第七章
私は平均よりも傷の治りが遅い。血が止まるのだって遅いし、痣が出来れば完全に消えるまでに一カ月以上掛かったりだってする。そんなこんなで、鏡に映る私の口元には、未だ、紅い傷跡が生々しく残っている。こんな顔では接客が出来ないからと、コンシーラーで誤魔化したり、マスクをしてみたりとバイト先では酷く苦労していた。幸いにも店長とシフトが被っていないから、必要以上詮索されるという事もないのだけれど。バイト先のアルバイト仲間とは皆仲が良いし、大学の友人よりももしかしたら親しい子だっている。だけれど皆、私が触れてほしくないと思っている一線だけは、いつだってきちんと守ってくれた。良い職場に恵まれたと、たかだかバイトだけれど、思ってしまう。
今日も今日とて口許に浮かび上がる紅にいい加減嫌気がさして、私は一瞬、化粧する手を止めてしまう。鏡の前、すっぴんの自分の顔色の悪さに辟易するだけだったほうがまだましだ。顔に傷を作るなんて、と思いつつも、自分にも非があると思いなおして、重たい溜息を吐いた。緩慢な動作でコンシーラーを手にとって、どうにか傷を誤魔化す。その上からファンデーションを乗せれば、どうにか傷を目立たなくすることができた。頬にチークも入れれば、多少顔色も良くなる。
どうにか取り繕った顔でお気に入りの服に袖を通して、大学へと向かう。ゼミに関する講義で隣に座るのは、悪友。お互いの間に満ちる無音は、限りなく必然だった。数日経ったとはいえ、私と悪友の間に走った亀裂は、経過した時間でどうにかなるという問題でもない。学内ですれ違ってもお互いにまるで見知らぬそぶりで、気付かぬ素振りでいることから、周りにいる何人かは何事かあったかと察しているようだったけれど、それを一々詮索してくるようなやつは誰一人としていなかった。もしかしたら私の只ならぬ雰囲気を感じ取ったのかもしれないし、もしかしたら悪友が皆に何も聞くなと言ったのかもしれない。
隣の席に腰掛けた悪友は、こちらをちらりと伺っては何か言いたげな表情を浮かべている。だけれどそれに一々突っ込んでやる義理もない。だから何も気づいていないふり、隣に誰かが座っているという事実にするら気付かないふりをしてノートを取り続ける。悪友が何を言いたいかなんて、何となくはわかっているのだ。この間と同じ。誰かと私が授業のあとで会うことに気づいている。自分では全く自覚していないのだけれど、どうやら私は何か一つでも用事があれば、それが周りには伝わるらしい。自分としては化粧も服装も何一つ変わらないつもりだから、よく分からないけれど。尤も自意識過剰気味な発言になるだろうけどそれだけ、周りが私のことを気にしていてくれるのかもしれない、なんて。周りの人間に恵まれているとは常々思っているから、これもそうなのかもしれない。
大学の最寄駅から、数駅先。普段は降り立たない駅に、町に立つというのは違和感が強い。どうにも心細くなる。ゼミ関連の授業しかなかったため、今日は親友とは会えずじまい。そうなれば講義を黙々と受けて早々と正門を通るに限る。待ち合わせの時間よりも遥かに早い時間に、指定された駅に着いた私は少しばかり途方に暮れていた。何をしよう、どこにいよう。時間を潰す方法が見つからない。
悩んだ挙句に改札を出て、とりあえずふらりと駅構内から出てみる。すると目立たない位置に、なぜこんなところに?と疑問符を浮かべたくなるような可愛らしい喫茶店を見つけて、私は迷わずそこに向かった。扉を開ければ、ふわりと香るのはコーヒーと紅茶、それから甘い匂い。紅茶とケーキのセットを注文して柔らかな椅子に体を沈めれば、自然と体中から力が抜けて行った。
「お待たせしました。」
「ありがとうございます。」
少しして、そっと目の前に出された紅茶とケーキは、一瞬で私を癒す。可愛らしい見た目のケーキと、紅茶の芳醇な香りは、それだけで幸福の象徴のようだ。ケーキにフォークを指して、一口。口の中に広がる心地良い甘みに口許を緩めた。ケーキと紅茶を味わいながらそっと携帯を開く。メール機能を起動して、昨日の夜社員から送られてきたメールを読み返せば、やはり待ち合わせまであと三十分近くあった。まあ、良い。ここでゆっくりと時間を潰すまでだ。そう決めたら少し気が抜けて、私は鞄の中から読みかけの本を取りだした。
紅茶とケーキに舌鼓を打ち、小説を読み進めること、丁度二十分。携帯が振動したのに気付き開けば、メールを一件受信していた。読めばそれは、これから会う人物からの連絡で、少し遅れるかもしれないという報告だった。それに、大丈夫だと、ゆっくり落ち着いてくるようにと返信して、私は興が削がれたかのように本を閉じる。多少早いが、そろそろ店を出た方が良い頃合いだろう。カップに残っていた少し冷めた紅茶を飲みほして、席を立った。
会計をしながら、マスターと思しき初老のおばあさまに紅茶とケーキの味を褒めれば、それはとても嬉しそうに目を細めて笑ってくださるから、こちらまで微笑んでしまう。胸の内にほっこりとした暖かい感情が満ちた。店を出て、駅の改札に戻って、丁度本来の待ち合わせの時間五分前。基本的に人を待つのは苦ではないし、むしろ絶対的に遅れたくはないから良かった。語弊がないようにしておくと、自分が遅れるのが嫌なだけであって、相手が遅れるのに対しては、全く嫌悪感も抱かない。尤も過去に三時間、連絡もなく冬の寒空の下待たされた時だけは苛立ったけれど。
「っ…切原さん!」
ぼんやりと目の前を行きかう人を眺めていれば、不意に横から声がする。目線をやれば、急いでこちらに走り寄ってくる私の待ち人―――社員の姿があった。焦らないで良いと、返信したのに。急いできたのだろう、ふわふわと柔らかそうな社員の髪が、少し乱れている。
「今晩和、大野さん。お疲れ様です。」
「ごめん、遅れて!待った、よな…本当ごめん。」
「大丈夫ですよ。落ち着いてきてくださいって、メールしたじゃないですか。」
手を合わせて、申し訳なさそうにしている社員に思わず苦笑いを浮かべる。眉根の下がった社員は、到底年上には見えなかった。失礼します、と断って、ヒールを履いた私よりも身長の高い社員の髪に手を伸ばした。やっぱり、猫毛だ。見た目通り柔らかな社員の髪を指で梳いて、軽く整えてやる。
「走ってきたんですか?ぼさぼさですよ。」
「…そりゃ、走りもするでしょ。俺から誘ってるんだしさ。」
「ああ…、そうでしたね。」
うっかり、失念していた。どことなく呆れたような表情を浮かべる社員に、あはは、と乾いた笑いを返して誤魔化しておく。まあ誤魔化す事なんてできないのだけれど。とりあえずどうにか落ち着いてきたらしい社員は一つ息を吐くと、そっと何食わぬ表情で手を差し出してきた。
「じゃあ行くか。一応良い感じの店、調べておいたんだよね。」
「…それは良いんですが、この手は何ですか?」
「ん?あー…まあ、こういう事だよね。」
ほぼ無意識だったらしく、一瞬目を泳がせてから、それでもそこは大人の余裕というやつなのだろうか。気付けば私の手は、社員のそれに包まれていて、そう思った時には既に腕を引かれる形で、歩きだしていた。
大きな、社員の手。ごつごつとしていて、硬く、少し、乾燥した手のひら。低体温な私と比べて、高い体温。他人の温度に手のひらを包まれているというのは、ここ暫く慣れない感覚ではあったけれど、それでもどこか、安心してしまう。私は性格的に人を引っ張っていくタイプだと思われがちだけれど、その実、引っ張るよりも引っ張られるほうが性に合っていたりする。だから社員のこの、押しつけがましくない強引さは、好きだった。
「喫煙で…大丈夫なんだよね?」
「平気ですよ。」
店の入り口で聞かれて、今更、と言わんばかりに答えれば、それがマナーだと返される。ではもしもここで私が、煙草の煙は嫌だと言ったら、社員は煙草を我慢したのだろうか。きっと我慢して、それでも途中でお手洗いに行くのと同じ感覚で、何度か喫煙所に足を運んだだろう。想像は出来る。だけれどそんな我慢を強いるような関係は、平等ではない気がするのだ。だって煙草を吸うのは自由だし、それはお酒となんら変わらない。もちろんマナーなどの面が叫ばれているのは知っているが、ならば酔っぱらって周囲に迷惑をかけているうつけの存在はどうすると私は声を大にして社会に問いたい気持ちになるのだ。私は喫煙者でもないし、煙草を全面的に支持するわけではないけれど、一方的に、頭ごなしに否定するのは間違っていると思う。
何人か、と問うてくる店員に社員が二人、と返せば、どうやら混んでいるらしい店内で通されたのはカウンター席だった。尤も、自分たちの両隣りは簾のようなもので区切られているし、後ろも人一人が通るのにぎりぎりな幅しかないから、逆に良かったのかもしれない。―――社員と、肩が触れ合う距離で、隣り合って座るという状況でさえなければ。
「なんか恋人同士に見えそうだよね、今の俺達。」
「それにしては明らかに不穏な空気な気がしますけど。」
「何でむくれてんの。そんなに切原さんは、俺とくっ付きたくない?」
「…そういうわけでは、ないですけど。」
言い淀んだのは、上手く言葉が見つからなかったから。ふうん、と言葉を流した社員はそれを分かっているのか、いないのか。どちらでも然して変わりはないのだけれど、相手の体温が直に伝わり、尚且つ相手の呼吸のリズムも分かる。そんな距離感で社員と並ぶというのは、どうしても過去の距離から鑑みても違和感があったし、幾ばくかの記憶に苛まれたが故の緊張感があった。
「お待たせしましたー。キールとブルドックですねー。」
「あ、どうも。」
背後から登場した店員に一瞬驚きつつも、それは全く顔には出さず、差し出されたグラスを受け取る。良い感じの店、と社員が評したのも頷ける。パパッと目を通しただけではあるけれど、それなりに低価格なのに、出てきたカクテルのグラスは可愛らしかった。これがいつも店長たちと行く居酒屋であれば、カクテルもすべてジョッキで出てきて終わりだ。
「珍しい。今日はカシオレじゃないの?」
「…偶には。」
店員の持ってきたカクテルに、驚いたように目を瞠る社員が何を言いたいかなんて、分かっている。それでもなるべく当たり障りのない言葉で交わして、店員から受け取った社員のカクテルを手渡した。
偶には、酔ってしまいたい。そう思うのは、おかしいだろうか。何故かぐらぐらとまとまらない思考を抱え続けるなら、いっそ酔ってしまったほうが楽だろう。そう思って注文したのは、いつも頼むカシスオレンジよりかはアルコールの強い、といってもあくまでカクテルの域は出ないけれど、キール。カシスリキュールが好きだから、そこからぶれずに強めのカクテルと考えたら、これくらいしか思い浮かばなかった。ワインベースなら、ある程度、酔えるだろうか。尤も、アルコール度数を少し強めたくらいでは酔えないと、自分のアルコールに対する強さを自覚していて、ばかばかしいと思わなくもないけれど。
「ん、じゃあ、乾杯。」
「乾杯。…大野さん。」
「ん?」
「お疲れ様でした。今までお世話になりました。」
本当は、最後の出勤の時に、言おうと思っていた言葉たち。伝えはしたけれど、しっかりと、ではないから、この機会に改めて告げておく。私含め、大勢の新人を雇った時、私の教育係になってくれたのは、店長ではなく社員だった。だから店での今の私があるのは、全面的に社員のお陰だ。そういう恩は、ちゃんと返したい。
「なんか…前にも言ったけど。改まれると照れくさいな。」
その言葉の通り照れているらしい社員は、私の方ではなく正面の壁を向いて、頬を掻いている。社員の横顔を見ながら、私はそっとカクテルに口をつける。甘いカシスの味が口いっぱいに広がって、同時に少しだけ喉の奥が熱くなった。アルコールが通っていく感覚。私がグラスを置いた音が何かの合図だったのか、未だ若干目の泳いでいる社員が此方を向く。此方を窺うように見やりながら、社員はカクテルをほぼ一息に飲んでしまう。カクテルは一気飲みするような酒ではなかった気がするのだけれど。
「…なんか、頼む?」
「じゃあ、カーディナルを。」
私の手元のグラスにはまだアルコールが残っていたけれど、問いかける社員に乗せられるように、次のカクテルを頼んでしまう。何だろう。何か、違和感。違和感というか、社員の様子がいつもと違う。そうは思いつつも何が原因で、何に対してそうした違う様子を私に見せているのかまでは分からず、乗せられるがままになる。どうして様子が違うのだろう。私と二人で飲みにくるという社員の願いは叶っているわけだ。何?何故?どうして?
「…ごめん、今日、酔って良い?」
「構いませんよ。…どうしたん、ですか?」
「いや、どうもしないけどさ。ただ、酔いたい気分ってあるっしょ?」
「まあ、そう…ですね。」
正直私もそうだとは言えなかった。酔いたい気分なのだとは、何故か言い出せなかった。ただ、一言だけなのに。音にならなかった言葉が喉元に痞える。その感覚が嫌で、グラスに残ったキールを飲み干した。すぐに、次のカクテルが運ばれてくるのが、わかっていたから。
普段であれば、否、以前であればといったほうが適切なのかもしれない。以前であれば―――特筆すべき話題がなかろうと、時間の浪費とも言えるようなくだらない話題で何時間でも話しこんでいられた。なのに何故か、今は。アルコールが入って、お互いに饒舌になっても良い筈なのに、何一つ言葉が生まれてこなかった。もしくは、改まって何を話したらいいのか、両者ともに分からなかったのかもしれない。
「…最近、どうなの?」
「この間も会ったばっかりじゃないですか。何も変わらないですよ。相変わらずです。」
「店は?騒がしい?」
「ええ。何、淋しいんですか?」
「そんなんじゃないよ。」
無言のまま二人してほぼ一気に二、三杯のカクテルを開けると、やっと社員のほうが重たげな口を開く。くだらない、意味のないような言葉のやり取りは、それだけで救いだった。私が求めているのはいつだって気負いしないこういう緩い空気感で、それを常にまとっている社員の隣りは、心地良かった。今もそうだ。心地良い。肩の力をそっと抜いて、それが許されている。お互いに常には張り詰めている部分を曝け出して、それに触れる事はけしてないけれど、絶対的に傷つけはしない。そういう、曖昧かもしれないけれど、持ちつ持たれずといった関係を私は求めていたのだ。
「店長とは、どうなの?」
「何がですか?」
「あー…いや、その、」
「相変わらずこき使われてますよ。」
「…ん、そっか。」
何となく、社員が言いたい事は分かった。きっとこの間の飲みの影で起こった出来事のような内容を、私に問いたかったに違いない。だけれど私はそれを無視して、気付かないふりをする。言わない方が適切だと思ったからだ。何処となく消化不良とでも言いたげな社員の表情に一つ息を吐くと、私は手元のグラスを一気に煽った。同時に喉を焼く、アルコールの味。コト、と小さな音を立てて空になったグラスを私がテーブルに戻すのを、社員は無言で見ていた。
そこからは何も、会話はなかった。もしかしたら、言葉は無意味だと悟ったのかもしれない。何を話したところでそれは今の私達にとって空虚だったし、緩い空気感を求めているとはいえ、それは言ってしまえば私たち二人が揃えば成立するもので、会話は付属品に過ぎなかったからかもしれない。特に会話もなく、私と社員は黙々とアルコールを飲み続けた。
「…切原さん、酔った?」
「大野さんこそ。」
何杯のカクテルを飲み干したのか。頬が熱を持って、目元が赤らんでいるのが鏡を見なくても、自分ですぐに分かった。酔っている。目に見える形で酔った私の顔を覗き込む社員の頬も赤らんでいて、その目元はとろりと何処となく扇情的な色味を伴っていた。それには気付かなかった事にして、社員の目をまっすぐに見据える。
飲んだアルコールの量も、時間も、全てが全て、いい加減にお開きにした方が良い頃合いだった。そういった感覚は、お互いが共有していたと思う。だけれど気付けば私は社員に肩を抱きよせられていて、バイトも何もないからと下ろしたままだった短くはない私の髪を一房掬いあげた社員が、それに唇を寄せる。響く小さなリップ音に、訳の分からない羞恥心が胸の内にせり上がるのと同時、正体不明の熱が、心臓を焦がした気がした。
「…大野、さ‥、」
「―――静かに。」
思わず名前を呼ぼうとした声は上ずって、それすら社員自身に遮られる。肩を抱いたままの流れで、それはごく自然に、社員の顔が近付く。吐息が混じり合う距離で見詰め合ったのは、恐らく時間にすればほんの数秒にも満たなかっただろうけれど、当人にしてみればそれは、酷く長い時間に感じられた。見詰め合って、そのまま降ってくる社員の唇。それを私はごく自然に、瞳を閉じて受け入れた。そうであるように。
そっと合わさっただけの唇は、名残惜しげに離れていくけれど、その離れる感覚に私が目を開けば、此方を窺うような社員と目が合う。手を伸ばして触れてしまったら、どこに行き着くのかなんて予想は出来なかった。それくらい、熱に浮かされていた。だけれど思わず社員に手を伸ばせば、その指先を掴まれる。再度引き寄せられて重なった唇は、今度は合わさるだけではなかった。
触れ合ったと同時に、熱い舌先に唇をこじ開けられ、中で縮こまっていた私のそれを、社員は容易く絡めていく。耳に付く水音は羞恥心を煽り、だけれどそれ以上に身の内に燻ぶる熱に油を注いだ。気付けば私と社員は只管に唇を合わせていた。だけれどそれは獣のような情欲を露わにしたものではなくて、ただ、合わせた唇からお互いに何かを共有するような、そんな、静かな口付けだった。何度も何度も、リップ音が私達の耳に響く。何度唇を重ねたのか、そんな回数なんて無粋な事は分からないけれど、きっと両手で足りる数ではないだろう。
そのくらいキスをしてから、ゆっくりと社員は私から離れた。抱きよせた肩はそのまま、何事もなかったように、机上に放置され汗を書いたグラスに少し残るアルコールを社員は飲み干す。グラスに押しつけられた唇が、さっきまで私のそれと触れ合っていたなんて、そんな。深く考えたら考えただけ羞恥が私を襲うのは分かっていた。だからそっと目を逸らして、私もグラスに残るカクテルを一気に煽る。喉を焦がすアルコールでも、絶対的にアルコールが原因ではない頬の熱を取り去ってはくれなかった。
「…切原さん、」
「…あの、」
手元のグラスを空にして、声を発したのは二人同時だった。声が綺麗に重なった瞬間に思わず目を見合わせて、それからどうぞどうぞとどこぞのお笑いトリオみたいに譲りあってそれが面白くて。顔を見合わせて笑った。声をあげて笑えば、それまでのぎこちない空気は一瞬で霧散していく。
「帰るか。そろそろ。」
「そうですね。」
お互いが言い出したかったのは同じ言葉で、それに二人してそっと息を吐き出したのには、お互いに気付かないふり。不可侵の領域だけは絶対的に線引きする。それが私と大野さんの関係性を今日まで作ってきたのだ。今さらそこを犯すような馬鹿はお互いにしない。
「あー…切原さん酒強いからつられた。今日は酔っ払ったー…。」
「それ、そのままそっくりお返ししますよ。…私も少し酔いました。」
会計はやっぱりというかなんというか、割り勘を主張したのにもかかわらず私は三分の一程度しか払わせて貰えなかった。女の子に財布を出させるのを余り良しとしない社員だけれど、だからってそれは私の矜持が許さない。妥協点はそこが限界だった。
店を出て、駅までを歩く。ふらふら、ふらり、と、少し大袈裟に千鳥足を演じて見せる社員に私も唇を尖らせて言葉を返せば、振り返った社員に微笑まれた。月明かりが社員の肩越しに差し込んで、私より数歩先を歩く社員は私の声に立ち止まった。緩慢な動作でゆったりと歩く私は社員よりも数倍遅く歩いていて、だけれど隣に並ぶと同時、そんな空気微塵もなかったのに、するりと手を握られた。暖かい体温と、少し硬い手のひらの感触。それを感じながらも何一つリアクションをしないでいればそっと顔を覗きこまれる。
狼人間は満月の光で獣に変身した。人間も動物だ。だからだろうか、月明かりには何か、魔力があるような気がする。その魔力に、絆されただけ。そう思わず自分に言い聞かせながら、社員に手を掴まれた私は立ち止まったまま道の往来で、今日何度目になるか分からないキスを交わしていた。
月明かりに照らされた社員は、いつもよりも愁いを帯びた表情に見えて、おぼろげな光に照らされて浮かび上がった顔の陰影が色っぽく私の目には映った。月明かりには、欲を表層化させる魔力があるに違いない、絶対的にそうだと言いきれなければ、私はどうしたら良いのだろう。―――このキスは絆されただけ。そう、言い聞かせた。月には魔力があるのだと、それだけが理由なのだと。