第三章
単なるアルバイトといえども、勤務歴がある程度長ければ長時間シフトと数日連続勤務などは当たり前になってくる。今日で連勤八日目、か。一週間以上暇な割に此処に詰めているのかと思うと、削がれるやる気も尋常ではないと思うのは私だけだろうか。いらっしゃいませ、と張り上げた声も閑散としているショッピングモール内では空しくも響かない。大体において連休明けのショッピングモール閑散期に、シフトを出す人間が少ないのがいけない。だからこうして私が連勤という被害に遭うのだ。
「切原さんっ!」
「は、え、…大野さん!?」
ぼんやりと、それでも店先に気を配りながら立っていると、不意に大声で名前を呼ばれた。如何せん突然の事態に上手く反応できない自他共に認める小心者の私だ。大袈裟なまでにびくり、と肩を震わせて声の方向を見やれば、そこには何故か、昨日で最後の出勤だと言っていた筈の社員―――と、今も呼んでいいのかは不明だけれど、他に呼び方がない、社員がいて驚いてしまう。
「え、何で、」
「何ー、俺が来ちゃ駄目?嫌だった?」
「いやいやいや、そういう事ではなく…。」
拗ねたように唇を尖らせる社員に、慌てて首を振る。来ちゃ駄目だとか、何故そこに話を繋ぐのだか全くもって分からない。否、からかわれているのだとは分かるのだけれど。呆気にとられている、としか言いようがない私の背後で、暇すぎてバックヤードで携帯電話をいじっていた店長がふらりと顔を出す。
「あー…、やっと来たよ。」
「店長が呼んでたんですか?」
「ん?そうそう。こいつ最後の最後まで抜けてるんだもん。」
「すみませんねえ!」
店長の方が社員よりも一回りほど年下の筈だったけれど、この二人を見ていると対人関係において年齢というのはあまり関係ないものなのかもしれないと思わされる。店長と社員の会話やらを聞いたり見たりしている限り、およそ社員が年上だとは思えないのだ。店舗内などでの立場を抜きにしても、この二人のパワーバランスは不思議だ。まあ店長にはドS説が出ていて、社員にはM説が出ていたから丁度良いのかもしれないけれど。とはいえ店長も社員の事を何だかんだと邪険に扱いつつも好きなんだろうなあ、と感じる。今だって白い目で社員の事を見て、社員もそれに半ギレのような態度だけれど、その空気は至極穏やかだ。何というか、そうあるべき空気、とでも表現すれば良いのだろうか。
「ほら、早くバックヤード入ってよ。色々面倒臭い話とかもあるんだから。」
「はーい…。」
面倒な話、と聞いた瞬間にがくりと社員の肩が落ちる。この二人の会話はデフォルトで漫才のように感じるのは私だけだろうか。仲が良すぎてこの二人は困る。この間バイト仲間と思わず、二人の仲の良さについて熱く語り合ってしまった。
「じゃ、切原さん。暫く一人にしちゃうけどよろしくね。」
「はい。まあどうせ今日も暇でしょうし。大丈夫ですよ。」
「切原さんには安心して任せられるよ。じゃ。」
「どーぞごゆっくりー。」
ひらりと手を振って送り出せば、店長は笑顔で扉を閉じる。店長の肩の向こう、社員のどことなくげっそりした顔が見えて笑ってしまった。どうにも社員は面倒事が嫌いで退社したらしい、とは、バイト仲間伝の噂で聞いた事。まあ社員も勤務歴が長くなれば長くなるほど、任される責務というのも増えていくのだろう。だけれどそれをこれから先も永遠に避けていく事など不可能ではないかと思うのは私だけなのか。とはいえ私には何等関係のない、他人の事だ。
「いらっしゃいませ、ご来店ありがとうございます。」
ちょうどカップルが来店した事で私は取り留めのない思考を切り上げる。顔に浮かべた笑顔は店長曰く完璧だそうで、そうして仕事に意識を切り替える私はその後暫く途切れない客足に、店長と社員がバックヤードから戻ってこない事すら思い出す暇もなかった。
*
店先の物音はバックヤードには届かない。逆をいえば、バックヤードでの物音も店には届かないという事になる。フードコートで隣にある店舗のバックヤードの物音は微かに聞こえるのだが、相当大きな音を立てない限りは割合に外界と遮断された密室となる事だろう。密室度を高める為か、桜井は至極当たり前な仕草で扉を閉める。目の前でバックヤードの鍵を閉められ、大野はすっと背筋が冷えるのを感じた。自分より一回りも下の男は柔和で穏やかだと評判の良い、店長の見本だと店舗のオーナーは評価していたが、その下に全く別の表情を隠し持っている事を知ってしまっては、もう無防備に近付けなかった。振り向いた桜井のいつも通りの笑みがどことなく胡散臭いものに見えて、大野は思わず一歩後ずさる。
「何怯えてるの?」
「怯えてなんて…いないっすよ?」
「そう?」
「ええ。」
じりじりと詰められる距離が恐ろしい。肉食動物に狩られる獲物の気持ちが分かるような気がした。バックヤードは狭く、そして乱雑としている。制服に着替えている桜井が脱いだ私服が端には積んであり、その傍に申し訳程度に切原の鞄と羽織ってきたのであろうパーカーが置いてある。桜井の私服が畳まれているところを見るとどうやら切原の方が桜井よりも後に出勤してきたらしい。尤も学生バイトが朝からいるというのは酷く稀で、恐らく切原は早くても昼過ぎから出勤しているのだろうと大野は予想する。
従業員の何人か、といっても桜井と辞めた後ではあるが大野の二人はロッカールームへ行くのが面倒だといつもバックヤードで着替えを済ませていた。だがその着替えがそのまま放置してあるのが切原にとっては許せなかったのだろう。せめて端に寄せて下さい、と切原が軽く頭を抱えながら二人に直談判したのはいつの事だったか。切原はその直談判以降、脱ぎ捨ててある衣類を率先して整理するようになった。曰く、踏み付けでもしたら大変だから、だそうだ。
バックヤード内には他に、食品の在庫が積め込んであるストッカーや、書類の積んである棚、何に使うのかよく分からない縫いぐるみやらと、兎に角混沌としている。元よりそこまでの広さがある訳でもないそこは、所狭しと室内に詰め込まれた荷物で既に許容量をオーバーしていた。つまり、狭い。酷く狭い。それぞれが自由に動くには室内に二人が限度だろう、という程度の広さだ。
「…逃げないでよ。大丈夫、切原さんには何にも聞こえないから。」
「そういう問題じゃないでしょう。」
距離を詰められた大野は桜井から逃れるように後ずさっていたのだが、とうとうその背中に壁が当たる。トン、と背後に逃げ場を失ったと同時、大野の顔の両脇に桜井の手が置かれた。まるで逃げ場を封じ込めるかのように。
「ふふ、本当に大野は切原さんの事好きだよねー…。嫉妬しちゃうじゃん。」
「何言って、」
「この間の事、忘れた訳じゃないでしょ?」
「…っ!」
桜井の言うこの間の事とは、大野の最後の出勤日の事だ。帰る桜井に呼ばれ、バックヤードに今と同じく二人きりでいた大野に、桜井の煙草の香りが移った原因。自然な素振りで唇を指先で撫でられ、大野は思わず息を詰めた。恐怖とも嫌悪とも言えない微妙な感情が胸の内に溢れる。
「少し、黙っててね。」
「っな…!」
唇をなぞる指先が離れると同時、桜井の唇が大野のそれに重なった。触れるだけの口付けは一瞬ですぐに離れるのだが、大野が驚きに声を洩らすと同時、再び唇は重ねられた。今度の口付けは深く、潜り込んでくる舌先を拒もうと、大野は必死に身を捩る。だが分の悪い事にけして小柄ではない筈の大野よりも、更に大柄の体躯を持つ桜井の力に敵う訳もなく、好き勝手に口内を蹂躙される感覚に大野はきつく目を瞑った。年下の、それも同性に口付けられるという屈辱と嫌悪感。抵抗しようと身じろぎすればいつの間にか大野を抱き締めていた桜井の腕に阻まれる。呼吸すらままならないほど深い口付けは長く、漸く解放された時には大野の息はすっかり上がっていた。唇が離れると同時、背後の壁に寄りかかったまま膝が崩れ落ちる。
「…っは、」
「息上がっちゃった?」
大野の吐き出した荒い呼吸に合わせ、口付ける前と何も変わらない様子の桜井は、楽しげな表情で大野の瞳を覗き込んだ。それに言葉は返さぬまま、体育座りのような体勢で床に座り込む大野はきつく桜井を睨み付ける。だが微かに潤んだ瞳は、どことなく艶めいた情景を作り出して、それに桜井は喉の奥でくつりと笑った。
「そんな怖い顔しないでよ。別に嫌われたくてやってるんじゃないんだから。」
「よくそんな事言えますね…。」
床に座り込んだまま、はあ、と溜め息を漏らした大野は、ほぼ無意識だろう。手の甲で唇を拭った。それを見た桜井は、酷いだの何だのと呟きながらそっと大野の頬に触れる。唐突な桜井の行動に、大野は驚いたように肩を揺らした。
「俺はただ、大野が好きなだけなの。言ったでしょ?」
「…でも彼女の事も狙ってるんでしょう。」
「ふふ、まあね。だって切原さん、可愛いし。欲しくなるじゃん。」
「…そう、ですか。」
言っている事に一貫性のない桜井に、大野は諦めたように溜息を洩らし肩を落とした。くす、と笑ってみせる桜井は、相変わらず食えない表情をしている。
「俺って欲張りだから、欲しいものは全部手に入れたいんだよ。切原さんは勿論―――お前も、ね。」
「俺を欲しいとか本気で思考回路大丈夫ですか。つーか切原さんはあげませんし。…俺のものでもないですけど。」
「大丈夫に決まってるじゃん。それよりさっきも言ったけどさ、大野って本当に切原さんの事好きだよね。自分のものにしたくないの?」
バックヤードの端に折りたたんで積まれていたパイプ椅子を二つ引っぱり出し、桜井は組み立てたそれに腰を掛ける。もう一方を大野に勧めながら桜井は考え込むように腕を組んだ。浮かべられた疑問符は恐らく桜井にとっては至極当たり前な自身の欲求だったのだろうが、それは万人に適応されるものではない。狭い室内で膝が付きそうな距離の椅子に気後れしながらも腰を下ろすと、大野は少しばかり呆れた表情でそれを指摘した。
「そりゃあ思いますよ。だけど手に入れたいもの全部っていうのは無理でしょう。」
何かを手に入れるには、それ相応の喪失が付き物だと大野は呟く。それは恐らく、大野自身の過去の経験による言葉だろう。手に入れたい、けれど。恋と執着とはある意味紙一重だ。純粋な好意はいつとて、残忍な悪意にすり替わる。否、悪意ある好意に。人間は欲深い。いつとて全てを手に入れたがる。それは人の心も例外ではない。半ば苛立ったようにも見える仕草で大野が髪をかきあげると、桜井はそれに失笑した。
「それってさ、逃げじゃないの?」
「は…?」
「大野は怖がって逃げてるだけでしょ。例えば年齢差とか、切原さんは何でもはっきり言う子だから、感情を切り捨てられるのが怖いだけ。」
「何、言って、」
「違うとは言わせないよ?お前が行動起こしてないのが、その良い例えだもん。」
くつり、と喉の奥で笑う桜井の意地の悪い表情に、大野は目を伏せる。だがすぐに微かな苛立ちを隠そうとはせず、鋭い目付きで桜井を見遣った。
「行動、起こしてない訳じゃないですよ?」
「へえ…そっか、なんだー。ふうん…。」
「何ですかその反応は。」
「面白くなりそうって思っただけ。…ねえ、今度飲み行かない?」
切原さんにも声掛けるから。その一言に大野の動きがぴたりと止まる。その大野の反応に満足げに目を細めると、桜井は言葉を続ける。
「嫌とは言わせないよ?断ったらそうだなあ…俺と切原さん二人っきりで飲みに行っちゃうかも。」
「…良い性格してますよね、本当。」
続けられた言葉を大野が無視できる筈もなく、大野は溜め息を吐くと軽く頭を抱えた。提示されたのは断れる筈のない条件。言わば桜井は切原をジョーカー代わりに使ったのだ、良い性格と揶揄されても文句は言えない。尤もその揶揄でさえ、桜井は称賛の言葉であるかのように笑顔で応えたが。
「じゃあ、決まりね。多分切原さんも断らないだろうし。」
「自信あるんですか?三人だけってとこで切原さんが拒否しないとも限らないでしょう。」
「ふふ、切原さんは断る筈ないよ。だってそういう子だもん。大野も分かってるでしょ。」
苦し紛れの言葉も、桜井の有無を言わさぬ反論にぐうの音も出ない。大人しくなった大野に満足げに声をあげて笑うと、桜井は唐突に大野へと身を乗り出した。
「え…?っちょ!な、あ…!!」
膝が触れ合う距離で腰掛けて椅子から身を乗り出したかと思えば、次の瞬間、桜井は大野の首に唇を寄せていた。引き剥がそうと身じろぐ大野に構いもせず、その首元に吸い付き、紅い鬱血の痕を残す。
「ご馳走様。」
自分が付けた紅い痕から一瞬唇を離し満足げに微笑むと、その痕をぺろりと一舐めし漸く桜井は大野から離れる。桜井から解放されると同時、大野はガタ、と音を立てて椅子から立ち上がり、無意識にだろう、首元を押さえた。
「何するんですか…!」
「んー?キスした。それだけだよ。」
「それだけって!」
「ふふ、俺が今手出してるのが切原さんじゃないだけ良いと思ってよ。」
「…!!」
目を細めシニカルに笑ってみせる桜井の表情と危険極まりない言葉にぞくり、と大野の身の毛がよだつ。桜井なら、切原をバックヤードに連れ込み押し倒す事も厭わないかもしれない、自らの手中に収める為ならば。そしてその言葉は切原を無理矢理に桜井のものにされたくなければ、今この場での全ての行為は他言するな、という脅しだ。少なからず狂気じみた桜井の言動と行動に、恐怖からか呆れからかは大野自身にも分からない。恐らく両方だろう。がくりと椅子に腰を下ろすと、片手で頭を抱えた。
「さっきっから切原さん、めちゃくちゃ人質じゃないすか…。」
「そうかもねー。でも、理に適ってるでしょ?」
俺は二人とも手に入れたいんだから。そう言って笑って見せる桜井に、大野は何も言い返す事が出来なかった。これ以上何事かを反論したとして、そうした分だけ、自身が何かがしかに対しての喪失感を抱くだけの事だ。桜井に対し、恐怖が募っていくだけだ。
「そろそろ戻ろうか。いい加減切原さんが怪しんじゃうかもしれないしね。」
「…そうっすね。」
はあ、と大きめの溜め息を一つ吐き、大野は椅子から立ち上がる。椅子を折り畳み端に寄せる大野を横目に、桜井はクリアファイルを棚から取り出した。それを大野に無造作に手渡しながら先刻閉めた鍵を開ける。
「これは?言ってた書類ですか。」
「そうそう。本当はそれ渡すのに裏に呼んだんだよねー。つーかお前が昨日忘れただけ。」
「…すみません。なら、一番に渡すべきでしょう。」
「それじゃ面白くないじゃん。…首、隠さないで良いの?」
「!」
ファイルの中に挟まっている書類に目を通し、一通り確認しつつ桜井の言葉に大野はがくりと頭を垂れた。だが続けられた言葉に、顔を上げる。そして慌てたように首元の鬱血痕が見えぬよう工夫しているのだが、ふとした瞬間にちらりと見えかねない。見かねたらしい桜井は音もなく手を伸ばし直してやる。瞬間、大野の肩が揺れた。
「鍵開けたからもう手は出さないよ。…ほら、これなら見えない。」
「………どうも。」
真意の見えない行動ばかりの桜井に対する大野の中の不信感は募っていく。苦虫を噛み潰したような表情の大野に、くすり、と小さな笑みを漏らした桜井は、そのまま無言で扉を開けた。
*
「切原さん。」
「店長。」
時間にして一時間弱。注文待ちのお客様の列が出来る事三回。とはいえこれといった問題もなく自分に出来る最速かつ最大限の接客をこなし、どうにか一息吐いたところでバックヤードの扉が開いた。開いた扉からちょこんと顔を出して店長に笑い掛けられ、こちらも笑顔を返しておく。
「ごめんねー、長い事。混んだ?」
「少しは混みましたけど大丈夫ですよ。どうにか何事もなく。」
「ん、そっかー。流石切原さん。」
「いやいやいや。」
流石、なんて言葉私には勿体ない。即座に首を振れば、謙遜しないの、と優しい声と共に店長の手が頭に乗せられる。そのままポンポン、と撫でる手のひらは大きい。何かと店長は私の頭をなでるけれど、それが癖なのか何なのかはよく分からない。
「あ、大野さん。」
店長の後に続くようにバックヤードから出て来た人影を視界に認めて、思わず声を上げる。何処となく暗い表情をして見えた社員に、思わず近付いて顔を覗き込んだ。瞬間、つい、と逸らされる視線が何故か淋しくて、そんな表情が社員には似合わないと感じて、態とからかうような声音で挑発してみる。
「…店長に怒られました?」
「第一声それ?怒られてませんー。」
「何だ。てっきり怒られてるものかと。そんでしょぼくれてるのかと。」
「こら。」
安い挑発は半分成功、半部失敗に終わる。一瞬乗ってくれはしたものの、どうやら私の思惑に気付いたらしい社員の表情は、私の頭を軽く小突く瞬間苦笑いだった。気を遣わせてしまったと思う反面、でもこれで良いのかもしれない。というか、これ以外に私に何が出来ただろう。年齢的には成人し大人に部類されはするが、社員や店長に比べればまだまだお子様の枠を抜け切れていない半人前だ。だからこれで、良いのだ。私を含め、周りの人間が何となくでも笑っていれば、それで。
「ねーねー。切原さんさ、暇な日ってある?」
「暇、ですか?」
「そ。今度こいつと俺と切原さんとで飲みに行かない?」
苦笑いと浮かべる社員と、何処となく気遣わしげな私という少しばかり異質な空気を壊したのは、店長の常より少しばかり高い声だった。この声音は、店長が誰かに何かを強請る時のお決まりのもの。とはいえそれが私に向って発せられた事はこれまで本当に数えるほどで、そして今、その言葉の内容に思わず瞬きを繰り返してしまった。言葉の内容を必死に理解しようと、ぱしぱしとマスカラに覆われた睫毛が音を立てて上下するのに合わせて、店長が薄く笑んでいく。
「ほら、こいつの送別会やってないでしょ?可哀想じゃん。」
「だからって何故に三人だけなんです?」
どうせならもっと人を集めるべきじゃないだろうか。確かに私はバイトの中で一番社員と仲が良かったのではないかと思う。とはいえ勤務歴の長い社員は何だかんだと周りから慕われていた。いじられたりからかわれたりは、此処に勤めるバイト含む従業員達の裏返しな愛情表現だ。態々三人だけにせずとも、もっと声をかければある程度のメンバーは揃うだろう。特に気心の知れた、社員の退社を寂しがる人間は一堂に集う筈だ。そんな私の疑問符を真意の読めない笑顔で店長は黙殺する。そういえばこの人は、笑顔で人の言葉を無碍にするのが得意だった。人当たりは良く、温和な人柄ではあるけれど、何処と無く後一歩掴み所のない難しい人だと私は勝手に思っている。
「だってさ、人が増えれば予定合わせたり店予約したり面倒じゃない。」
「あー…まあ、確かに。」
「だから。一番気楽なメンバーだけで飲むのも偶には良いでしょ?」
「…そう、ですね。良いですよ。」
ね?と念を押すように口許を弧に歪める店長の表情に、何故か脳内で警報が鳴った。それは恐らく、昨日、社員の常と違う瞳の色を見た時と同じ類いのもの。けれど何故それを店長に感じる必要があるのだろう。だって言い方は悪いが、店長の笑みが少しばかり胡散臭いのなんて今に始まった事じゃない。突拍子のない事を言い出すのも、いつもの事だ。ならば、何故?背筋を滑り落ちる冷たいものに一瞬気後れしながらも、どうにか肯定の返事をして、直後それで良いのかと自問自答してしまう。良いも何も、飲みに行くだけの事だ、それ以外に何がある。懸念事項なんて、何もない筈だ。
「何、切原さん暇なの?」
「暇っていうか…暫くはバイト以外予定ないんですよ。」
「へー…。」
「じゃあ、いつでも平気?」
「平気です。」
「ん、それなら俺メール回すわ。大野は?それで良い?」
「良いっすよ。」
本当にそれで良いのかと、質問内容自体は直接的ではないにしろ、問う社員の目はそう言っていた。何故そんな風に、少しばかり心配そうな、不安めいた目をするのだろう。私の返答に納得のいったのかいっていないのかよく分からない社員の反応が気にかかった。けれどそれに被せられた店長の問いに私が答えれば、それまで何かが煮え切らない様子だった社員は、ふっ切ったような表情に変わる。その社員の変化に店長が薄っすらと満足げに微笑むのが見えて、余計に混乱した。―――いつも通り過ぎて不自然な店長が何故か恐ろしく感じられ、常と様子の違いすぎる社員は、不自然だけれど恐怖感はない。この、不可思議さは一体何なのだろう。何処からこの正体不明の感覚ばかり、浮かんでくるのだろう。