白砂のたいやき
駅を降りてから自宅への道のりはいつも自転車だった。この十五分ほどの距離は仕事終わりの体には結構堪えるものがあるけど、その途中ぼくを元気づけるいい匂いがあるから、ぼくはいつかその店のたいやきを買って帰ろうと目論んでいた。
たいやき屋は有名なチェーン店で、パリパリの皮と奇抜な中身が売りだった。それでもオーソドックスなあんこだけのたいやきの評判が一番高く、たいやきに目がないぼくとしてはその評判のほどを自分の舌で確かめたくって堪らなかったけど、あいにくその店は夜の七時までが開店時間だったので、ぼくがその店を通る頃にはすでに店は閉まっていて、そうかといって休みの日にわざわざそこまでやってくる気力は今のところなかった。
いつものようにたいやき屋の前を通り過ぎようとしたら、不思議なことにいつもなら明かりがとっくに消えているはずの店内から眩しいくらいの照明が輝いていた。
ぼくは店先で自転車を止め、入り口から開店の札がそのままにしてあるのを確かめ、もしかして今日は閉店時間を延ばして営業しているのかな、とそこから自転車を降りて窓ガラス越しに店内を覗いてみた。厨房からわずかに覗ける明かりが人らしき影をちらちらと映し出しているのを確認すると、少しだけ期待する気持ちが膨らんできた。
閉店作業に手間取って札を下げるのを忘れているだけか、と考えながら入り口の扉に手を掛けた。店内から大きな物音が聞え、一旦は手を離したけど、詮索好きの虫が騒ぎ出し、再び引き戸に手を掛け、好奇心に従いぼくは誘われるよう店内に足を踏み入れた。
厨房の方で人の物音がまた聞こえてきた。こちらの気配に気づいていないのか、また物を引きずるような音をさせている。ぼくが音のする方に声を掛けなかったのは、夜分遅くということでいらない気を遣ったというのもあったけど、通常なら閉店時間なのに入り口に鍵が掛っていないのがどうにも引っかかったこともあり、泥棒という可能性も考えたからだった。
そっとカウンターを素通りして厨房の方に向かうと、若い女がイスの上にスニーカーのままつま先立ちでいて、天井から垂れているロープの輪っかに首を掛けようとしているところだった。突然後ろから声を出し、彼女が驚いた拍子に足を踏み外し、その勢いで首を吊る、というコントみたいな想像が頭に浮かんできた。突然の状況にも拘わらず、そんな想像が出来る自分に冷徹な奴め、と蔑みの言葉を投げつけ、じっと、彼女の方からこちらに気づいてくれるのを待っていた。
ようやく店内のわずかな異変に気づいたらしく、少し振り返った彼女が、あっと声を上げそのままの姿勢で固まり、状況が理解できないようで、ぼくが軽く会釈してみせると、
「……だれ?」
「なんて言えばいいのか」
「お客……いらっしゃ……え?」
ぼくはたいやき屋の店員と厨房で突っ立ったまま何も言わず見つめ合っていた。
「……首……吊るの?」
「――はい?」
イスから降りるとそのまま腰掛け彼女は黙り込んだ。すすり泣くのが、緊張が解けたことを物語っていた。
まだ泣き止まない彼女に酷ではあったけど、理由を訊ねてみた。喉を詰まらせながら彼女が両親との関係がうまくいかないことに希望を持てなくなったからだと答える。
「だからって死ぬことはないだろう」
「すぐそう言う――」
聞けば家族の仲は悪くないらしい。一つ上に兄がいて、世間から見ると普通の家族といったところだ。
しかし彼女の内面はそうではなかったらしく、四人家族の中孤独感は幼少から心を蝕み、自分だけが両親の愛情を受けていないような感覚は自己否定に走らせ、今までに何度も自殺未遂を繰り返している結果となった。
彼女の首には絞め痕があった。ロープが体重を支えきれず未遂に終わった高二の頃の話を涙混じりに聞かされた。
ぼくには彼女がどれほど苦しい日々を過ごした結果、死ぬことを選んだのか理解できない。でも目の前で死なれては後処理に困るし、なにより彼女はすごく可愛かったから、なんか勿体ないな、という思いから彼女の自殺を踏み止まらせようと適当な言葉を並べ綴った。
「なんでいきなり知らない奴に説教されなきゃならないのよ……」
「ここで死ねばお店の人に迷惑がかかることを考えろって、なぁ?」
「迷惑掛けるつもりなんだからいいじゃないのよ」
彼女はこのたいやき屋で働くうち、店長に気に入られ、最近交際を迫られたのを断った為に、つまらない嫌がらせを受け悩んでいることを、まるでぼくを責めるように訴えてきた。
「それに、今日は止めても、明日になったらまた死にたくなる、絶対……」
きっと、いつもこんな調子で死にたいと思いながら死ねずに来たのだろう。今日までの間自殺の計画を散々やってきたことだろうし、今更ぼくの表面だけの言葉じゃ、彼女を止めることは出来そうになかった。
それにしても十代で死ぬには人生諦めすぎだろ、そんなに夢も希望も無い日々だったのか、と自分のこれまでを振り返る。似たようなもんじゃないか。ぼくも学生時代にはいい思い出はなかった。死ぬことを考えていたこともある。けど、彼女の首にある痕みたいな生々しいものではなかった。多分将来への希望がゼロではなかったからだと思う。夢、だろうか。
子供の頃に記憶をはせると苦い過去の中にわずかばかりの希望をつなぐ夢を思い出した。小学校の卒業文集に将来の夢、たいやき屋と書いた、馬鹿みたいに純粋だったぼく――。
「なあ?」
「もう説教聞きたくない……」
「じゃあたいやき焼こうぜ」
「――え?」
「俺さ、一回たいやき焼いてみたかったんだ。せっかく誰も人いないから、ここで試してもいいだろ?」
彼女は呆然としている。いきなり、全く脈絡のないことをして相手の気を逸らす作戦、という訳でもなかったが、こういう連中にはそれなりに効果的なものではあった。
彼女の目元が優しくなった。一重の切れ長。大人びた目つきだったのが、本来のかわいらしさを取り戻したような幼い笑顔。
「あんこにさ、生クリームを混ぜて、ホイップあんぱん風で食べてみたかったんだ」
「うわ、吐きそう」
「いや、実際にそういう菓子パンあるし」
彼女が厨房に案内してくれたけど、機材の使い方がまるで分からない。たいやき器の鉄板は一列で五尾焼けるのが、四つならんでいた。彼女がボールに入れたたいやきミックスに卵と水を加え、泡立て器で混ぜ始めた。ぼくは元栓をひねり、バーナーに火を点けた。天板に油を引き、適当なところで彼女が生地を流し込む。冷蔵庫から餡の残りとカスタードを彼女が取り出し、生地の上に落とした。
「焼いたことあるの?」
ううん、と彼女は残りの生地に餡を乗せながら答えた。ぼくが、こういう専門店のたいやきって生地から手作りだと思っていた、と素直な感想を述べると、チェーン店だからじゃないの、とたいやきミックスの存在に別に驚く様子も見せなかった。子供の頃祭りの出店で見たたいやき屋はやくざ崩れのおっさんが、ポリバケツの中から生地を柄杓で掬って天板に流し込んでいるのを見たとき、生地が汚物に変わって見え、二度と屋台のたいやきは買えなくなった思い出が浮かんできた。
そんなぼくに構わず、彼女が両天板を固く合わせ、
「多分、これでいいよ。でも、こんなこと犯罪でしかないんだけど、あなたは大丈夫?」
わたしは別にクビになっても構わないからいいけど……。ぼくは、正直警察沙汰は面倒だった。でも、どうでもいいや、という投げやりな気持ちもあった。何より目の前で香ばしく焼けていくたいやきの誘惑にはかなわなかった。加えてこのかわいらしい自殺志願者とぼくの想像していたオリジナルたいやきを創作している、という状況がことのほか楽しくて仕方がなかった。ぼくもずいぶんやけになっているのが分かる。こんなテンションで盛り上がるなんて本当に久しぶりだったから、元々自分の笑い顔が汚くて嫌いだったので人前で意識的に笑うのを止めていたぼくが、しわくちゃに顔を歪めて笑っているのも、それほど自己嫌悪に陥ることはなかった。
ブサイクに焼き上がったたいやきを袋に詰め込み、二人で機材の掃除をした後、彼女が私服に着替えるのを待って、焼き上がったたいやきを彼女に持たせ、彼女の提案で、ぼくらは近くの海岸まで行くことにした。
ぼくの自転車の後ろに彼女を乗せ、時々自転車を止めると、背中越しに彼女の髪のいい香りと、出来立てのたいやきのいい匂いが交互に流れてくる。我慢できず、彼女に一尾を半分にちぎって貰い、餡だけのやつを食べながらまた自転車をこぎ出した。
「自転車に二ケツしたのっていつ以来だろうか?」
「そんなに歳なの? 親父臭い」
彼女がぼくの背中越しに笑顔を見せているのが、体の微妙な揺れで分かった。とりあえずは大丈夫だろう。少なくとも今夜はもう自殺する気は起こさないはずだ。
海岸に着いて、少し冷めたたいやきを並んで座り食べた。取り出したたいやきは、腹の部分の生地から餡が飛び出ていたり、端っこが付いたままだったり、とても人前に出せないような失敗作ばかりだった。カスタードにメロンを加えたやつを彼女が不味そうな顔をし、食べては吐き出ししている間、ぼくからいろんなことを話してあげた。彼女からも話をし易いようにという考えからだった。
「将来の夢がたいやき屋とか変わってる」
「本気だったんだよ。あの頃は」
今のぼくは、誰にでも出来る作業をこなすただのサラリーマン。空想の中ではそこそこの自営業者で、とんとんの儲けで好きなお店をやっている。だからメニューを考えている時だけは子供の頃に戻れる。だから大人になってもそのことを覚えていたらしい。ぼくのたいやき好きの根っこはそこにあったのかと、今更ながらに、過去を忘れたがっている自分を認めざるを得なかった。
「でも、実際たいやき屋って大したことないよ。夢壊すようで悪いけど」
「知ってるよ。夢の話だから、自分の都合のいいように商売もうまくいくし、いい具合に現実逃避できるんだよ」
「死にたくならない?」
「たいやき屋になれなかったくらいで?」
笑顔で彼女を見返すと、じっとこちらを窺うような眼差しがあった。どうやら同類であることを嗅ぎつけられたらしい。ぼくらのような人間は同類を嗅ぎ分ける嗅覚だけは常人を上回るものを持っているから困る。彼女の質問が頭から離れず、一日中たいやきを焼き続ける自分を想像してみた。黙々と同じ仕事をこなす今の状況と何も変わらないようで、本当に彼女に夢を壊された気分になってきた。現在の環境から逃れたら、いい環境がやってくる。そんな都合のいい現実などあるはずがないことくらい分かっていたはずなのに、とまだ変われてはいない自分を自覚した。
潮風はまだ肌寒く、彼女にぼくのスーツの上着を貸してあげた。踵の長いサンダルで砂を蹴る彼女を、あんことカスタードを混ぜたたいやきを食べながらしばらく見ていた。
時々通る車の音がぼくらの会話をかき消していくと、彼女が顔を近づけ、今なんて言った、という表情をしてくる。なんだかずっと前の恋人とこうやって夜中に海岸で語り明かしたことがあったような気がする。彼女とは最悪の罵り合いで別れたっけ。彼女だけではなかった。ほとんどが罵声の中での別れだったような気がする。過ぎ去った出来事を自分の記憶として感じられないことはぼくらみたいな人間にはよくある症状だった。今では本当に彼女達と付き合っていたのかさえ疑わしくなってきている。
ぼくが今まで付き合ってきた恋人にべったり依存して相手を精神的に殺してきた過去を彼女に打ち明けても、彼女の助けにはならないだろう。それにこんな話は誰にもしたくなかった。
「今、何食ってる? 俺、チョコと黒蜜のやつ」
「……頭から脳が垂れてるやつ」
「グロいよ」
俺のは尻からうんこが漏れてるたいやき。言葉にしようかと悩んでいたら、タイミングを逃してしまった。お互いに場当たり的な戯言で会話の間を埋めようと必死に雑談を絶やさないでいた。彼女も沈黙が怖いタイプなのかな、と普段の何倍もぼくは喋り続けた。彼女の会話の勢いが弱まるとぼくも自然と口数が減っていった。
さっきから海岸にある駐車場からエンジン音が聞こえていた。ずっと掛けっぱなしのようだった。一台だけエンジンをかけ続けている車の中には恋人がいて――。
彼女がぼくの視線を追って駐車場の方を見ている。目が合うと二人でにやけ顔をした。こんな感覚久しぶりだった。学生時代なら徹夜して遊び耽っていたことだろう。でも社会人になってからは次の日を考えて早めに寝ることを第一に考えてしまうようになり、休日は気づけばもう夕方なんてこともよくあった。
「もう冷めてきたね、たいやき」
「君の店のたいやきは冷めてもおいしいんだろ?」
そうだった。わたしきょうもシフトに入ってるんだった。手に握られた、ぼくオリジナルのたいやきを彼女が一口かじってそう呟いた。
よかった。今日のことを考えている。みんなきっとそうやって少しずつ前へ前へと時間を消費していくんだ。変な解釈だけど、生きる目標のはっきりとしないぼくには人生は消費されるものという解釈でしか理解できなかった。彼女はいつまで生きるつもりなのか、と思わず口に出しそうになり、最低の組み合わせになった、マンゴーと餡のたいやきを一度に含んだ。
彼女は多分、ぼくみたいなのに捕まって説得されその都度一時的に死ぬことを止めるのだろう。それでも長らえる人生があるのなら、目の前の人生が大きく進展するような奇跡を期待したっておかしくはない。ぼくが自分を変えたいと意識しながら行動していくといずれ良い方向に変われるはずだと、ぼく自身の経験談を踏まえ、彼女にも変われる可能性のあること教えてあげた。
「で、いつになったらまともになれるの? 一年、二年がんばればいいの? それよりも、あなたはもうなれたの? 健常者に」
彼女が頭半分無くなったたいやきを砂の上に投げつけた。斜めに突き刺さったたいやきを睨み付けるように見下ろし、彼女の視線に耐えかねたそれが、まるで砂の中に潜ろうとしているような、逃避の場面がぼくの脳内に展開された。
「がんばって積み重ねてきたことが、ある一つの出来事で、一瞬で壊れるのに、どうしてがんばり続けることができるのよ。がんばってきた分を接着剤か何かで固めておけたらいいのに」
彼女が流木の端を折って、たいやきの周りの砂に波を描き始めた。人に愛されることと、愛することが接着剤代わりだとしたら、どうしてもぼくらは恋愛を続けていくしか道は無かった。最愛の相手を見つけるのか、作り出すのか、その方法に答えがあれば一番楽なのに。
「ねえ、なんで……、やっぱりいいや――」
「最初に驚かなかったことか?」
うん、と彼女は頷いた。
「自分以外の人間が死のうとしてる場面に立ち会うのは初めてじゃなかったから」
彼女は不思議そうにこちらを見た。そうなの? といった具合のかわいらしい表情だ。
「君で三人目」と彼女へイタズラな視線を送ると、照れくさそうに彼女がはにかみながら、袋からふやけたたいやきを一尾取り出し尻尾をかじってみせた。
「彼女、いるんだ?」
ぼくが頷いてみせると、それってわたしみたいな彼女なんだね。疲れる? わたしみたいな女って。
「今の彼女は違う。ちゃんとした両親に育てられた、健康な心の、優しい彼女だよ」
「じゃあ、迷惑掛けてるのはあなたの方なんだね。大変だ、彼女さん」
確かに現在はぼくが相手を困らせる立場にあった。どんなに優しく接してくれても、ふいに襲う自暴自棄への誘惑が現在の彼女を困らせていることは分かっている。それでも損なしの愛情への渇望はぼくを一時的にしか満たしてはくれない。隣にいる彼女と同じで虚無感という得体の知れないものの正体が今ひとつはっきりとしない。だからこそ対策がとれない状況がこのまま続けば、いつものように現在の恋人ともいずれ別れる時がくる。せっかく出会えた最愛と呼べる可能性のある女性を、ぼくは自らの手で傷つけ続けている。
ぼくはまるで寄生相手を骨まで食い尽くす化け物か何かだ。この破滅型の思考は生まれつきのものではないと証明したくて現在の彼女にぼくは賭けた。彼女に縋るのではなく、自分から彼女を愛することが出来れば、過去の自分から抜け出せるはずだと信じていた。
でも、いつになればぼくはまともになれるのだろうか。彼女の言葉を借りるなら、一体いつまでがんばり続けたら正常な精神になれるのだろうか。終着点のないままがんばり続けるのには限界があった。最近また人生に意義を見いだせなくなってきている現状を思うと不安で堪らない。
ぼくに散々振り回され疲れ切ってぼくのもとを去っていった彼女達が、今度は苦い記憶となってぼくの内面に喰らいついてくる。乾燥した海風が衣服を突き抜け肌を刺す。かわいいくしゃみを一つした後彼女が鼻をすすり、
「そろそろ帰らないと、親が心配してるかもしれない」
ついさっきまで両親に愛されていないと訴えていた彼女の口からその言葉が漏れたのは別に驚くことではなかった。愛情を欲してやまない人々は時々こういったことを口にすることがあるからだ。心の奥底で、でも、もしかしたらきちんと両親は自分を愛しているに違いない、と信じ込みたい強烈な願望が時々錯覚を起こさせるのだ。彼女がそうなのかは分からない。彼女の言葉が全て真実かどうかなんて検証のしようがなかった。
ふふ、と彼女が笑った。これ絶対付き合うきっかけだよね、ドラマとかだったら。
「ああ、そういうパターンあるね。それでさ、結局別れんのな。関係がうまくいかなくて」
お互いに寂しい表情をつくる。そう、これは単に依存相手を探しているだけなのだ。彼女はきっとたくさんの男と付き合い依存しまくった果てに別れ、次の相手をまた探すといった恋愛遍歴をもっていると思った。
「彼氏いるんだろ?」
うん、とまた頷いた。その男はきっと彼女に優しくはないのだろう。でも彼女はそういう男を自ら選び、どんな目にあっても離れようとはしない。
そういう光景がすぐに浮かんできそうだった。ぼくも似たような経験があるから、泥沼の関係にしかならない結果も知っていた。共依存の関係が出来上がったとき、ものすごく固く歪な相互補完が始まると、強く抱きしめあったまま二人はお互いの体と精神を喰らい始める。そうなると他者の力では二人を引き離すことは至難の業で、ぼろぼろになったお互いを労りもせず、それでもまだ喰らいついた歯を動かすのを止めようとしない、そんな不毛な関係――。
それに飽きると、いままであんなに全身全霊をかけ執着していた相手を、驚くほどあっさりと見限り、恐ろしくしたたかに他に乗り換えるのだ。それはもう病気というしかないくらい異常な人間性だと思う。ぼくと彼女が付き合えば、そういう関係が出来上がるのは目に見えていた。
「なあ、俺が誘ったらホテルまで行ってただろ?」
はは、それはないよ。あなたとは、絶対に。ぼくは自分の頬が紅潮していくのを鏡越しに見ているようだった。自意識過剰という言葉が浮かんできた。
「あなたタイプじゃないし……」
駐車場のうるさい車からエンジン音が止まると、男が二人降りてきた。自動販売機に向かっている。
「あ、あれ男同士かよ」
「恋人同士中でなんかしてるって思ってた」
振り返ると、彼女が赤らめた顔をうつむき隠そうとしていた。すけべ。俺もそうだと思ってた。
「男二人で何してたんだろう?」
無言のまま、駐車場の入り口にある自動販売機に並んで歩く男二人に視線を送っている。向こうはそんなこと気づいてもいないだろう。彼らの背後には白々と夜明けの途中の景色が広がっていた。昇る朝日が大きくなるにつれ、現実を突きつけられる心地がしてくる。
また一日生き延びた、という感想が頭の中で反照している。意識が明るくなり、衣服の砂を払うと、彼女も同じようにして立ち上がり眠たそうな目で相槌を打つ。
「じゃあ、帰ろうか。途中まで送るよ」
彼女がお店までお願い、と言いぼくに上着を返してくれた。彼女のぬくもりがぼくの背中を包み込む。優しい暖かさに楽しかった頃の恋愛の記憶が蘇ってくるようだった。
彼女はまたどこかで死にたいと口にするだろう。それでも死にたいといいながらも生き続けていた方がそれなりに“まし”にはなっていくのだ。自分には分かりづらい微妙な変化が、自分自身に分かるまでは、ぼくらは“変わっていない”と言い続けるのだろうし、こうして与太話に明け暮れた一夜だって、変化の糧にはなっている。だけど、そのことに気づけるのはやっぱり健康な人間だけだという寂しい結論に至った。
病気を抱えた本人が自分の悪いところを直視し、自身で治療を施す。そしてその過程も自分で見守っていかなければいけない。だれかが麻酔を打ち、眠っている間に治してくれるということは、この場合あり得ないことをぼくらは自覚しなければいけない。他人の愛がほしいと願うぼくらには辛い現実ではある。 それでも、自分を治したいと本気で考えるのなら、そうするより方法はないように思われる。彼女が健常者に近づく為には自分から誰かを愛するより道はない。でも彼女は誰かに愛されたいと願い、人の良さそうなふりした、決して彼女を幸せにはしてくれない男の方に惹かれていく、というこれまでと変わらない選択肢に好転を期待するのだろう。互いに健康な状態に戻りたいのなら、ぼくら同類は関わらない方が最善なのだ。一時の魅力的な関係も、悲惨な結末でしか終わりを向かえられないのだから。
健常者はよく言う。「そんなことはない。弱い者同士支え合って生きていけるはずだ」と。それはあくまで健常者の範疇にある者同士に限ってだとぼくは反論してやりたい。重病人同士が支え合うことなど不可能に近い。わざわざ一番困難な道を選ぶことなんかない。手っ取り早く健康で自分を幸せにしてくれる相手を選べばいいのだ。誰も咎めはしない。それでも頑なに自分を傷つける相手を選ぶのが、ぼくらの異常性の根の深さを表しているということでもある。
ぼくの隣を歩く彼女はとても魅力的だ。でも付き合ってはいけない相手というのがある。ぼくの場合それが彼女のような女だった。それだけの話。
夜明けが終わろうとしていた。他人同士の、一度きりのおかしな関わりも終わろうとしている。もう彼女のたいやき屋に行くことはないだろう。駅までのルートを変えようと考えていた。それが正しい選択だと信じて疑わなかった。ぼくのような人間の、漠然として、生き甲斐のない毎日に、たまに訪れる少しだけ非現実的な出来事。そんなわずかばかりの刺激が現実を感じさせてくれることを期待しつつ、ぼくはまた日常生活に戻る自分を強く意識せずにはいられなかった。彼女が言った。
「結局名前聞きそびれたままだったね」
そのまま彼女は自転車に乗らず自動販売機の方へ歩き始めた。