第四章
飲みの席の空気が好きだ。アルコールで人の感情の蓋が一部分外れて、少しばかり素直というか、素の表情が見える。そうした空気が、好きだ。だから、というか、最も彼だからというのもあるのだけれど、誘われた時二つ返事で私は飲みに行くことを了承した。社交辞令だと思っていた飲みに行こうという誘いが現実味を持って、そうして約束の日となった今日、朝から柄にもなく落ち着かない気持ちで過ごしている。折角の、飲みの席なのに。
「あー…うー…うう、」
「うん、いい加減落ち着こうか。」
「無理…。」
大学のカフェテリアの隅。窓際で太陽の一番差し込む席は心地好い。そこに親友と二人、カフェラテと甘い物を片手に陣取って、ぬくぬくとした時間を過ごすのが私の日課とも言える。寧ろ履修の時点で何処かしらに空いた時間を作ってはこうして毎日、無駄な時間を過ごす。時間の浪費と言われればそこまでだけれど、息抜きは絶対的に必要だと思うのだ。だから良しとする、自分勝手な正当化だけれど。
そんな大好きな息抜きの時間だというのに私の心は晴れない。ばたりと力なくテーブルに突っ伏しては、無意味な呻き声だけを量産しては親友に呆れたような視線を投げかけられる。申し訳ないと思いつつももやもやと落ち着かない心を持て余している私には、気持ちの置き場所が見付けられなくてどうしようもないのだ。
「何だってそんなに病んじゃうかなあ。折角のデートなんでしょう?」
「デートっていうか、ただの飲みね。ただの。」
「男女が二人きりで飲みに行くって、何処がデートじゃないのよ!」
「あう。」
ぺちん、と良い音を立てて額を指先で弾かれる。痛い。のろのろと視線を上げれば、呆れてはいるのだろうけれど、何処となく微笑ましいとでも言いたげな表情の親友と目が合った。私の額を弾いた指先は、そのまま私の髪に伸ばされ、そこを梳き始める。触れる指先の優しさに思わず目を細めた。
「緊張しすぎ。ただの飲み、なんだったら余計に気楽にいかないと。」
「うん…うん、そうだね。…頑張る。」
「頑張って気楽にいくって、本当友香子らしいわ…。」
テーブルに突っ伏している間に大分冷めてしまったカフェラテに口を付ける。温いカフェラテのお世辞にも美味しいとは言えなくなった味が、逆に私に冷静さを与えていくようだった。そうだ、テンパったところでどうしようもない。落ち着いて、大好きな飲みの席を楽しむに越した事はないのだ。
「何時に約束してるの?」
「んー…地元の駅に十八時待ち合わせ。」
「ふうん。じゃあ次の授業終わったら急いで帰らないとね。」
「うん。次、カナは?」
「あたしは次の授業休講で、そのあとの五時限目かな。今日終わるの遅いんだよねー…。」
「ご愁傷様。」
幾ら仲が良かろうとも、目指す進路が違えば授業も違う。学科自体は同じで、半分以上の履修は被っているがこうしてお互いに別々の授業を取る事も多い。逆にこうしてそれぞれがそれぞれで丁度良い距離感を保っているのが、私と親友にとって最適なのだろう。
「じゃあそろそろ講義室行くわ。」
「んー、行ってらっしゃい。あと!頑張ってね!」
「…ありがと。」
ぶんぶんと大きく手を振って見送る親友にこちらも軽く手を挙げて返し、重いテキスト類を抱えて講義室へと向かう。向かう道すがら既に意識は講義終了後に思いを馳せている辺り、どうしたものやら。とりあえずといつも通り講義室の最後列の端に陣取っては、終了時間を只管に待つ事にした。―――の、だけれど。
「切原!」
「……。」
そういえばこの講義は、最後の砦ともいえる親友はおらず、だけれど天敵ともいえる悪友のいる凄まじく胃痛のする時間だということをすっかり忘れていた。あからさまに頭を抱える私にも怯まない悪友にある種拍手したい気分だ、自分が当事者でなかったのならば。
「何、今日デート?」
「…だったら?」
「へえ…否定しねーんだ。」
「する必要がない。」
ぎくしゃくとした空気を作り出しているのは果たして私か、それとも悪友の方か。どちらがどちらも、ピリピリとした空気を纏いつつ、それでもお互いに隣同士座った席から移動しようとはしない。尤も私の場合は、移動する理由がないのだけれど。この席は私にとっての特等席で、隣に悪友が座っていようとも知った事じゃあない。気にしなければ良いだけの話だ。
この授業がゼミの教授の講義でさえなければ、こんなに苛立たしい思いもしないのだろう。だってそうでなければ、私たち二人が並んで座る事など滅多にない。普段悪友の方は悪友の方で別の男友達と連れ立っているのだから。この講義だけは、仕方がない事なのだろうと諦めるしかない。嫌な事と良い事というのは、大概にして綯い交ぜになってやってくるものだ。
「誰?」
「何が。」
「相手。」
「言う必要ある?」
機械的にノートを写す私の隣、ノートを開く様子すら見受けられない悪友の言葉をぴしゃりと斬り捨ててから伺うように視線をやった。お互いにお互いを探り合うような視線が交わされる事数秒、先に折れたのは、悪友だった。
「…良いや、聞いても答えねーし。無駄だったな。」
「最初からそこに思い至れ。」
視線を逸らしている間に講義室の前方、ホワイトボードには大量の文字が羅列されていた。もっとも意識の一部は教授の言葉に耳を傾けていたから、順不同気味なホワイトボードの文章をノートに書き起こすのは容易なのだけれど。教授は一度の講義のスピードが速すぎると学内でも有名だけれど、その割に授業を早く切り上げてくれるから私は好きだ。授業進行の遅い教授が授業を延長させると苛立ってしまうのは、私が短気だからだと十分自覚してはいる。
「…あのさ、」
「ノートなら講義終わってからにして。今日急いで帰るから、明日返してくれれば良いし。」
「あー…おう。さんきゅ。」
「礼を言うなら自分でノートを取る癖付けてよ。」
「…おう。」
何だかんだ言いながらもノートを貸してしまう私も私なのだけれど、この悪友の適当さときたらどうしようもない。はあ、と大袈裟に溜め息をこれ見よがしに吐きつつもそろそろ教授の話は終盤と見た。ノートを取る速度を上げつつ、片手でテキストを纏める。そうこうしている内に講義は終了、多くの学生がノートを取り続けているのを後目に、一人、立ち上がった。
「はい、これ。」
「助かるわー…なあ、今日の二時限のノートも貸してほしんだけど。」
「…ん。今度何かお礼期待してる。」
「了解。ありがとな。」
「別に。じゃあね。」
資料を貼りすぎた所為で分厚くなったノートと、ポストイットでぐちゃぐちゃになったノート。どちらもお世辞にも綺麗とは言えないけれど、一応私の勉学に対する努力の結晶だという事にしておく。そんなノートを悪友に押し付けるようにして貸してから、急ぎ足でロッカールームへと向かった。早くテキストを置いて、駅に向かわなければいけない。カツン、カツン、と無意識に身だしなみに気を使って履いてきたパンプスのヒールが軽やかな足音を奏でる。その度に講義室内でまだノートと格闘している人々の視線が突き刺さったけれど、気にしている暇なんてなかった。
講義室からロッカーに直行して、テキストやノート類を全て押し込む。普段はそこにあるだけで滅多に利用しないロッカーの存在がこんな時に有難く思えるのは私の現金さ故か。何はさておき、鞄の中身を軽くさせて、今度は駅に向かうべく踵を返した。こんなにも心が急いているのはいつ以来だろうか。分からないけれど。予定通りの電車に乗り込み、窓ガラスに映る自分を見つめる。駅まで闊歩する内に乱れた前髪を軽く直し、携帯を開いた。受信メールはナシ。それに少しばかりホッとして、待ち合わせ予定の駅に降り立った。まだ待ち合わせ予定の時間には余裕がある。化粧室に向かう足取りは軽かった。
乗換利用客の多い駅は人であふれかえっている。中でも夕方の駅のパウダールームは少しばかり混雑していた。皆帰路に着く前に、否、誰かに会う為に化粧を直しているのだろう。かくいう私もその一人だ。これから会うたった一人の為だけに心を躍らせては、唇に紅を引く。唇を紅く染め上げただけで、何故こんなにも顔の印象は変わるのだろうか。いつもは面倒でしないチークで頬は薔薇色に染まり、健康的に見える事だろう。いつもより少しだけ睫毛を長く見せるマスカラも、目元を彩るアイシャドーも、全てはこれからのひと時の為。我ながら馬鹿馬鹿しいけれど、それでも化粧の一つとっても、少しばかり肩に力が入ってしまうのは仕方のない事だ。
「…ん、よし。」
一応電車の中で手櫛とはいえ軽く整えた髪型も、化粧も、もう一度鏡で確認して一人息を吐く。軽く香る程度にお気に入りの香水も付けた。今日は自分なりに最大限のお洒落もしたつもりだ。決戦、ではないけれど、この感情が恋ならばと仮定して、恋は戦争ともよく謳われている。対決の準備は、整った筈。改札口で待ち合わせをしている筈の彼の姿は、私がパウダールームから出ても未だ無くて、とはいえ腕時計の針は待ち合わせ時刻の五分前を示している。あと、五分。心臓が、忙しない鼓動を刻み始める。まだもう少し落ち着いていて欲しい。どうせ彼と顔を合わせたら落ち着けるわけがないのだから。
「切原さん!」
「っ…中村君、」
そんな事を思っている内に、不意に背後から響く柔らかな声音。振り返れば、穏やかな笑顔が私を見詰めていて、その視線の柔らかさに心臓が先刻よりも更にでたらめに打ち鳴り始める。嗚呼、だから会うまでは落ち着いていたかったのに。
「ごめんね、待たせちゃったかな。」
「全然。今さっき来たところだよ。」
「ん、そっか。久しぶりだね。」
「久しぶり。」
ふわり。向けられた笑顔の柔らかさに胸がときめくのを止められない。穏やかな声音がさらさらと耳元に注ぎこまれるのが心地良くて、思わず口角が自然と持ちあがった。
「居酒屋、予約してあるんだ。行こうか。」
「うん。」
ごく自然に隣に並んで歩き始める。駅から徒歩で五分ほどの距離にある、全個室の居酒屋を予約したのだと、道すがら彼は笑った。行った事があるかという問いに、店を知ってはいるが行った事はないと首を振れば、気に入ってくれると良いな、なんて、余りにも可愛らしい笑顔を浮かべられてどうしたら良いか分からなくなった。本当に彼は、此方を戸惑わせるのが得意な人だ。余りにも無防備で、余りにも近い距離間で。いつもリアクションに、困ってしまう。
「へえ、割と駅に近いんだね。」
「五分って言ってるのに近いよね。…どうかな?」
「凄く落ち着く感じのお店だね。好きだよ。」
「良かった。それ聞いて、安心したよ。」
ふわり、と。目元を和らげて彼は笑った。その笑顔に促されて、こじんまりとした居酒屋の個室で、向い合せに腰を下ろした。メニューを何となくお互いに見えるよう間に置くと、それだけなのに彼はありがとう、と呟く。
「とりあえずお酒だけ頼んで、ご飯は後でゆっくり選ぼうか。」
「そうだね。あ、じゃあ私カシスオレンジ。」
「んー…俺はウーロンハイで良いかな。」
ひとまず、とテーブルの端に置かれていたベルを鳴らし、店員に注文を伝える。一先ず飲み物だけ、と言えば店員は心得ていると言わんばかりににっこりと笑って退室していった。それをぼんやりと見送って、二人でじっくりとメニューを眺める。
「何食べようか…切原さん好きな物って何?」
「あー…出汁巻き卵とかかな。」
「じゃあそれと…あ、軟骨の唐揚げ食べたいな。」
「焼き鳥も頼まない?」
「賛成。何食べようか。…お、ぼんじり。」
たっぷりと時間をかけて選んだ数品を、アルコールを運んできてくれた店員に頼み、二人して同時に息を吐いた。そのタイミングの良さに顔を見合せて笑う。それぞれがグラスを持って、軽く縁を合わせた。カチリ、と軽やかなガラスの音が鳴る。
「何に対してって訳でもないけど乾杯。」
「乾杯。…今日は誘ってくれてありがとう。」
カシスオレンジを飲みながら礼を言えば、俺が一緒に飲みたかったから、なんて、ある種口説き文句じみた台詞を彼は何の事もなく言ってのけた。そんな彼に心臓が高鳴って、同時に言い知れない違和感が私を包んだ。
「大学はどう?忙しい?」
「んー、まあまあかな。講義もゼミも楽しいし。強いて言うならバイトが忙しいかも。」
「切原さん、仕事できそうだし、頼られてるんじゃないのかな。」
「学生バイトに頼りすぎだよ…。」
「はは、確かに。そんなにシフト入ってるの?」
話題は当たり前に近況報告じみたもの。尤も彼の方から話題は全て振ってくれるから、私は基本的に応えるだけで良い。適当につまみを食べながらの会話は楽しい。高校在学時には思い描く事すらできなかった、彼とのツーショットが今まさに実現している。にこにこと私との会話を恐らく楽しんでくれているのであろう彼に、私までどんどん楽しくなって、知らず饒舌になっているのに気づいた。だって、そんな。私の話す一言一言に一々反応しては、寛いだ表情で笑うから。ハッとすれば、既に何杯ものグラスが空になって脇に避けられていた。飲みすぎたかもしれない、そんな風に思ったのは一瞬。
「切原さんって本当にお酒強いんだね。」
「どうなんだろう…でも今若干酔ってるよ?」
「大丈夫?お水頼もうか。」
「ああ、それは平気。大丈夫だよ。」
本当に?そう問いかけながら此方を窺う視線に心拍が上がったのは一瞬。次の瞬間には飲み始めた時に感じたのと同じ違和感が、強く私を取り巻いていた。そして、気付く。私が求めているのはきっと、この人じゃない。目の前にいる、彼ではないのだと。
ずっと、彼の優しさに惹かれていた。優しくて、穏やかで、暖かい。いつだって包み込むような笑顔が眩しくて、どうしようもなく焦がれた。だけれどこれは、きっと恋じゃない。心臓の軋む彼への想いは、限りなく妬みに近しい羨望だ。どこまで焦がれても私は、彼のようにはなれない。彼の優しさへの憧れが醜くなって、だけれどそれを私は、恋とすり替えていたのだろう。自分の醜さを自覚する事から、逃げる為に。
「…中村君は、優しいね。」
「え?どうしたの、突然。」
私の突然の呟きに、彼は当たり前に驚いたように目を瞠った。次の瞬間柔らかな弧を描く彼の瞳に、私ははっきりと自覚するのだ。きっと私は、彼みたいに優しくなりたかった。穏やかに、柔らかな雰囲気を、纏ってみたかった。
「私、中村君に憧れてたんだ。」
「……。」
私の唐突な告白に、彼は目を瞠ったまま。うまい言葉が見つからないのだろう。私だって話していても思っている感情をそのまま彼に伝えられる自信はない。だけれど今ここで言葉にしなければ、後悔するのは自分だ。自分の感情を見失って、傷付くのは、私自身なのだ。
「中村君みたいに、優しくなりたかった。だから中村君に、憧れてたの。」
「…今、は?」
「今も勿論、憧れてるよ。でもただ憧れてるだけの感情って、ある種無意味だよな、って思って。うまく言えないんだけどさ。」
憧れているだけの感情は、前にも進めなければ後ろに下がるわけでもない。憧れという感情に縛られすぎれば、人は何処にも動けなくなってしまうのではないか。不意にそんな事を思ったのだ。だから言った、ただそれだけの事。私は前に進みたいから。彼の優しさは全てを受け止めて包み込んでしまうような温かさがある。下手をすれば、その温もりに甘えきって、そのままたゆたっていたいと願ってしまうほど。彼のその優しさに甘えている人間は私だけではない。そして彼はそれに、気付いていない。ただ、それだけの事なのだ。
「俺も、切原さんに憧れてたよ。」
「え?」
「切原さんはいつだって真っすぐで、自分を強く持とうとしてたから。俺にはそんな強さはないからさ、…恰好良いなって、ずっと思ってたんだ。」
「私は強くなんかないよ。」
「それを言ったら、俺だって優しくなんかないよ。」
そこまで言い合って、どちらからともなく、目を合わせては小さく噴き出した。言って、良かった。彼と目が合った瞬間に、私の中の感情が一つひっそりと息を潜めていくのを感じた。それは私が恋心だと思っていた何か。残留するのは、朝焼けの湖のように静かに凪いだ感情だった。
「また、飲みに誘っても良いかな?」
「勿論。また、誘って?」
約束。そう言って差し出し絡めた小指が、きっと彼も私と同じような感情だったのだろう事を伝えてくれる。恐らくは、彼と私は、似ていたのではないだろうか。分からないけれど。ただの感覚的な、憶測だけれど。
「そろそろ帰ろうか?終電近いよね。」
「あ、そうだね…。じゃあ、行こっか。」
「うん。」
名残惜しくはあるけれど、荷物を持って伝票片手に二人並んで会計に向かう。ある意味予想通りにどちらも奢ると言って譲らなくて、レジ前で軽く言い合い、店員さんの苦笑いに気づいてはどちらからともなく割り勘にしよう、となった。流石に端数は出す、と言って引かない彼に押し負けて、そこはありがたく出して貰う事にして店を出た。
店を出た瞬間吹き付ける風が冷たくて、アルコールに火照った体には心地いい。肌寒い、という事もなく、寧ろ過ごしやすい気候といったところか。隣を見やれば彼も同じ事を思っていたらしく、風が気持ちいいね、と笑うから、そっと微笑み返した。
「駅まで送るよ。」
「あー…でも、良いの?中村君てそこのマンションじゃなかったっけ?」
「幾ら駅が近いからって女の子を見送らない訳にはいかないよ。」
「…ありがと。」
ナチュラルに女の子扱いをされて、さりげなく車道側に彼が立っていて、そんな何気ない仕草でエスコートされる。せめて端数は出す、と言ったのはいつだか社員に聞いた男のプライドだとか体面だとかそういったものだろう。そこに何度も突っ込みを入れるのは野暮だと言われたので、申し訳ないと思いつつもそれ以上は何も言わず、彼に促されるまま駅まで歩いた。然して会話がある訳でもなかったけれど、彼との無音状態は心地いい。無理に言葉を発さなくても良いと、自然体でいる事を許容してくれる彼の纏う空気は、私にとって掛け替えのないものだ。
「あの、さ。」
「んー?」
「本当は店で聞こうと思ってたんだけど。」
「うん。」
突然歯切れ悪く声を掛けてきたかと思えば、彼はそっと足を止める。その唐突な行動と言動に小首を傾げつつも、彼に合わせて私も足を止めた。駅まで後、ほんの数メートル。終電も近く辺りを歩きまわる人は割合に少ない。細い路地だから車は通らない。今私と彼は、完全に二人きりだった。
「切原さんって…好きな人とかって、いるの?」
「好きな、人?」
「別に深い意味がある訳じゃないんだけどさ。切原さんって、こう…そういう話高校の頃聞かなかったから、気になってたんだ。」
「…ああ。」
彼の言う事は尤もで、私は思わず頷いてしまう。高校の頃、別にモテないという訳ではなかった。学年は同じだが名前も知らない男子からアドレスを聞かれたり、だとかも何度かはあった。だけれど私は正直余り恋愛に興味もなかったし、全て適当にあしらっていた。彼氏がいなかった訳でもないけれど、同じ高校にはいなかったし、私が好き、というよりも相手からの告白で何となく付き合っているような感じだったから、誰かと恋愛話に興じた記憶も余りない。つまりは、浮ついた話題が少なかったのだ。そうなれば恐らくは、彼からすれば素朴な疑問なのだろう。
「―――好きな人は、」
いない。そう、確かに答えようとした筈なのに。何故かは分からない。分からないけれど、脳裏にちらつくただ一人の姿。私の名前を呼ぶ声も、煙草の香りも、この間初めて触れた男性らしい腕の力強さも、全てが一瞬でフラッシュバックして、その全てにぐらりと脳髄が揺れた。
「切原、さん?」
彼の訝しげな声が聞こえる。答えなくちゃいけない。いないのだから、いないと一言、返せば良いだけの事。だけれどいないとは言えなかった。いないと言ったらそれは、嘘になる気がした。どうしてだろう。あの真剣な眼差しにまた、射抜かれたいと思っているなんて、それを願っているなんて。嗚呼、また、分からなくなる。
「…いる、よ。」
「そっ、か。そうだよね、切原さんだし。」
「何それ。私だから…って何で?」
「だって切原さん、モテるでしょ?」
「そんな事ないよ。ていうか付き合ってる人じゃないし。」
「そうなの?」
「うん。」
どうして私は、好きな人がいると彼に言ったのだろう。でも嘘を吐いている感覚ではない。ただ真実だけをありのまま打ち明けている気分だ。彼とそのまま他愛のない会話をしながら駅まで、改札まで送って貰ったのだけれど、その間の会話を私は何一つ覚えていない。脳内にこびりついたように延々と映し出されるのは、あのやる気のなさそうな、真剣味の欠片もない不抜けた笑顔。何故此処に居ない筈の人間に、こんなにも心乱されているのだろう。何故。
どうしようもなく今、社員に会いたくて仕方なかった。
改札を抜けて一人になって早々に取り出した携帯で、本当は彼にお礼のメールを送らなければいけない筈だ。なのに指先は自然に、電話帳から社員の名前を検索している。表示された電話番号に通話ボタンを押す前に、それでもどうにか自我を保って、急いで画面を閉じた。今無性に、誰でもない、社員に名前を呼ばれたい、だなんて。あの声が聞きたいだなんて、どうかしている。どうやら相当に私は、酔っているらしい。