番外編~後日談
結局私と社員が逢う約束を取り付けたのは、あの電話から半年後のことだった。お互いに忙しかった事が最大の理由だ。社員は社員で新しい職場に慣れるのに必死だったらしいし、私は私で内面的な意味合いで、忙しかった。つまるところ、感情の整理に追われていた。
自分の中に芽生えた慣れない感情と向き合う。それが此処まで大変な作業だとは思わなかった。親友に怒られるのも道理だ。私は私の事すら、ままならない。これまで自分自身の事を全て後回しに考え、適当に流してきた事を今、猛烈に後悔している。
あの電話の後。半年間ずっと社員とはメールを続けてきた。私は俗にいう筆不精というやつだけれど、社員とのメールは何故だか普段の会話のように弾むから、返す事も苦ではなかった。その理由には、気付かないふりをして。そうしてメールで逢う日程も、場所も全て決めて、やってきた、約束の日が、今日。私は朝から、落ち着かない心臓を持て余していた。
「…はあ、」
「溜め息は幸せ逃げるよー?」
「…逃げるほどの幸せがもうないんだけど。」
「怒られたい?」
カフェテリアの端に陣取って、今日も今日とて私と親友はだらだらとした時間を過ごしている。午後の授業が急遽休講になったせいで、時間が余ったのだ。テーブルに突っ伏すようにして溜め息を吐く私に、容赦ない親友の手のひらが落ちてくる。それに拗ねた声を返せば、明らかに笑っていない声が返ってきて、急いで首を振った。
「何でそんなにそわそわするかなあ…。」
「…だって、」
「まあ分かるけどね。大野さんと会うんでしょ?」
「…うん。」
相変わらず私が人と逢う日は、一発で見抜かれるらしい。おかしいな、今日だって別に誰かと逢うなんて一言も親友に話した覚えはなかったのだけれど。尤も此方から話すには酷く勇気が言っただろうから、察してくれた事に此処は素直に感謝して、甘える事にした。
「…だってね、久しぶりなんだ。何か分かんないけど、緊張、する。」
「理由は分かるけど、ねえ…。」
好きだと気付いてから、始めて逢うんでしょう?そんな親友の言葉に、びくりと震える肩。ああそうだ。認めてしまった感情に振り回されているのだ、私は。怖い。緊張する。何故だろう。あんなにも肩肘張らず、緩い空気感で接していた筈の社員に逢うだけだというのに、何だろう。この、慣れない感覚は。まるで初対面の誰かに、逢いに行く、みたいな。
「無駄に気負わない方が良いってば。気にし過ぎ。」
「…うん。」
そっと髪を撫でられ、それに思わず目を細める。繰り返し髪に触れる親友の手のひらの温度に、そわそわとする心が少し、落ち着いていくのを感じた。本当は分かってる。今さら感情に振り回されたところで、何もならない。ぎくしゃくと居心地の悪い空気を感じるのは嫌だ。そう思うのならば、自覚した感情はどうしようもないのだと割り切るしかなかった。
「何時に待ち合わせなの?」
「んー…向こうの仕事の終わる時間に合わせて行く予定。」
「へえ。」
ちらりと時計を確認する。時刻は午後三時を回ったところ。社員の仕事は今日、五時には終わるとメールには書いてあったから、四時半くらいに社員の職場につけばいいだろう。責任が生まれるから嫌だと私のバイト先を辞めていった社員は、相変わらず飲食店で働いているらしい。社員の地元駅のコーヒーショップ。社員の仕事上がりに合わせて逢うのなら、少し早く行って売り上げに貢献しておこうかと思った。
「あと三十分は少なくとも暇…。」
くあ、と、一つあくびを漏らす。ばたり、とテーブルに再度突っ伏して、そのままの崩れた姿勢で大分温くなったカフェラテを飲む。不味い。テーブルに頬を付けグラウンドを眺めれば、外ではきゃっきゃと声が聞こえてきそうなくらい明るく、はしゃぐ女の子たちが居た。それと比べ私は何なのだろう。ウジウジとした自分自身の思考回路に嫌気がさして、地団太でも踏みたい気分に落ち込んだ。
「まあ頑張りなよ。何もないって言い聞かせる努力をすればいいんじゃない?気楽に!」
「あー…うん。」
よくぞ親友、私の性格を分かっていらっしゃる。どうにもならないのならば自分自身の感情と向き合う努力をすればいいだけだ。何事もある程度頑張ればそれ相応、ある程度の結果は得られる。今までもそうして生きてきた。そうだ、気楽でいられるよう努力すれば良いだけの事。そう思えば少しだけ胸のつかえがとれた気がする。私の思考回路はなんてお手軽に出来ているんだろう。
「…じゃあ、行ってくるね。」
「ん、行ってらっしゃい。」
大学の最寄り駅から社員の職場の駅まではたった三駅。そろそろ行くか、と重い腰を上げ、親友に手を振る。頑張れ、と、無言で発されたメッセージに、小さく微笑んで返した。恐らくは大層弱々しい笑みだったに違いない。
緊張していればいるだけ、どんどんと余裕は削がれていく。目の前にしたコーヒーショップに、心臓が痛いくらいに収縮を繰り返した。ああ、此処に社員が居る。そう思うだけで、痛む胸が腹立たしい。
「いらっしゃいませ、今日和。」
ドアが開くと同時に店の方々から飛んでくる店員の声。その中ですぐに社員の声を拾い上げてしまう私の聴覚。ふらりとカウンターへ歩み寄れば、案の定、レジに立っていたのは社員だった。
「あれ?切原さんじゃん。」
「どうも。ちょっと早いけど来ちゃいました。」
「ん、そっか。」
全国チェーンのコーヒーショップだから、そこの制服を着ている人なんて見慣れているけれど、それでもその制服を社員が身につけている、というのは、なんとも不思議な感覚だった。だって私の記憶の中の社員は、いつだって私のバイト先の制服か、精々私服。違和感にくらりと脳が揺れた気がした。
それでも、浮かべられた笑みは相変わらず社員そのままで。まあ尤も身につける服装だけで表情まで変わってしまったら怖いのだけれど。それでも、ゆるりと細められた瞳に優しく微笑まれて、一瞬、どきりとした。あれ、おかしいな。今までこんな事、なかったのに。
「キャラメルラテのMサイズ。ホットで。」
「畏まりました。」
とりあえずと注文をすれば、私を見かけた瞬間の表情とは打って変わって、仕事モードの表情に切り替わる社員。それに少しだけ淋しさを覚える。これまで真面目に仕事をして、接客を行う社員を正面から見た事がなかった。その接客を受けた事もなかった。当たり前な事なのだけれど、何故だろう。馬鹿馬鹿しいにもほどがある感情に嫌気がさす。会計を済ませ、お待たせしました、と、出されたカップを片手に二階席へと、レジにいる社員を振り返る事もなく上がった。
喫煙の二階席は、割合に混んでいた。尤もこのご時世、喫煙席は貴重だろう。そう思いつつ、喫煙者ではない私は、窓際のこじんまりとした二人がけのテーブルに陣取った。キャラメルラテに口を付ける。猫舌の私には少し熱過ぎたけれど、大学のカフェテリアで飲んだ温いカフェラテを思えば、冷ましてから飲もうとは然程思わなかった。
二階席の窓際は、階下を眺められるから好きだ。駅を行きかう忙しない人混みを見やりながら、携帯を開く。時刻は四時五十分。アドレス帳から社員の名前を呼びだし、喫煙席の奥にいる、とだけ、メールを送った。
「―――切原さん。ごめん、お待たせ。」
社員が現れたのは、五時を少し回った頃だった。着替えやらなんやらで多少時間がかかるだろうと思っていたから、予想外の早さに少しだけ驚いた。いつも通り、何も変わらない社員の私服姿。先ほどまでの見知らぬ人のように感じた制服姿ではないそれに、酷く、安心した。
「もう少し掛かるかと思ってました。」
「ん?いや、女の子を毎回待たせちゃ男が廃るっしょ。」
社員がいうほど待っていない、と言えば、向かい側の席に腰掛けて、手に持っていた珈琲を口にしながら、社員はさらりと赤面ものな台詞を吐く。ああもう。そういうフェミニスト的な発言は、私からすれば慣れないから、こそばゆさを抱くというのに。
「前も切原さんを待たせちゃったし?」
「気にしなくていいですよ。特に今日に関しては私が勝手に早く来ただけですし。」
「それでも、さ。細かいことほど気にするもんなんだよ、男って。」
くつり、と喉の奥で笑う社員の伏せた笑み。カップを持つ指先に、触れたいと、何故か衝動的に思った。それでもそんな内心の感情は表には出さず、社員に合わせ、いつも通りを心掛けながら口元で笑みを形作る。
「面倒臭いですね、それ。」
「そうでもないって。」
「慣れですか?」
「まあ…そういうのもあるかもな。」
言いながら社員は再度カップを口元に運ぶ。珈琲を飲み込む度に上下する喉に、思わず目がいく。そして瞬間思い至った。もしかしたら、社員が私を抱きしめた夜。社員が私に手を伸ばしたのは、今私が抱いてる衝動と似たようなものだったのではないか。でもそうは思えど、真相を聞く訳にもいかないから、何事もない表情を顔に貼り付ける。
そこから終始、下らない談笑を繰り返した。カップの中のキャラメルラテが無くなったのと、社員の銜えていた煙草が、灰皿にすりつけられたのはほぼ同時。それが、引き金だった。すっと此方に視線をやる社員の瞳は、何処か楽しそうに見えた。
「どっか移動しよっか。何処が良い?」
少し早いけど、居酒屋?そう問いかける社員の目を見て、私はゆっくりと首を振った。今は、そしてこれから少しの間、アルコールは必要ない。寧ろ無粋だ。そう思って、カップを片すために立ち上がりながら、私は笑う。
「カラオケとかどうです?」
思えば、社員とカラオケに行くのは久しぶりだった。歌の上手い、ただし酔うとマイクを離さない社員と、歌うのが好きで、人の歌を聞くのが好きな店長と、歌はとりわけ上手くないけれど割合に歌うのが好き、という私。よく三人でカラオケに行っていたけれど、ここ暫く、社員が辞めてからはめっきり行っていなかった。駅前にあったカラオケの個室に入りながら、そんな事を考える。上着を脱いでソファーに並んで腰かけて、とりあえず採点機能を設定した。
「どの採点にします?全国?精密?」
「あれ、両方できる奴なかったっけ?」
「この機種にはないみたいですよ。」
「えー…じゃあ精密。」
「了解です。」
多分居酒屋に移動するであろう事を見越して、手元にはワンドリンクで注文したミルクティーのみ。二台機械はある筈なのに、何故か二人で一台を操作しながら、ああでもないこうでもないと曲を選ぶ。
「久しぶりなんで、アレ歌って下さいよ。」
「えー?あれは…喉がノッて来ないと歌えないんだよなあ。」
「じゃあ頑張って下さい。」
「ひど!」
どちらから歌いだすかも今一つ決まらず、根本的に曲自体見付からず。とりあえず勝手に社員の曲を私が予約する、という強引な手法で社員にマイクを押し付けた。ひでえ、と呟く社員だけれど、その表情は楽しそうにほころんでいたから、私も同じように笑う。
勝手に予約したのは、社員も私も好きなアーティストのラブソング。社員の声がそのアーティストに割合似ているから、いつもカラオケに行く度に歌ってほしいと強請っていた曲だ。それを隣に並んで、すぐ、横で、聴く。相変わらず社員の声は、すっと私の耳に入ってくる。どんな声よりも、安心する声だと思った。ふざけている時の声もけして嫌いじゃないけれど、でも、常よりも低い社員の声が好きだった。思わず聴きいってしまう。
「…切原さん、予約入れないの?」
俺が勝手に入れるよ?そう言いながら、既に社員の手は機械を操作し、何やら曲を検索している。タッチペンを握る指先と、爪の形だとか。伏せられた睫毛とすっとした鼻筋、すぐ間近で見詰めた、横顔だとか。喉仏の浮き出た首元だとか。触れたい。先刻から燻ぶる衝動に、抑えがきかなかった。
「…大野さん、」
「んー?」
「抱き締めて良いですか。」
「…っ、はあ!?」
淡々と普段通りの声のトーンで問えば、よほど驚いたのだろう。勢いよく社員はこちらに向き直る。まあ驚くのは通りだろう。私だって同じことを言われたら相当驚く自信がある。
私の方を向いた社員と、必然的に合う視線。驚いた表情は浮かべていても、視線は何一つ動じなかったかのように揺らがない社員に、そっと手を伸ばした。頬に触れる。少し顔を近づけ、よりしっかりと視線を絡ませた。
「抱き締めても、良いですか?」
私が冗談でも何でもなく、本気で言っているのが分かったのだろう。そこで初めて、揺らぐ社員の瞳。一瞬逡巡するように視線は宙を漂い、それから再度、目は合わされる。良いよ、そう囁くように、社員は答えた。その返答に私は何も言葉は返さず、そっとその身体に腕を伸ばす。
ぎゅう、としがみ付くように社員を抱きしめる。身長差と体格差もあって、私の顔は社員の胸元。それを良いことに社員の心音に耳を傾けた。ドキドキと、少しだけ速く感じる鼓動。でもそれ以上に速く鼓動を刻むのは、私の心臓の方だ。煙草と、香水と、微かな汗の匂い。抱き締められた時と、キスをした時の記憶が微かに呼び起こされる。
「切原さん、どうかした…?」
躊躇いがちに私を抱きしめ返しながら、社員は静かに問う。どうかしたか、どうかしている。それは勿論だ。どうもしてなかったら私から抱きつくなんてありえないし、ましてや社員の体温に鼓動を速めて、なのに同時に酷く安堵するなんて、そんな事有り得る筈がなかった。
「…好きかも知れません。」
「え?」
「電話で私が言った事、覚えてますか?」
半年前の電話口で、私は、言いたい事があると言った。それは、私自身がずっと目を逸らし続けてきた感情。目を逸らしながらも只管に育ててしまい、終いには私の手には負えないくらい大きく膨れ上がってしまった感情。
「かもしれない、って何。」
耳に届くのは、少しだけ拗ねたような社員の声。そりゃあそうだろう。普通、暇でもないのに約束を取り付けて、逢って、突然抱きしめられたっていうのに、告げられたのは不明確な告白じみた言葉。結局どっちなんだ、結局何が言いたいんだと言われて当然な台詞だった。
「分かんないんです。多分これは、恋愛感情としての好き、だと思う。だけど…分からない。」
好き、だと思う。必死に整理して向き合った感情、それに名前を付けるなら間違いなく恋だったし、それは疑いようもない。だけれど自信がなかった。これを恋と呼んでいいのか。今までまともに人を好きになった事もないらしい事にここ最近気がついたような人間だ。不安にもなる。
「切原さん、」
告白は真っ直ぐに目を見てしたけれど、私の感情も思考も、それに付随して声も震えていた。揺らぐ、ぶれる。けれど胸の奥で熱が燻ぶっているのは、きっと、勘違いなんかじゃない。それを肯定して欲しかった。
「…キス、しよっか。」
「え?」
「しよ、」
縋りついていた社員から離され、そっと顔を覗きこまれる。その瞬間囁かれた言葉に、一瞬フリーズする思考回路。いつの間にか立場が逆転している。そんな事を思う暇もなく、気付けば唇は塞がれていた。
触れた唇は熱く、何度も角度を変えて触れる体温に脳髄が震える。くらり、そんな感覚を抱きながら、ただ目を閉じて社員と唇を重ねていた。触れる温度が心地良くて、知らず指先は縋るように社員の肩辺りの服を掴む。ただ唇を重ね、触れ合せるだけのキスだというのに、何故こんなにも心拍が上がるのだろう。
疑問符が胸の内で浮かんだ瞬間、一瞬唇が離れ、細く開けた視界の先で絡む視線。それに煽られるように、もう一度キスをした。噎せ返るような煙草の香りのするキス。抱き締められた身体、触れあっている部分から、お互いの体温が溶け出しているような感覚。まるでこうして、抱き締め逢っているのが自然のような、まるでお互いの存在が噛み合ったような感覚。
「…まだ、分かんない?」
唇が触れるか触れないか程度の距離感で離される。そのまま囁くように問われ、ぼんやりと思考に靄が掛かっているようだった。分からない?それは、私の恋心への問い。少しばかり強引な、私の中の熱情への肯定に、喉が鳴って。好き、そう同じく囁くように返した。
「…やっと、言った。」
「え…?」
答えると同時、そのまま、社員の胸の中に抱きこまれる。自分で出した答えが、どこか自分と切り離されたもののように思えて、言葉を吐き出した筈の私は少しだけ抜け殻じみていた。ぼんやりと目を閉じて社員の心音に耳を澄ましていると、そっと耳元で、どこか勝気な声音が囁いた。
「ずっと好きだったでしょ?俺の事。」
思わず目を上げる。至近距離でかち合った視線は何処となく好戦的な色をしていた。くつりと喉の奥で笑う、社員の唇が再度降ってくる。けれど触れたのは唇ではなく瞼で、私は一瞬、驚きに動きを止める。否、発言そのものに驚いていて、私は動けないでいた。
「ずっと、って…。」
「気付いてなかった?」
こくり、と頷く。くつくつと笑う社員の表情は愉しそうだ。目だよ、そう囁かれ、浮かぶ疑問符をそのまま顔に出せば、するりと頬を撫でられる。
「俺と同じ、欲しがってる目をしてた。」
ずっと、前から。そのまま抱きこまれ、唇を塞がれて思考は全て社員に飲まれていく。嗚呼つまるところ、社員は私が堕ちるのを、待っていたとでも言うのだろうか。そうだとしたら随分厄介な人物を好きになったものだ、などと何処か他人事のように考える。
「好きだよ、俺も。」
その言葉に思わず、社員の首に腕を回し、私から口付けた。触れあう唇の感触が心地良くて、その体温が、もっと欲しかった。