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第六章

 予測不能な事がこうも立て続けに起これば、私でなくとも頭痛を覚えるのではないだろうか。思わず重い溜め息をつくものの、今私の周りにはそれに応えてくれる人間は誰一人いない。また一つ息を吐いて手元の分厚い資料に目線を落とした。

 試験期間でもない時期の資料庫は閑散としている。元々余り人の出入りがあるわけでもないそこは、古い紙が詰め込まれた場所独特の黴の臭いのする埃っぽい空気が沈殿していた。資料の紙が日焼けすることを嫌って、日差しも届かない資料庫は、日中だとしても薄暗い。直接資料庫に繋がっているゼミ室、というのは割合に珍しいもので、そんな珍しいゼミ室を使っているからなのか、私はよく資料庫を利用している。例えば著名な学者の論文資料だとか、一般的な図書館などでは見ることのできないであろう書物。中々お目にかかることの出来ない貴重な文献の一端に触れる度、自分の所属するゼミの担当教授が優秀な学者であることに感謝してしまう。

「えー…と…Aの四十八……っと、あった!」

 普段から何も用事がなくても資料庫に入り浸っている事が教授に知られてから、時折資料庫の整理を頼まれるようになった。その仕事の大半が、教授が次の論文で使う資料を探してくるだけという簡単なもの。ついでに資料庫の中でも学生が自由に見ることのできない、教授が鍵をかけて大切に保管している資料を、そのときだけは見てもいいとお許しを受けている。まあその資料を見たいがために、雑務を請け負っているのだけれど。

 天井近くまでうず高く積まれた資料をどうにか発見して、脚立を引っ張ってきては棚から引っ張り出す。日には焼けてなくともやはり埃には塗れている書物が、本当に合っているかどうか中をちらりと確認して、合っていることに安堵した。今日頼まれていた資料は、今探し出したもので最後なのだ。後はこの資料を夕方までに教授のもとに届ければいい。それまでの時間は、私が自由に資料を読み漁る事を許可されている。

 頼まれた資料を探している最中に気になっていた書籍を何冊か机の上に広げて、一つ息を吐いた。思考回路の大半は、ここ暫く立て続けの私のキャパシティをオーバーした事象に占領されてはいるけれど、私が何よりも貴重な時間だと感じている資料を読みあさる時間まで、そんな悩みに支配されたくはない。意識して頭の中を空っぽにして、文字を追う事だけに集中した。そうすれば一瞬で、脳内を占めるのは目の前の資料の内容だけになる。

 どうでもいいけれど、一度集中しようと意識してしまうと、完全に外界を遮断して一つの物事に集中しすぎてしまうのは、ある意味では凄まじく短所だと思う。否、短所とは言いすぎにしても、もう少し外界に意識を向けられるようにならなければ困るのは私自身だ。―――今のように。

「切原、」

「っ!?」

 誰も資料庫には来ないと思っていた。普段であれば事実、試験期間に嫌々足を運ぶ程度で、私以外の人間は例えゼミ生だとしても此処に来る人間は皆無といっても過言ではない。だから、まさか、誰が予想できただろう。只管に細かい文字を目で追っていて、突然、背後から抱き締められるなど。

「っ…高橋、」

「…切原の髪、良い匂いすんのな。」

「離せ。」

「嫌だ。」

 きつく力を込めて体に絡みつく腕の感触正直が不快だった。違う、この体温じゃない。何かが頭の奥で喚いた。首元に顔をうずめた悪友が、そこで深く息を吸う音が聞こえる。その瞬間にぞわりと嫌悪感が背筋を這った。駄目だ、気持ち悪い。

 どんなに仲の良い友人だとしても、それを恋愛対象として見れるかどうかというのは根本的に別の問題だと思う。恋愛対象でなくともそういった熱情を伴う欲の対象として見れるか。悪友のことは好きだ。確かにここ最近の言動や行動には苛立ちが募り、意識的に距離を置いてはいたけれど。それでも、好きだ、友人として。性別を超えた関係であれば好意を持てるけれど、男女として触れ合うのに悪友は、私にとって生理的に不可能な対象だったらしい。

「…何で、他の男なら良いんだよ。」

「は…?」

「っ俺は!ずっと、お前の傍に居ただろ!!」

 ガタン、と痛いほど鼓膜を揺さぶる音がする。それと同時に背中を中心として、身体全体が何かに叩き付けられるような痛みに苛まれた。否、叩き付けられるよう、ではない、実際に、床に叩き付けるように押し倒されたのだ。

「ちょっ…、高橋!?」

「好きだ。俺は、お前が好きだ。だから他の男になんか渡したくないんだよ!」

 その言葉と同時に、唇を塞がれる。苦しい。息ができない。何度も何度も力任せに押しあてられる熱は、歯が当たって痛い。何故私は、目の前の男に無理やりキスされているのだろう。思った瞬間、嫌悪感と自分の情けなさに涙が滲みそうになった。

 嫌だ。気持ち悪い。苦しい。離して。

 悪友の全体重を掛けて拘束された体は、微かな身じろぎすらも許されず、押し倒された際に手際よく奴の右手によって私の両腕の自由は奪われていた。抵抗らしい抵抗の一つも満足に出来やしない。どうにか首を振って唇を拒んでも、ただ痛いだけだった。

 どうしてこんな事になっているのだろう。分からない。何故急に悪友は、私にこんな事をするのだろう。恋愛的な意味合いでの好意を持っているらしいという事は、人伝に聞いて大分前から知っていた。だけれど本人から直接言われた事もなければ、私はただ純粋に気の置けない友人だと思っていた。好きなら好きと明確に言葉にしてくれないと分からない。私は、そんな察しの良い人間じゃない。それはけして短くはない期間を友人として過ごしてきた悪友なら知っている筈だ。

「いっ…!」

 ガリ、なんて、嫌な音が資料庫に響く。唇の端がじくじくと熱を持った痛みを帯び、そこから血が溢れだす感覚がした。どうやら唇を離す瞬間に、噛み付かれたらしい。状況は理解できても、意味は分からない。唇から零れた血液の量は大して多くはないようだったけれど、それが頬の方に流れていく感触ははっきり言って不快だった。それに、口内に広がる鉄の味。

「…あんたは、何がしたいの。」

「……。」

「とりあえず、退いて。」

「…嫌だ。」

「……高橋、」

「嫌だ!」

 至近距離で吠えられたせいで、鼓膜が痛かった。視界を埋めるのは悪友の姿だけで、なんというか、ここ最近こんな情景ばかり見ていないかと溜め息を吐きたくなった。皮切りは社員、それに続いて店長。意味がわからない。

「…私はあんたを恋愛対象には見れないよ。それだけは先に言っておく。」

「何で。」

「理由が必要?じゃあ好きになるのにも理由はいるの?」

「……。」

「高橋の事は好きだよ、友人として。でもそれだけなんだよ。それ以下ではないけれど、絶対的にそれ以上ではないの。それ以上には、どうしたって見れない。」

 私を見る悪友の瞳の必死さが、哀れに思えてしまうのは何故だろう。はあ、と溜め息を吐く音が資料室に響いて、それが嫌に耳に残った。するとそれが何かの合図だったように、必死の形相で私を見詰めるだけだった悪友が、首筋に顔を埋めるようにして私を抱きしめる。縋りつくようなその仕草に、今度は然して嫌悪感は生まれなかった。

「高橋、」

「……っ、俺じゃ、どうしても、駄目なのか…?」

「…ごめん。」

 抱き締められたまま、たった二、三の言葉を交わして、またすぐに悪友は口を噤んでしまう。残念極まりない事に私の体の自由の一切の権限は悪友に握られてしまっているから、動く事も叶わず今の体勢に私も甘んじた。―――のも、束の間。

「っ、何!?」

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!」

 一体何があったのか、誰か私に分かり易く説明してほしい。突然何かのスイッチが入ったかのように、悪友の左手が私の服の胸元を広げていく。開いた隙間から首筋を舐めあげられて、はっきりとした嫌悪感がぞわりと体中を這った。

「やめ、高橋!高橋!!」

「嫌だ、切原…切原…絶対、誰にも渡さない…!」

「っ、やめて!いや!」

 両腕を拘束されているというのは本当に最悪だった。肩口に顔を埋めたかと思えば、首筋を舐めあげ、噛み付かれる。そうこうしている内に左手が服の中に侵入し、胸を弄られる。それも生半可な力ではないから、爪が刺さって痛い。きっと幾つかの傷が出来ている筈だ。

 嫌だ、やめて、と何度懇願の言葉を口にしても、悪友の耳には入っていないらしかった。嗚呼、それならば仕方がない、そんな風に思って、私はそっと体から力を抜く。抵抗するから痛みが増す。抵抗するから傷が増える。ならば、目を閉じれば良い。この吐き気がしそうな嫌悪感を伴ったこれから襲い来るであろう行為を、甘受すれば良いだけの話だ。我慢すればきっと、すぐに終わる。終わらせるように努力さえすれば良い。それだけだ。何事も諦めが早すぎるのが、私の悪いところ。自覚はしている。けれど、だから私なのだと言い切ってしまえば、それだけの話で終わるということを知っている。

 突然抵抗をやめた私に気付き、悪友が動きを止めるのにそう時間は要らなかった。そっと見上げた顔には、何故と疑問符があからさまに浮かんでいる。何故?そんなの簡単だ。痛い思いなんてしたくないし、逃げられないのならばせめて、早く終われば良いと思っているから。嫌だ、面倒臭い。やめるなら最初から手を出さなければ良いんだ。いざその時になって尻込みするくらいなら、最初から勇気がないなら、こんな事しなければ良いじゃない。筋を通せない人間は、苛々する。

「…なん、」

「―――…するの、しないの、どっち。」

 私の声はきっと、冷え切っていた。悪友の顔が一瞬で強張る。それはここまでの自分の行動を顧みたからではなくて、単純に、それは恐らくは、恐怖。面倒臭い、何で私は、怒らなければいけないの。何故私は怒りを露わにしなければいけないの。無駄に荒ぶった感情を表に出すのは苦手だ。だって、疲れる。感情をどこまで表面化して良いのかもよく分からない。だから怒りをあからさまにするのは凄く疲れるし、出来るならしたくなかった。だけれどそんな事ばかりも言っていられない。感情を吐き出して自分を摩耗するか、それとも嫌悪も、痛みも全て受け入れて吐きそうになるか、どちらを取るか。そんな二択だったら流石の私でも、怒りをあらわにする。

「出来ない事は最初からすんな。馬鹿じゃないの。どうしても手に入れたいなら、今の私はあんたの手の中じゃん。奪えばいいじゃない。」

「…お前は、それで…良いのかよ…。」

「良い訳ないでしょ。でも痛いのは嫌なんだよ。だったら抵抗しなければ早く終わる、そうでしょう?」

 カタカタと震えだした悪友の目を、しっかりと見詰めた。違うの?そう問いかける私に、悪友は何も言えないまま。目を逸らせたら楽だったろうに。私が余りにもしっかりと目を合わせているせいで、悪友は上手く目を逸らす事すら出来ずにいるようだった。小さい頃、目つきが悪いと言われた事がある。それはただ人よりも少し、猫目だというだけ。だけれど不機嫌な時や、怒りを抱えている時、やっぱり私の目つきは悪くなるらしい。

 きつく睨みつければ、それだけで緩む私を拘束する力。低い声と私の表情から冷めきった何かを感じ取ったのだろう、少しずつ、少しずつ、悪友が怯えていくのが手に取るように分かった。

 私は基本的に、人を一定ライン以上好きになる事もなければ、必要以上に嫌う事もない。私に関わる人間で、私に害のない人はみんな好きだ。博愛主義に近しいと、人間愛に近しいと言われた事があるけれど。だからその私が、嫌うという事は、それは若干の嫌悪感ではなく、尋常ではない嫌悪感であるという事を、少なからず、悪友は知っているのだ。だから怯える。私が今悪友に向けているのは、嫌悪の眼差しだから。少しずつ私の中で友情が冷えていこうとするけれど、それをあえて守るつもりもなかったから、思い切り悪友を睨みつけ続ける。

「…離してよ、いい加減。痛いんだけど。」

「……。」

 そっと離れる、手のひら。それに肩の力が抜けそうになるのを必死に押しとどめた。今はまだ、力を抜いてはいけない。まだ、警戒していないといけない。まだ爪をしまうには、早すぎる。

「あんたは、何がしたいの。」

「俺は、お前が…、」

「私は、あんたを友達以上には見れない。それは変わらない。今現在の事だけ言えば、私は今、あんたとの縁を全て断ち切りたいと思ってる。嫌だもの。痛い思いをするのも、不本意に犯されるのも。全部嫌なの。嫌な事を強要されるのは、疲れるから、嫌なのよ。」

 はあ、と大きな溜め息がこぼれた。恐らく本日最大級。私の上から悪友がやっと退いたから、私もようやく体を起こす事が出来る。体を起した私は膝を崩した状態で床にじかに座り込んだ。そうして、無理矢理開けられた服の胸元を閉める。口許を拭えば、もう大分固まりつつはあるけれど、赤い血液が皮膚を染めた。

「…ごめん。」

「……。」

「謝って済む問題じゃないのは分かってる。今すぐ警察に通報されたっておかしくはない。だけど、謝らせてほしい。ごめん、悪かった。」

 私が少しずつ身支度をしていると、吐き出すような、絞り出すような声が聞こえた。それにもう一度、あからさまに溜め息を吐く。びくりと視界の端で、悪友の体が震えるのが見えた。どうでも、良いけれど。

「…高橋が私を好きだっていうの、何となくは知ってた。だけど、だから分かんない。嫌われるの覚悟で、奪いたいのか。それともどっちにしても怖いのか。矛盾ばっかり、疲れる。」

「……。」

「筋は通しなよ、何に対しても。自分の感情だって行動だって。だから私は、あんたを好きになれないって思うんだよ。」

 軽蔑までは行かなくとも、もしかすると私は侮蔑の感情を、悪友に抱いているのかもしれなかった。だって疲れるんだもの。嫌なんだもの。理由なんて言葉にはうまくならないけれど、でも、それでも、無理だと感じてしまった。それは決定的過ぎるくらい確実に、感情を硬化させていく。男女間の友情は成立すると思っていたけれど、それはどうやら私の思い違いだったらしい。そう思えば思うほど、私の心臓は冷え切っていくようだった。

「素直に言うとね、裏切られた気がしてるよ。今。」

「え…?」

「私はずっと高橋を大事な男友達だと思ってた。でもそれは違った、認識にずれがあった、そこまではまだ、許せるんだよ。」

 ぽつりと呟いた言葉は、どこまで悪友に届くのだろうか。もう分からない。けして短くはない付き合いの中、何だかんだと相手の考えている事だとかが分かるようになっていた、筈だった。けれどそれは全て、私の勝手な思い込みだったのだろうか。これまでの何年かをかけて創り上げたと思っていた信頼関係は全て、風前の灯みたいなもので、今一瞬で消えてしまったのだろうか。

「好きなら好き、欲しいなら欲しい。筋も通せない癖に、私に好きだなんて言うな。」

 ある種高飛車とも取られかねない言葉だとは自覚していた。だけれどこれは、本音。私の傍にずっと居た筈の悪友なら、私が許せないことくらい知っている筈だ。それなのに私が最も嫌う、筋を通さない、なんて事をしでかしておきながら、それでも私を好きだなんて言うなら、私は本気で目の前のむかつく面を殴ってやろうと思った。

「…悪い。」

「謝んな。」

「殴んないのか?」

「殴って欲しいの?」

「…そういう訳じゃ、なくて…その、」

「殴んないよ。」

 言葉を濁す悪友が目を伏せる。それが気に食わなくて、悪友の胸ぐらを掴んで無理やり目を合わせて、はっきりと言い切った。悪友の考えていることは何となく、分からなくもない。殴られて当然、そう思ってるんだろう。だけれどここで殴るのは、癪に障る。だって殴って救われるのは、悪友だ。ただ相手の怒りを形として受け取ることで、悪友は、救われたいのだ。それが分かっていて、殴れない。それに少なからず浅くはない友人だという認識を持っていた相手を殴れるかと言われたら、殴れる訳もなかった。

「殴ったって、何も変わらないでしょう。あんたが満足して終わり。大体疲れるだけのこと、私がすると思う?」

「……。」

 私の言葉に、悪友はまたも俯いて黙りこむ。今度は私も無理に顔をあげさせはしなかった。手首に残る赤い手形をちらりと見て、小さく溜め息を吐く。この分では、体中、悪友にまさぐられた箇所全体に傷があるだろう。幸いにもというべきか、恐らくキスマークは付けられていないはずだから、それだけでも良かったと、また一つ、溜め息。身支度はある程度終わったし、資料を読みあさる時間は削られてしまったけれど、教授のところに持っていく書籍は全て避けてある。腕時計を確認すればそろそろ教授の元に行かなければいけない頃合いで、私はそっと立ち上がった。

「…これ以上用がないなら出て行ってくれる?」

「……。」

「私まだ教授から頼まれた仕事あるし、やりたいことも残ってるんだけど。」

「…分か、った。」

 力なく頷いた悪友が、静かに立ち上がり資料室の扉を開ける。一度振り返った悪友は何か言いたそうな顔をしていたけれど、きっとそれは言葉にならなかったのだろう。言い淀んだというよりは、うまく言葉が浮かばなかったというような表情でそのまま、無言で扉を閉めていった。

「…っ、」

扉が閉まる音が室内に響くと同時、体中から力が抜けて、私は床に座り込んだ。それまでの恐怖やら嫌悪感やら、抑え込んでいた感情が一気に溢れ出して、制御がきかなくなった体がカタカタと震える。社員の時は、大丈夫だった。店長の時は、どこかで大丈夫だろうという確信めいたものがあった。だけれど、今は、違う。怖かった、素直に。口ではどんなに強気を言ったって、怖いものは怖いし、嫌なものは嫌だ。我慢することは慣れているけれど、だからといって嫌な状況を一番早く切り抜けるために感情を飲み込んで抵抗しなかったのだとしても、どうしたって甘受できるはずがなかった。

「…うっ、‥ぁ…!」

 気付けば唇からは嗚咽が零れていて、涙ばかりが頬を伝っていく。どうして。自分で自分が分からなくなる。私は何を信じ、誰を信じ、誰に心を許せば良いというのだろう。ここ暫くの悪友の不可思議な言動には苛立ちも募っていたけれど、それでも私にとっては唯一無二の男友達だった。それだけ心を許していた相手だ。だからこそそんな悪友に雄として牙を剥かれたというただ一つの事実は、大きく私の胸中に波紋を広げた。裏切られた、そんな風に思っても、悪友の心情を理解できなかった私にも非がないとは言い切れない。言いきれない、筈だ。

 今の私のざわついた心を落ちつけられるのならば、何でも良かった。どんなめちゃくちゃな理論でも、狂った方程式だって何でも良い。拭っても拭っても止まる事は知らない涙に溜め息を吐いて、仕舞には私の感情はキャパオーバーを起こしたようだった。涙を零す以外に、何もできなくなる。心はぐるぐると自分でもよく分からない感情たちに支配されて、その支配した感情が渦を巻いている。なのにまるで私は空っぽの人形のようになってしまったのだ。自分で、自分が空っぽになっているのが、分かる。虚空を見つめ涙だけを零す私が、どれだけ異様か、自分でも分かっている。だけれどどうしようもなかった。

 それから暫くして、漸く涙が収まってきた頃、私はゆるゆると立ちあがる。涙で顔はぐちゃぐちゃだし、一応整えたとはいえ、まだ身だしなみだって乱れ切っていた。それを緩慢な動作で正すと、私は資料を持って、教授の研究室に向かった。相変わらず、私は、空っぽのまま。


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