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恋読み鳥

作者: 藤雲涼日

 白く曇った視界を、私は眉を寄せて外した。

 さらにぼやける景色。手探りで眼鏡拭きを取り出し、きゅ、きゅ、と音を立ててガラスを拭いた。

 一時間目が終わって、次の授業が始まるまでの十分間休み。いつもの騒がしい教室で、私はそっと耳を澄ませる。教室の前のほう。眼鏡なしでは同じジャージの集団というくらいしか判別できなかったけれど、確かにそこだ。あの人の、声がするのは。

 気づかれない程度にそちらをうかがう。少し笑いを含んだような低い声は、間違いなくあの人のものだ。ぼやけているはずの視界に、彼だけは浮かび上がって見えた。

 あの人に気付かれなくていい。ただ、ほんの少しだけ見ているこの時間が幸せだった。

 「……い、おいってば! そこの眼鏡女!」

 「なにかしら、筋肉猿。」

 数少ない楽しみを無粋ぶすいにも邪魔してくれた隣の男子に、私は絶対零度の声で返答した。

 「なにかしら、じゃあないだろ? さっきから何回も呼んでるのに、まるで気が付かない! もうちょっと隣人に対する情愛とか……」

 「ご託はいいから、早く要件を言いなさい。」

 「宿題見せてくれっ!」

 「却下。」

 いつものやり取りをしながら、私は眼鏡を再装着した。

 こいつが国語の時間に予習を忘れるのはいつものことだが、今のところ見せたことは、無い。そもそもやってこないのが悪いのだ。

 「いや、そんな! そこを何とか! 隣の席のよしみで!」

 「もう、いつも言ってると思うけど、私は努力しない人間が嫌いなの。別の人に頼めばいいじゃない?」

 そして、時計をちらりと見て、最後の慈悲で隣人に教えておいた。

 「ちなみに、授業まであと一分だけど。」

 「うおぉっと! まずい! ケチだともてねえぞっ。」

 ……最後のはなにか、関係があるんだろうか。

 そんなことをしているうちに、授業開始のベルが鳴った。


 「きりーつ! 礼!」

 『お願いしまーす!』

 「着席!」

 微妙にだれた学級委員の声に従って、毎時間の挨拶が済んだ。

 本日二時間目の授業は、国語。私にとっては最も得意な科目だ。

 この時間から、新しい単元に入る。

 タイトルは――――

 「はい、15番の人! 題名読んで。」

 「平家物語、です。」

 指名された女子が小さな声でぼそぼそと答えた。

 軍記物語、かなりオーソドックスなものだ。一族の栄光と、衰退の物語。

 先生は、元気がない先ほどの女子を咎めたのち、名簿を見て、次に指名する者を決めたようだ。

 「さて、次は25番さん。この冒頭部分を音読して。」

 ――私か。まあ、15番が当たった時点で、来るとは思っていたが。

 音読は、好き。

 その場で席から立つ。

 すう、と息をすると、私はほとんど予習で覚えていた冒頭部分を、それでも間違えないように、丁寧に読み上げ始めた。

 「『祇園精舎の鐘の声、所業無常の響きあり。……』」

 教室の隅まで聞こえるように、はっきりした声で。でも決して怒鳴らずに、聞いていて心地がいいように。

 「『沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりを表す。……』」

 はかなさを声に込めて、でも感情的になりすぎないで。

 「『驕れるものも久しからず、ただ春の夜の夢の如し。』」

 私が出せる、いちばんの声で。

 「『猛きものも遂には滅びぬ。ひとえに風の前のちりに同じ』」

 あの人に、私のこの声が届いて、ほんの少しでも素敵だと思ってくれますように。

 そんなことを考えながら読み上げていたら、最後まで読み切っていた。ノーミスだ。

 席に座りながら、眼鏡の奥でそっと彼のいる方をうかがったが、彼はノートのほうを見ていて、表情は分からなかった。……聞いていて、くれただろうか。

 この教室の誰よりうまく読めた自信はあるけれど、彼に聞いてもらえなければ、どんなにいい朗読も意味はないのだ。

 

 一通り読み終わったところで、次の指示を先生が飛ばす。

 「この冒頭部分の現代語訳はしてきたね? 四人グループで訳の確認をして、終わったら黒板に各グループ書きに来てね。」

 四人で机を向い合せに移動して、話合いをする。よく授業でやるスタイルだ。ただし、私が参加することはあまりない。訊かれれば答える程度だ。

 何故かって、自分で言うのはなんだかむず痒いが、答えをいきなり言ってしまってはいけないからだ。

 暇ではあるが、私はこの時間が好きだった。隣の奴と顔を突き合わさねばならないのは嫌だ。その代り、教室の内側向きになるので、あの人が自然と視界に入るのだった。

 彼は彼で、自分の班の話し合いに参加している。彼の隣の席の女子が、

 「ねー、ここの訳、分かるぅ? 私の訳変になっちゃってー……」

 などと言っているのが、耳に(さわ)る。可愛い子なだけに、甘ったるい声も割と自然に聞こえてしまい、さらに苛立つ。これは(ひが)みだと自覚してはいるが、それでも媚びているようで気に入らなかった。まあ、彼女は私に嫌われようと何とも思わないのだろうが。

 「ぶっはは! なんだよこれ。これはさ、単語の意味が違うだろ。……」

 笑いつつもそれに丁寧に答える低い声と、いたずらっぽい笑顔が胸に刺さる。そんな子に、そんな風に話しかけないでほしくて、そう思う自分が情けなくて、うつむいた。

 「……い、おい、眼鏡女! 返事しろよ。」

 「え?」

 ふと、目の前の筋肉男子が呼びかけているのに気が付いて、はっと顔をあげた。他の二人も不思議そうに私を見ている。

 いけない、ぼうっとしすぎた。

 「ごめん、なんだった? 少しぼうっとしていたの。」

 「おいおい、どうしちまったんだよ。とにかくここの訳、お前のはどうなってるんだ?」

 呆れたようにこいつは言ったが、あっさり流してくれて助かった。

 「あ、そこか。それは、『沙羅双樹の花の色は、盛者必衰の(ことわり)(つまり勢いに乗ってる人もいつか衰退していくってこと)を表す。』ってそのままだよ。意味が分かれば訳はそんなに変えなくてもいい。」

 と、あわてて自分の書いてきたものを読み上げた。嘘は言ってないはず。いろいろはしょって説明したが。


 各グループの訳が黒板に出揃い、それを先生が添削しながら解説していく。

 授業も、残り5分ほど。

 先生が指名するような場面ではないので、生徒たちの一部はメモの回し読みなどしている。

 主な内容は分かっている。私と、私と仲のいい子たちの悪口。

 あまり愛嬌はなく、成績だけはそれなりにとる私は、どうやら女子の間では不人気らしい。仲のいい子は、単に私が口下手で少しばかりひねくれているのだと知っているが、そうでない子たちは私が気に食わないらしい。

 別に、気にしないけど。

 あの人にその話が伝わらないといいな。

 

 「先生!」

 突然、割と静かだった教室で、先生の声をさえぎる声が勃発した。

 低い特徴ある声。それが、今は怒りを含んで響いた。

 この声! 見なくたって分かる、愛しい声の持ち主。

 みんな声のした方を見た。一人の男子が、立って、片手にメモをぶら下げている。そこにいたずら気な笑みはない。

 あの人がいた。

 「どうしたの?」

 先生が驚いたように話を止めて、尋ねる。

 「女子たちが、授業中なのにメモの回し読みしてました。これです。」

 ずいっと、持っていたメモを先生に手渡しに行った。

 女子の数名が顔を青ざめさせている。

 そして、隣の筋肉バカはいつの間にかその女子たちの腕を引っ張って、先生の前に連れて行っていた。

 「どういうことかしら。このメモ、不愉快な内容ばかりね。あなたたちが回していた、ってことでいいの?」

 多数人に目撃されているため、嘘もつけず、彼女らは頷いた。

 先生に報告すればすべて丸く収めてもらえるというほど子どもではないにしろ、叱責は効く。

 もちろん、先生は彼女らをさらし者にする気はないようで、後で職員室にに来るよう言い渡して席に戻らせた。

 「まったく。この子たちだけじゃなく、みんな授業に集中すること! いい?」

 ちらりと、最後のところで先生が私を見た意図は正確には分からない。しかし、少しだけ低頭した。

 「じゃあ、これで授業は終わりよ。学級委員さん。」

 「きりーつ! 礼!」

 『ありがとうございました!』

 そして、先生が出ていくと、教室にはざわめきが戻った。

 それぞれ席を立って、仲のいい仲間のところへ集まりつつある。

 そんななか、あの人は席を立った後、ほんの一瞬だけこちらを向いて優しい笑みを私に投げかけ、すぐに友人たちのところへ歩み去っていった。

 

 

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