ってたし」
「で……何があった……いや、何が起こった?」
「……僕が甲斐との決着をつけるのに使った……」
「……エクスドライブか?」
やはりそうなのかと、片山は自身の予想が当たってしまった事を歯噛みする。
「うん。原因はあれだよ…………検査で脳の神経細胞体自体には問題は無かったんだ。細胞そのものにはね」
「…………」
「でも……細胞同士で情報を伝達しているシナプスが欠落してるって……唐沢さんはそう言ってたかな」
「シナプス……?」
片山にとっては聞き馴染みの無い言葉だったのだろう。
彼は郁朗に説明をする様、首を傾げるだけであった。
「んー、要はさ。僕の脳は記録してるデータの幾つかを、今までみたいに呼び出せない状態になってるって事なんだよ。あの戦いが終わって水名神で目が覚めた時から……身体が思った様に動かせないんだ」
脳に存在する神経細胞。
ニューロンと呼ばれるそれは、電脳端末における記録媒体……つまりはデータバンクと同じである。
様々な情報を長期記憶する為に、人はこれらを脳内に作り出す。
そしてそのニューロン同士が、シナプスと呼ばれるニューロン自身から伸びる一部分の伝達により結合され、脳内に記憶のネットワークを構築するのだが……今の郁朗はその結合に必要なシナプスを部分的に喪失している状態なのだ。
つまり日常の小さな記憶の剥落は勿論、身体を動かすという部分においても問題が発生している。
記憶が経験として動作にフィードバックされず、身体そのものがエクスドライブ使用前の様には機能していない。
ある一つの動作を行ったという記憶があるのに、その動作に関する記憶に繋がらないと言えば判りやすいだろうか。
「記憶もね……少しあやふやなんだよ。家族の名前やみんな事、僕が今やるべき事の記憶は欠落してないんだ。でも……」
「でも……? 何だ?」
「……生徒達の名前を何人か思い出せなかったのは……かなり辛かったかな」
彼にとっては、生徒達の存在は戦う為の源泉の一つであった。
守るべき者の幾つかが、彼の中から消失してしまったのである。
記憶の方はどうにもならないとしても、身体動作の話はピンと来るものがあった。
以前の機体の時に感じ、抱える事となったフラストレーションの事だ。
機体の神経伝達が上手く機能しなかった事で、出来るはずの動作に届かなかったもどかしさ。
その何とも言えない苛立ちというものを、彼なりに理解出来たのだろう。
「元には……戻んねぇのか? そのよ……C4達の医療技術でどうにか――」
この組織と関わっている以上、誰もがその発想に行き着く事となる。
だが郁朗は郁朗の現状に萎縮しながらそう言った片山に対し、首を横に振り否定の意を示すだけだった。
「薬物でシナプス自体の再生成は出来るらしいんだけどね……それをやると、今度はニューロンの方がどうなるか判らないってさ」
「じゃあよ……俺達が元の身体に戻る時に使う記憶転写の技術ってのはどうなんだ?」
「僕もその事は唐沢さんに打診してみたんだけどね……問題外だってさ」
「……何でだ?」
「地球人向けに調整されてる機材じゃ、僕達EOの遺伝子改造された脳には未知の要素が多すぎるんだって。事故の可能性が高くて使えないそうだよ。それにさ……そもそもだよ? 今の僕の脳に使うにしたってさ、移すべき元の記憶ネットワークが存在しないじゃない?」
「そりゃあ…………そうだよな……」
「EOの脳向けに再調整するのを待ってたら……欧州の作戦は終わっちゃうんだってさ。困ったもんだよね……ハハハ」
元々その様な分野に明るく無い片山にとって、手段の是非を判断出来る材料など何も無いのだろう。
だが諦念の感情の乗った郁朗のその笑い声は、彼の心を打ちのめすのに十分な悲哀を含んでいた。
「……どうにもなんねぇのか?」
「…………」
黙って俯く郁朗を見た片山まで俯き出してしまう。
「まぁ……希望が無い訳じゃないんだけどね」
クックックと小さな笑い声と共に肩を揺らし、郁朗はそう言い放った。
「はぁ?」
当然片山はその態度を訝しむ。
彼の口にした言葉を反芻すると、先程までの萎れた空気はどこへやら。
ガシリ
片山の右腕は神速の勢いで郁朗の頭部を鷲掴みにした。
「ちょっ! ゴメンッ! ゴメンって、団長ッ!」
「人が心配してシュンとしてやりゃあ……それを最初に言えッ!」
ギシギシと音を立てて軋む自身の頭部装甲に不安を感じたのか、郁朗は即座に謝罪した。
やはり片山は冗談でも本気で怒らせてはいけない相手なのだと、彼の中で再認識出来た様だ。
「まったく……前の装甲だったら頭が潰れちゃうところだったよ……今以上に脳が使えなくなったらどうして――ゴメンってば。僕が悪かったよ、団長」
掴まれた部分を生身の時を同じ様に擦りながら文句を言い、反省の色を見せない郁朗だったが、片山が再び腰を上げた事で簡単に白旗を振って見せた。
本来の気安い二人のやり取りに戻った事で、暗く重い空気は払拭される。
「で……? その希望ってのは何なんだ? フザけた答えは無しでな?」
「まぁ簡単な事なんだよ。人の身体でもある事だけどさ、すっかり忘れてた昔の記憶を不意に思い出す事って無い?」
「まぁ……あるな」
「あれってさ、記憶自体は脳に残ってるんだけどね、シナプスが上手く繋がらなくて思い出せなくなってるだけなんだってさ」
「……もっと解かり易く言えってんだ。生憎だが生物やら科学なんやらは赤点だらけで強くねぇんだからよ」
「簡単に言っちゃえば、一回切れた線がまた繋がる可能性があるって事。僕の訓練と運次第って事になるんだろうけどね」
現在郁朗の脳の中では、少なくない数のシナプスが再構築中なのだそうだ。
当然本人に自覚は無い。
脳の環境を保持する為に働いている、グロア細胞と呼ばれる物が人の脳には存在する。
それらは破損したシナプスを覆う様に集まり、その修復に手を貸す事があるそうだ。
彼の脳内でその動きが活発である事が、ここ数日の検査ではっきりとしている。
郁朗が新機体の慣熟訓練に勤しんでいる事で、脳内ネットワークが再構築され始めているのも大きな要因なのだろう。
だが唐沢はそれだけでは無いという見解を唱えている。
郁朗達クロロDNA駆動型のEOの脳の遺伝子は、とある植物から抽出された葉緑体の遺伝子と組み合わされている。
その植物由来の遺伝子が、破損したシナプス群に何か特殊な働きかけをしているのでは無いかという事だ。
唐沢は郁朗にその事実を告げていない。
C4からの止めが入っているという事もあるが、下手に快復に向かっている事を告げると郁朗の事である。
欧州の戦場でも状況によっては、再び形振り構わない手段を選択するに違い無いと皆が思っているのだろう。
それを見越してかどうかは判らないが、欧州行きを許諾する事の対価として、郁朗はある条件を飲まされている。
完全に快復したという確信が得られるまでの間、唐沢によって特殊駆動の一切の使用が封じられる事となったのだ。
現状ではフルドライブの使用ですら、脳への負担を考えれば危うかった。
唐沢からしてみれば、今の郁朗にとってはそれすら自殺行為という事なのだろう。
更にはまかり間違い、再びエクスドライブの使用を彼が決断でもしようものなら、次こそは目も当てられない事態になるに違い無い。
故に当分の間はギミックごと封印する、という事が決定されたのである。
欧州への出発までに郁朗の回復の具合次第では、フルドライブ程度であれば解禁される可能性もあるのだろう。
「唐沢さんが言うには、この程度で済んで運が良かった方だってさ。まぁ……身体の動かし方を学習し直してるって事なんだと思うんだけど…………あれかな」
片山は郁朗の言葉を待った。
「昔の事故の時のリハビリに比べれば、大した事無いって事だよね。身体そのものはこうして動いてくれるんだから、全然楽なもんさ」
「お前ね……」
あっけらかんとそう言う郁朗のその態度は、片山に呆れと納得をもたらした。
(こいつは本当に……ドMなんじゃなかろうかね……)
一年に満たない短い期間ではあるが、郁朗と片山は密度の濃い時間を共にしている。
この程度の事、それも自分の身体の事で折れる様な男では無い、という事を知っているからこそそう思えるのだろう。
(自分の身体の苦境には全く頓着してねぇんだからな……妹ちゃんが怒鳴りつけたくなる気持ちも解からんでもないぜ)
妹である恭子との邂逅の話は郁朗本人から聞かされていたが、片山はなるほどと思うしか無かった。
だが郁朗の精神状態と状況はともかく、彼の抱えている問題には好転の可能性があると判ったのだ。
それだけでも彼にとって大きな収穫であった。
戦力としても小隊の要としても、彼の不在は作戦の成否に多大な影響を及ぼすからだ。
「まぁ……止めたところで止まらん馬鹿だからな」
「ん……? 何か言った?」
極小さく呟いた片山の声は、郁朗の聴覚回路には届かなかったのだろう。
「そんな状態でもあんだけ身体が動くんだ。リハビリの相手をする方の身になれって言ったんだ」
「そんな事言われても困るよ。僕の相手が出来るのなんて、団長かアキラくらいしか居ないんだからさ」
「だったら隠し事はもう無しだ。どう動きたいのか、何がしたいのか出来ないのか。それだけは何もかんも申告しろ。いいな?」
「それは……そうだね、判った。ちゃんと申告するよ」
「動作の状況に合わせて逐一メニューを組んでやる。お前の事だ。生半可な負荷じゃ納得しないんだろ? また一からお前を叩き直さなきゃならんのは面倒だがな、しょうがねぇから付き合ってやるさ」
「面倒臭いなんて言ってられるのも今の内だけだからね? その内地面を舐める事になるんだからさ、覚悟しといた方がいいよ?」
「フン、言ってろ」
話が一段落ついたからだろうか。
二人の間に漂う空気が弛緩する。
空気が緩んだせいでは無いだろうが、郁朗は今すべきでは無い話をつい片山に振ってしまう。
「ねぇ……団長」
「何だ?」
「欧州の作戦……さ。どうなると思う?」
このアジトに居る人間の誰もが考えている事だろう。
だが口に出す者は少ない。
欧州への第一陣に参加するのはE小隊とC4、そして新見のみだからだ。
欧州での策源地となるブリテン諸島の地下都市へ、北米・南米エリアの戦力を糾合しながら向かう事となっている。
この組織に参加している人員は、戦闘班も含めて残留が決定。
随伴する海軍の将兵達も、郁朗達を策源地へと運べば極東に蜻蛉帰りする予定だそうだ。
最低限の安全の確認が取れるまで、生身の人間を欧州に近づけたくないというC4の思惑がある。
激戦の予想は当然であり、その苛烈な戦闘についてこれない人員は必要では無いという、新見の合理的思考もその手助けをした。
当然ながら間崎を含めた戦闘班や、未知の技術に目を輝かせる山中達整備班や技術班からはブーイングが飛ぶ。
『いいでしょう。私と模擬戦をして一撃でも入れられれば連れて行きます。それで納得して貰えますか?』
この新見の一言で騒いでいた人員は口を閉じる。
彼の目に込められていた殺気で、この作戦の危険度を肌で感じたのだろう。
諦めの悪い山中だけが、彼に扱えないレベルまでにピーキーにチューニングされた轟雷を着込み、無謀にも彼に挑む。
当然ながら一撃当てるどころの話では無く、操作不能のまま演習場の壁面に突撃して自爆するという結末を迎えた。
「どうってなぁ……そんなもん、行ってみなけりゃ判らんってのが本音だ。北米や南米の連中と折り合いがつくかの方が……俺にとっちゃ難問だな」
「難しそう?」
「難しいってよりは、どういうやり方で納得させるかって事かね。力を見せつけりゃあいいのか、それとも道理で説くか。何が通用するかも判っちゃいないってのが問題だぜ」
「確かにね……僕達の歴史観でいけば百年近くだけど、実際は六百年近くも関わりを断ってきた訳だしね。どんな形で民族性や人種の有り様が変化してるのかも判らないんだし」
「小難しい事を抜きにして殴り合いで解決出来りゃあ、シンプルでいいんだがよ」
「原始人じゃあるまいし……近代社会を生きる人間として、頑張って対処して貰いたいもんだよ」
「何なら代わるか?」
「寝言は休眠中に言ってよね。僕は僕の事で精一杯になっちゃうだろうからね。無責任に仕事は請け負えないよ」
「だよなぁ……あー面倒くせぁなぁ」
「途中で降りなかったってのが運の尽きなんだろうね。まぁ、出来る事は手伝うからさ。地球解放軍特殊潜入旅団の団長さん」
「その肩書はやめてくれ……」
郁朗の笑い声と片山の溜息は綺麗にシンクロするのであった。
郁朗は進む。
喪失を越えて。
文字通りにその身を削って得た勝利の先に、未だ立ちはだかる様に続く戦いの場に。
まだ見ぬ土地、まだ見ぬ人、まだ見ぬ困難。
あらゆるものが待ち構える、地球を脅かす者の根拠地・欧州。
しばし残された時間で研がれる牙で、その支配を覆す事が可能なのだろうか。
地球一つを挟んだ反対側、魍魎溢れるその地へ向かう為……今はその身に力を溜めるべきなのだろう。
郁朗達はその時を待つ。
イーヴィーへの逆撃の時を。
第七幕及び第一部 完
お読み頂きありがとうございました。
引き続きご愛顧頂けると嬉しく思います。
それではまた次回お会いしましょう。
2016.09.06 改稿版に差し替え