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第五章

「もしもし、切原さん?」

 店長に召集されての飲み会当日。大学の授業もサークルも終わり、待ち合わせ時間に遅れるわけにはいかないと飛び乗った電車からやっと降りたその瞬間。待ち合わせ時間にはまだ十数分あるというのに、携帯が着信を告げにブルブルと震えた。

「あ、店長。どうしたんですか?」

「今どこー?もう俺待ってるんだけどー。」

「ああ…、はい。今駅着いたんで。もう少し待っててください。」

「んー‥分かったー。」

 店長が自分で設定した集合時間前にもう駅にいるなど、初めての事に等しい。だっていつも店長は集合時間五分後に来る。これはきっかり、五分後。いつ、誰が来る飲み会だって私が一番乗りに集合場所に来て、だから、これは珍しい。今夜か明日にはみぞれか雹でも降るんじゃなかろうかと思ってしまう。とりあえず待たせる訳にはいかないと、改札まで軽く走った。

「すみません、お待たせしました。」

「やっほー、切原さん。流石、時間きっかり十分前。」

「…はあ、」

 本当に店長は何を考えてるか全く持って読めない。急かしたんじゃ、なかったのか。思わず溜め息にも似た吐息を漏らし、とりあえず、と周りを見回した。まだ社員は来ていないらしい。

「珍しいですね、店長が一番乗りだなんて。」

「一人で女の子を待たせないのはマナーでしょ?まあいつもの飲みは人数多いからあれだけどね。」

「…はあ。」

 にこり、と笑みを形作る店長の表情からは、何一つ真意が読み取れない。本当にこの人は、笑顔の裏に色々なものを隠していると思う。私も私で掴みどころがないだのとよく言われるけれど、この人の喰えない雰囲気よりかは数段マシじゃないかと自負したい気分だ。

「お疲れさん。」

 不意に、背後から響く声。振り返れば、もう揃っているのか、と言わんばかりの表情の社員が片手を上げていた。それに店長は手を上げ返し、私は軽く頭を下げた。

「すみません、俺で最後っすか。」

「大丈夫ですよ、まだ待ち合わせ時間前ですから。」

「ん、そっか。ならいいや。」

 少しばかり申し訳なさそうに社員は頭を下げるけれど、正直なところまだ待ち合わせにと店長が指定した時間より早いのだ。普段店の人間とやる飲み会だったら全員が揃うまで確実に二十分はかかる。それに店長は店長で遅れてくる人間だけれど、社員は根本的に時間云々より全てにおいてルーズだ。そんな人間が時間に間に合ったという時点で私にとっては感動ものだったりする。言わないけれど。そして待たされる事が苦ではない人間だから、どうでも良いのだけれど。

「お前が時間に間に合うとかなにそれ奇跡?」

「言い方酷くないすか?むしろ店長がいるのも奇跡でしょ。」

「あーはいはい。不毛な会話禁止。」

 いつの間にか店長が社員に絡もうとしていて、ああそうだ、この人は何でも社員に絡むのが好きだったと思いだす。どんな下らないネタでも社員をからかう事が出来るのならば全力でからかいに行く。社員は社員でいじられキャラだからか、それに応戦してしまうのだけれど、正直今は駅前なのだ。勘弁してほしい。せめて居酒屋にでも入って、アルコールが少しでも入ってからしてほしいやり取りだ。そう思って二人の間に割って入れば、店長が不服そうに口を尖らせた。そんな表情をナチュラルにやってのけられるのはあなたぐらいのものだと常日頃から突っ込みたいと思っている私を知っていてやっているのだろうか。

「とりあえず、さっさと居酒屋行きましょう。」

「ん、賛成。」

「切原さんは店どこがいいー?」

 どうでも良いが切り替えが早すぎはしないか、この二人。それとも年を取れば取るほど、物事の切り替えが上手くなったりでもするのだろうか。確かに店長も社員も、仕事中、オンオフの切り替えが激しかったけれど。

「いつもの店で良いですよ、安いし。」

「まああそこ落ち着くしね。」

「つーか切原さんに決めさせるといつもあの店になる気がするの俺だけ?」

「じゃあ大野さんが決めてくださいよ、異論があるなら。ついでに奢れ。」

「そうだよ奢れよ大野ー。切原さんの機嫌損ねやがって。」

「…異論ないでーす…。」

 適当に思考を切り上げて、答えた私の足は既に、普段店長と飲みに行く店の方に向いている。それに同意を示して私に続こうとする店長の後ろ、社員がどことなく呆れたような表情を浮かべていた。まあ確かに言いたい事は分かるんだ。私に聞いて同じ店を指定するのはいつもの事。なら私に聞くまでもなく、最初からそこに向かってしまえば良いじゃないかって事なんだろう。別にその店に行くのが嫌とか、そういう事でなさそうなのはすぐに分かったから、態と低い声音で切り返せば、店長もそれに乗っかって社員をからかう。すると見てるこちらが少し可哀想に思うくらいしょんぼりと、あからさまに身を竦めて見せるから、確かに一瞬、可哀想、と思ったはずなのに逆に面白くなって声をあげて笑ってしまった。

「あははははっ!ちょ…本気にしないでくださいよ。馬鹿ですね。」

「馬鹿って酷くない?俺傷付いたわー…。」

「勝手に傷付いてれば良いですよ。ほら、早く行きますよ。」

 大袈裟に傷付いた仕草をしてみせる社員に対し、私も私で、態とあからさまに溜め息を吐いてみたりして、一頻りからかってみる。俺を放置しないでよー、と腕に絡み付いてくる店長を剥がすでもなく、面倒だからそのままにして、社員を軽く急かしながら歩き出す。

「あれ?嫌がんないの?」

「何がですか?」

「んー?ひっついてる事。」

「ああ…別に。」

 自分から絡んできて、それでその質問はないんじゃ以下と一瞬思ったけれどすぐに思い直す。ここで普通の女の子だったら拒絶、までは流石にいかなくともやんわり拒否はしそうなものだ。店長もそのつもりで絡んだら、予想外に許容されて逆に驚いている、とか。そんなの、相手が私の時点で常識が通用しない事くらい気付いてほしい。だって、別に男友達と抱き締め合ったりなんて日常茶飯事なんだもの。店長は友達じゃないにしろ、少なからず心を開いている対象だ。だから別に、私に拒む理由はない。ある一定ライン以上打ち解けた相手とだったら、軽いスキンシップくらい私にとってなんでもないのだ。寧ろ普通の域に入る。

「ただ、飲んでないのにそのテンションってどうかと思いますよ。」

「良いじゃん、どうせこれから酔っぱらうんだし。」

「いやだから…どんだけ今日は悪酔いするつもりなんですか…。」

 何やら上機嫌に笑い声をあげる店長に、思わず嘆息したのは許してほしい。ザルといっても過言ではない店長だけれど、時折手が負えないほどに悪酔いする時がある。だからこの人が自ら酔っぱらう、と宣言した時は要注意だ。自らに被害が及ぶ可能性が十二分にある。嫌な予感に背筋を一瞬凍らせた私は、少しばかり私たちから距離を取って歩いている社員に目をやった。他人の振りをしたい気持ちはよく分かる。出来るなら私だって今の店長とは他人の振りをしたい。さすがに公衆の面前で、良い年した大の男がこのハイテンションというのはきついものがある。だからこそ、社員にばかり他人の振りなどさせてやるものか。

「…ほら、店長。大野さんが店長が構ってくれなくて寂しいって顔してますよ。」

「え?マジで?」

「ちょ…切原さん待って俺そんな顔してないし!って店長も何本気にし…ぎゃあああ!」

「…うわー…。」

 思い切り目があったにもかかわらず、あからさまに目を逸らした社員が悪い。腕に絡みついていた店長の脇腹を何度か突いて、社員を指さして見せる。私を見捨てて店長のハイテンションに付き合わせるというのなら店長をけしかけられても何も文句は言えまい。他人の振りを決め込んでいる社員に気付いた店長の目が、一瞬で新しいおもちゃを見つけたとでも言わんばかりに煌めく。それにぞわ、と悪寒を感じつつもそのままにしておけば、響き渡る社員の悲鳴。それはそうだ、いきなり店長に愛のスキンシップという名の飛び蹴りをかまされれば誰だって悲鳴を上げるに決まってる。自分でそういう風に仕向けたくせに、目の前で起きた光景に声が漏れた。

「二人とも置いていきますからねー。」

「あ、俺も行くー。」

「待って、俺放置!?」

 二人の乱闘というかなんというか、猫がじゃれているような光景を一、二分眺めてからゆっくりと歩を進めだす。先に反応したのは店長で、完全に置いていかれそうになった社員の声が大きく、振り返った店長が無言で威圧していた。さすがに此処が極々普通に人通りのある一般道だということを若干でも店長は覚えていたらしい。

 結局、集合時間きっかりに全員が集まったというのに、店長と社員の無意味なハイテンションに振り回された所為で駅からほど近い居酒屋に着いた時には既に三十分が経過していた。席に通されながら、何に対してではないけれど疲労感から溜め息を吐いたのは仕方のないことだろう。

「切原さん俺の横ねー。」

 店自体が空いていたからか、はたまたいつも煩いからか。店の奥の個室に通されたかと思えば、一番に靴を脱いだ店長はいつも通り一番奥に陣取った。そしてそのまま、自分の横の座布団を叩きながら私を呼ぶ。やはり今日は面倒な酔い方をしそうな気がする。あんなテンションでは、折角個室に通されたにもかかわらず外にまで声が響くんじゃないかとまで考えて、少しばかり頭が痛くなった。

「大野さんどうぞ。」

「え?」

「行けよ。」

「…はい。」

 とりあえずと、パンプスのストラップを外しながら既に靴を脱ぎ終わっている社員を店長の隣に促せば、なんで俺が行かなきゃいけないの?とでも言いたげな、社員のリアクションが返ってきて、思わずそれに対する声が低くなった。とぼとぼと店長の隣に社員が座れば、途端不機嫌そうな声が店長から上がる。

「なんでお前なんだよ。」

「俺に言いますそれ!?」

 自分が脱いだパンプスは勿論、ついでというかなんというか、目について気になりどうしようもなかったので、店長と社員の靴も揃えておく。それから店長の向かいに腰を下ろせば、どことなく恨めしそうな視線と目が合った。けれど店長が何事かを口にしようとした瞬間、まるで図ったかのように個室の扉が開いて、お絞りとお通しを持った店員が入ってきたことでそれは言葉にならなかった。

「何飲みます?あ、はい、メニュー。」

「俺水割りー。」

「俺はウーロンハイ。」

「私はカシスオレンジ。」

 店員に一瞬待ってもらって、とりあえずとアルコールだけを注文する。メニューを広げてどのつまみを頼むか相談するも、大体いつも同じものを注文している事に誰ともなく気づいて、アルコールが来たときに頼めばいいか、と安易に落ち着いた。

「切原さんカシオレオンリーだよねー。別の飲まないの?」

「あー…まあ、飲みますけど。好きなんですもん。」

「カシオレだと酔わないって前に言ってたしね。」

「そうそう。よく覚えてましたね。」

「いや、覚えてるっしょ、そのくらい。」

 運ばれてきたグラスをそれぞれの手に渡して、ついでに注文もして。特に何かあるというわけでもないけれど乾杯でもするか、となった瞬間。グラスを持つ私の手元をじっと見つめていた店長が、唐突な質問を投げかけてくる。別に深い理由があるわけじゃない。ただ好きなだけで。ただアルコールが弱いから、酔いにくいだけで。続けようとした言葉はなぜか社員に取られたけれど、何かおかしいところでもあるのかと逆に首をかしげられてしまっては、それ以上は何も言えなかった。

「じゃあ店長、乾杯お願いしますね。」

「えー、俺なの?」

「このメンツで店長以外っておかしいでしょう…。」

「大野とかさあ。」

「俺はパスで。」

「んだよー。」

 半ば押しつけられる形になったから当然と言えば当然だけれど、ぶつぶつと納得がいかないと文句を言いながら店長はグラスを持つ。それに合わせるように、私と社員もグラスを持った。もともと乾杯の音頭をかけるのが嫌いだ、と公言している人にやらせるのも酷な話かもしれないけれど、一応社員の遅い小規模な送別会、という名目であるわけだし、私は単なるアルバイトだし。やれる人は、消去法的にも店長しかいないのだ。諦めてください店長。

「じゃあ…うちを辞めていく薄情な大野の、」

「ちょ、薄情って何ですか!酷い!」

「店長、一応送別会って名目ですから。薄情に関して否定はしないですけど最初くらい、」

「そこ否定してよ切原さん!」

「大野うるさい。」

「俺だけ!?」

 乾杯の言葉があまりにも酷い、と社員が喚くのに合わせて、敢えて私もそこに悪乗りしてみる。そうすれば更にギャーギャーと騒がしくなるのは目に見えていたけれど、どうしてか、今は騒がしい空気に浸りたいと思った。何故だか分からないけれど、特に社員の前で私は、素直さを失う気がする。いつだって社員に対しては、なるべく毒舌であるように無意識に心がけていることに気がついた。

 社員がいじられキャラであるということは今に始まったことではない。店長が社員のそのキャラクターを固定化させ、私がそれを助長する。いつもの、今までバイト先でよくあった風景だ。社員が酷いだの薄情なのはどっちだ、だの騒いでいるのを私と店長は耳を塞ぐようにして受け流す。騒げば騒ぐだけ、全員が笑顔になっていく。社員が思う存分喚いた後は、私がお腹を抱えて笑うだけだった。

「切原さん爆笑しすぎ…。」

「っあはは!だって…面白いんですもん、っ…くくっ。」

「とりあえずちゃんと呼吸しようか。」

 笑いすぎて、半分過呼吸みたいな状況に陥った私を、社員はどこか遠い目で見ている。テーブル越しに伸びてきた店長の手に軽く肩を叩かれて、そろそろ笑いを抑えて呼吸することに重点を置かねば、苦しくなるのは自分だと理解した。既にお腹は痛いし笑いすぎて上手く呼吸ができていないから十分に苦しいのだけれど。はあはあと荒い呼吸のままでも笑いをどうにか抑え、目元に溜まった涙を指先で拭う。大丈夫?と社員に問いかけられて、でも上手く声を発せる自信はなかったから軽く頷くに留めておいた。

「切原さん笑い上戸だったんだね。」

「知らなかったのお前くらいだろ。じゃあ、気を取り直して…切原さん、グラス持って。」

「っ‥はーい。」

 意外な一面を見た、とでも言いたげな表情の社員は無視して、店長の言葉に慌ててグラスを持つ。私だって人間だ。確かに普段は無表情だとか、無感情に見えるだとか、周りからの印象は散々だけれど、だからってそれが私の全てじゃない。馬鹿笑いだったする。面白いと思えば、涙を流してお腹を抱えて笑い転げるくらいのことはする。そういうある意味では隙といわれるような面を、積極的に人に見せるのは憚られるから、いつも誤魔化して隠しているけれど。

「ん、じゃあ…乾杯。」

「かんぱーい!」

「乾杯。」

「大野さんお疲れ様でしたー。」

「ありがとー。」

 乾杯の音頭に、三人のグラスの縁が音を立てて合わさる。そのまま一気にグラスの半分ほどを飲めば、良い飲みっぷり!と、店長が声をあげて笑う。そう言っている本人のグラスの中身が一瞬で空になっていたのは見なかったことにしたい。

「相変わらず切原さんも飲むよね。」

「まあ、店長ほどじゃないですけど。」

「あー…まあ、ね。俺も今日は酔おうかなー。」

「泣かないでくださいね、面倒なので。」

「俺泣き上戸じゃないし!」

 うだうだと騒ぎながらアルコールを次から次へと喉に流し込む。私自身アルコールに強いこともあって、基本的にピッチも早ければ飲む量も恐らく女にしては、多い。一時間も経たないうちに、気づけば八杯のカクテルを飲みほしていた。これが可愛らしいカクテルグラスで出てくるような店なら良かったけれど、生憎ここは全国チェーンの居酒屋。カクテルだろうとジョッキみたいなグラスで出てくる。可愛げなんてあったものじゃない。尤も、このメンツで飲みに来ている時点で可愛げなんて気にしてはいないけれど。

「切原さん、まだイケる感じ?」

「え?あー、はい。」

「ピッチ早いよねー。」

「店長も同じくらいでしょう。変わらないじゃないですか。」

「さすがに店長は何杯もグラス抱えてないけどな。」

「…悪かったですね、大酒飲みで。」

 居酒屋の唯一の難点といえば、注文したアルコールが来るまでに時間がかかるというところだ。特にこの店はそれが酷い。何をどうしたらこんなにも遅いんだ!と時々キレている客を見かけるレベルで遅い。私なんかはもう慣れているから何とも思わないのだけれど、まあ時々、ここまで出てくるのが遅いのは何か特別な理由でもあるのだろうかと不思議にはなる。

とにもかくにも、注文したアルコールが届くまで遅いのならば、最初から三杯くらい頼んで、手元に置いておけば良いじゃないかというのが私の考えなわけだ。それにいちいち注文するのが面倒くさいというのも正直なところ。まあ普通、グラスを幾つか抱えてアルコールを半ば一気飲みレベルで飲んでいる女がいたら、それはそれで厳ついと思う。一応、自覚はしている。一応は。

「切原さんって酔わないの?」

「いや…今日は若干酔ってますよ?」

 素朴な疑問、と言わんばかりに私の顔を覗き込んできたのは社員。その頬は赤く染まっていて、少しばかり目もとろんとしている。眠たそうだ。社員も酒に弱いわけではないが、ザルといっても過言ではない店長に比べたら弱い。私はザルなんてとても言えないけれど、それでも飲むペースが速いから、多分社員が酔っているのは、私や店長の早さに合わせてアルコールを摂取したせいだろう。

 とはいえ私だって今日は自分でも珍しく酔っていた。酔っている、といっても、少し体がふわふわとした感覚に包まれているくらいだけれど。千鳥足なんて体験したこともないし、多分世間一般的にはそこまで酔っていないのだと思う。それでも私的には十分酔っていた。きっと、いつもより目だって開いていない。

「ふふ、切原さん目がトロンってしてる。可愛いー。」

「可愛くないです。」

「いや、可愛いって。」

「かーわーいーくーなーいー。」

 駄々をこねるように否定すれば、くすり、と小さく社員は笑った。そして私と社員のやり取りを眺めていた店長もまた、笑う。ふわりと頭を撫でられて、社員の無意味な子供扱いに少しばかりテンションが下がった。口には出さないけれど。それでも少しだけ表情には出ていたかもしれない。だから子供扱いされるのだと言われればそれまでだけれど、実際問題成人しているし、二人と比べればお子様なのは仕方のない事だけれど、それでもやはり、気分はよろしくない。尤も、酔いの力も相まって、いつも以上に感情の起伏が表に出やすいのかもしれない。

「切原さんは可愛いって。大野も言ってるじゃん。」

「そうそう。俺、お世辞は言わない主義だよ?」

「お世辞言う人ほどそうやって言うんですよ。」

「酷い!」

 正直に言って、気恥ずかしかった。素面のときだったらもう少し上手く切り返せたかもしれないけれど、アルコールのせいではなく、頬が赤くなるのを感じる。見た目的な可愛さなんて皆無で、更に言ってしまえば、内面的な可愛げだって欠片もない。そんな人間に対して、可愛いだなんてさっぱりその神経が理解できないのだけれど、その反面、正面切って言われてしまえば、恥ずかしくだってなる。別段浅い仲というわけでもない知り合い故の贔屓目だろうが、社員も店長も世間一般的に見た目が悪くないのだ。そんな二人に言われれば、例え酒の席での戯れの言葉でも、どうリアクションすればいいのかよく分からなかった。元々、褒められなれていないというのもあるのだろうけれど。

「切原さんはもっと自分に自信持つべき。折角可愛いんだから。」

「そうそう。自信持たないと損だって。ねー、店長。」

「…ありがとう、ございます。」

 自信を持て、だなんて。なんで社員の送別会で私がそんなことを言われているのか皆目見当もつかないけれど、それでも小さく頷いておくことにした。嬉しくないわけじゃない。でも、そんな褒めてもらえるような容姿をしていないということを自分自身いちばんよく理解しているからこそ、その言葉をすんなりと受け入れてしまえないのだ。とはいえ、この二人には何を言っても結局は今以上気恥ずかしくなるようなストレートな言葉を幾つも投げ返されそうで、全力で否定したいはずなのにそれができなかった。歳の功とは、なんて苛立たしいものなんだろう。

「…ちょっと失礼しますね。」

「んー?どこ行くの?」

「お手洗いに。」

「あーそう。いってらっしゃい。」

 赤くなった頬のままこの場にいたくなくて、半ば逃げるように席を外した。トイレに行くなんて、ただ逃げるための口実。この店のトイレは本当に店の奥にあるから、席に戻るまでに時間がかかっても何も言われない。一旦店の裏口のようなところを出て、雑居ビルの廊下に出なければいけないから、至極面倒なのだ。とはいえ、今はその面倒さがありがたかった。

話をすればするだけ、さりげなく私に触れる社員の手のひらにフラッシュバックするのは、あの、社員の最後の出勤の夜。ただ肩に触れられるだけで、髪を撫でられるだけで、きっと表情には出ていないはずだけれど、あの夜のことを思い出すには十分すぎた。ごつごつとした手のひらの感触と、体温。それに、ぐらりと記憶を揺さぶられる。可愛いという発言に対して居た堪れなくなって席を外したのが第一の理由だけれど、きっと社員のボディタッチは付加要素になりうる。

「何を、思い出してるんだろう。私は。」

 馬鹿じゃないのか。トイレの手洗い場で、鏡を見ながらそっと呟く。今、トイレに誰もいなくてよかった。こんな自嘲的な声は、例え知り合いでなくともあまり聞かせたいものじゃない。はあ、と大きめの溜め息を吐いて、石鹸で強く手を洗った。ごしごしと無駄に泡立っていく両手を、勢いよく流れる水で漱いで、鏡に映る自分を見る。アルコールで頬は薄らと上気して、眠たそうな眼をする女が一人そこには映っていた。可愛くなんてない、けれど、それでもあの二人が言ってくれるのならば、少しだけでもこのコンプレックスの塊のような自分の容姿にも、自信を持つ努力をしてみよう、そんな風に思った。

 感情を切り替えようと思えば、そこからは割合に立ち直りが早いのが私だ。ふう、と今度は溜め息ではなく、ただ一つ、息を吐いて、ぎゅっと蛇口を閉じた。手を拭いている間に、いつもの私のテンションに戻っていく。

少しだけ落ち着いた思考回路を片手に廊下に出ると、そこには予想外の人影があって、私はそこで、思わず目を瞠った。居酒屋に通じるドアの横の壁に背を預けて、おそらく私を待っていたのであろう人影が、手持無沙汰に立っている。何故いるのか理解できなくて、それでも声をかけないわけにはいかなかった。

「店長…?どうしたんですか?」

「ん?切原さんの事、待ってたの。駄目?」

「いえ、駄目じゃないですけど…。」

 この人の笑顔は、いつだって真意が読みづらい。今だって私を待っていた、と言って、目を細めてにこりと笑って見せるけれど、その笑顔の裏には、別の何かが隠されているような気がして、つう、と背を冷たいものが流れた。何か、嫌な予感がしないでもない。それは恐らく、社員に抱き締められた時感じたのと同じ感覚だった。いつもとなんら変わらないはずの店長の笑顔、だけど、怖い。そう思ったのは、一瞬だった。

「切原さんは、俺の事どう思ってるの?」

「え?って‥う、わ!」

 唐突な質問に目を瞬かせた、次の瞬間、背中を壁に軽く叩きつけられていた。痛い、そう思う前に、何があったのだろうと状況把握が上手く出来ないでいた。顔の両脇には、店長の腕がある。つまりは壁を利用して、拘束されているようなもの、か。それでも、何故。状況把握はできたけれど意味がわからなかった。これではまるで、社員とのデジャヴュだ。

「店長…?」

 これは何かの間違いか、悪い冗談か。酔った勢い、と思い込もうにも店長の頬は微かにしか上気していなくて、冗談めかしているけれどけしてそうでないことを私に教えていた。するりと店長の右手が、私の頬を滑る。

「大野に、口説かれたんでしょ?」

「何で、」

「俺も切原さんの事気に入ってるのにさー…あいつばっかりずるくない?」

 頬に触れる手のひらが止まる。それと同時に、私の視界が暗くなった。否、視界を店長の肩に阻まれたのだ。抱きしめられている、そう理解するのに、時間はかからなかった。私より遙かに身長の高い店長に抱きしめられては、その胸元で私の視界は覆われてしまう。

「俺とあいつだったら、切原さんはどっちを選ぶ?」

 押し当てられた胸元から微かに香る店長の煙草。抱き締める腕の強さも、体温も、煙草と一緒に香る香水も、嫌いじゃない。だけれど、何かが、違う。そんな事を思いつつ、恐らく店長は、私がどう答えたとしても逃げ道を作るために飲み屋でこんな事をしているのだと察した。だってそうでもなければ、ともすればセクハラだなんだと訴えられかねない行動を店長がするわけがない。酔った勢い。その一言があれば、店長の行動ももちろんだけれど、私の言葉も、全てどうにもなる。尤も、店長が冗談でも本気でも、どちらだろうと別段構わなかったのだけれど。

「…どちらも選ばないはアリですか。」

「んー?ナシ。確実に選んで。だからどっちも選ぶ、はアリ。」

 でもどっちも選ぶなんて、出来ないでしょ?そう問いかける店長の目は、さも面白そうに細められている。こんなときに、ああ、この人はドSなんだろうな、なんて思ってしまうのだけれど、今この状況では危機感がなさすぎる。自分の思考回路がばかばかしくなってきた。

「ねえ、どっち?」

 顔を覘きこまれ、そっと唇が近付く。どちらかが少しでも動けばすぐにでも唇が重なる、吐息が混じり合う距離で見つめ合いながら、店長は再度私に問いかけた。ともすれば事故だろうと何だろうとキスしてしまいそうな状況だというのに、何故か私は落ち着いていた。店長は本気じゃない。何となく、それも根拠も何もないそんな感覚だけで何を言うと言われたらそれまでの事。それでも私は、自分のこういう場面での感覚を割合に信用している。だから少しばかりの逡巡の後、ぽつりと答えを零した。

「…店長じゃない、気がします。」

 だからと言って社員を手放しで選ぶ訳ではないけれど、それでも、私は店長を選ぶ事はないと思う。異性として見ろと言われた時に、店長も社員も、二人共を異性として意識してみることは可能なんじゃなかろうか。だけれどそう考えると、きっと店長は選ばないと思った。何かがしっくりこない、じゃないけれど。何というか、私と店長では噛み合わない部分が多すぎる気がするのだ。社員とも噛み合わない部分は多々あるだろうけれど、天秤にかければ、それは店長の方が噛み合わなそう、というだけの事。

「大野の方が良い?」

「いや、だから…大野さんを選ぶってわけでもないですけど、多分でも、何か、違う気がするんですよ。」

 上手く言葉にはならないけれど。言うならば、抱き締められた瞬間に、嗚呼、と無条件で目を閉じてしまいたくなるか、否か、といったような感覚論だ。所詮はその程度の選択理由なのだけれど、それでも、その感覚そのものが結構大切なんじゃないかと、私は思っている。

「ふうん…ふふ、まあでも、予想通りかなー。」

「え?」

 店長の笑いによって微かに空気が揺れるのと同時、そっと店長は私から体を離した。壁に体を預けたままの状態で店長を見上げれば、にこりと笑いかけられる。その笑みが今まで見た中で一番といっても過言ではないほどに、柔らかな表情なのは、何故?

「切原さんが俺を選ばないって、何となくは分かってたよ。」

「…どういう、事ですか?」

「んー?俺は気に入ったものは全部手元に置いておきたい。逆に言えば、気に入ったものだけあればそれで良いの。でも、切原さんはそうじゃないでしょ?だからだよ。」

「…?」

 正直、よく分からなかった。私と店長の思考回路の違いから、何故私が店長を選ばないだろうという結論に結び付いたのか皆目見当もつかない。それを言うならば根本的に店長の行動と質問の意味そのものが理解不能だったのだけれど、何やらここ最近、理解不能な事態ばかりに見舞われるから、それについて追及する気は端から起きなかった。

「よく分かりませんが…。」

「それで良いの。世の中知らない方が良い事っていっぱいあるでしょ?」

「…はあ、」

「じゃ、席に戻ろうか。あんまり放置すると、あいつ寝ちゃってそうだし。」

「‥そう、ですね。」

 ぽん、と肩を叩かれて、それに促されるようにして歩き出す。途中見上げた店長の横顔は何も私に語ろうとはしなくて、それに私は考え込む羽目になる。はぐらかした言葉が逆に、店長のあの説明には恐らく、私が知るべき何かが秘められている事を示しているような気がした。

 席に戻れば案の定、社員は一人テーブルに突っ伏して寝息を立てていて、それを店長が踏みつぶして起こしている姿に思わず笑ってしまった。何もなかったように席に座りながらも、私の脳内を巡るのは、様々な疑問符。店長の行動の意味も理由も分からなければ、その後の言葉の真意も分からない。悩みごとは社員だけで十分だと思っていたのだけれど、そんな矢先にこれだから、少しばかり頭が痛い。

 テーブルの上で寂しく私を待っていたカクテルを喉に流し込みながら、目の前に座る二人を何となく眺める。今まで何とも思っていなかった筈の人間に、それも立て続けに抱き締められるというのは一体全体どういう事なのだろう。意味が分からない。けれどただ一つだけ確かなのは、私はきっと、何かを求めているという事。だから店長ではないと、何かに違和感を抱いたのだろう。


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