第2話 ニジ横界隈編 少女と、帰る場所のない家
明くる朝。
その部屋に、誰かのぬくもりはなかった。
台所の照明だけが点いたままの薄暗い空間で、電子レンジが静かに「チン」と鳴る。
食卓に置かれたのは、ぬるいコンビニ弁当と、昨夜の残りご飯。
薬の袋がぶら下がったラックには、
「朝・夜」「空腹時NG」「発作時すぐ」──と書かれたメモが、カラフルなマーカーで丁寧に貼られている。
その文字は、どこか事務的で、他人行儀だった。
「……ちゃんと飲んでるの?」
ソファに腰掛けた母が、化粧前の顔でミラーを覗き込みながら言う。
ロングブーツに足を通す音が、部屋に響く。
「……うん」
志乃乃は、白いピルケースを指先でカラリと鳴らしながら、短く答えた。
「じゃあ、行ってくる。無理しないでよ」
「……気をつけて」
母の“無理しないで”は、いつからか「余計な手間をかけるな」という意味になっていた。
毎晩、母は夜の街に出かけていく。
キャバクラかラウンジか、それとも日によって変わる何かの店。
志乃乃は、それを詳しく知ろうとは思わなかった。
訊いても、何も変わらないからだ。
むしろ、変えられない現実が突きつけられるだけで、
きっと、もっと苦しくなるだけだから。
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学校へは、月に一度行けたらいい方だった。
出席日数をレポートで補いながら、
「普通の高校生」の形だけを、必死で保っている。
クラスのグループLINEには、毎朝「おはよ〜」のスタンプが届く。
それに「おはよ」「かわいい〜」「了解〜」と続く返事。
志乃乃は、それをただ見ているだけだった。
通知はとっくに切ってある。
でも、たまに無意識に開いてしまう。
(あ、今日も──)
「自分がいない会話が当たり前に流れてる」
その光景を確認するために。
──それが、自分の“居場所がないこと”の証明になっていた。
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病院には慣れていた。
入退院を繰り返す日々。
機械音、点滴、白い廊下の匂い。
それらはもう、生活の一部だった。
母が付き添いに来ることは、なくなっていた。
生活が苦しいから。
昼間は眠り、夜に働く母の姿は、ここ数年で完全に変わってしまった。
志乃乃の医療費だけは、きちんと用意される。
それ以外の会話は、ほとんどない。
(……お父さんがいた頃は)
…と。思いかけた記憶に、すぐ蓋をする。
優しかった記憶は、いまの孤独をより鮮明にするだけだから。
だから、忘れることにした。
思い出さないことで、寂しさをごまかした。
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“助けて”なんて、もう言えない。
言っても、誰も助けてくれなかった経験があるから。
それなら、言わない方がマシだった。
そして今日も、志乃乃はまた思ってしまう。
──“消えたい”と。
誰にも怒られずに、責められずに、
「かわいそう」と同情されることもなく、
ただ、静かにこの世界から消えることができたら、きっと楽になれる。
そう思った瞬間、また罪悪感が胸に沈んでいく。
(本当は、生きたかったんだよ)
心の底では、誰よりも強く、それを願っていたくせに。
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その夜、彼女はまたニジ横へ向かう。
誰にも気づかれず、誰にも求められず、
それでも、“今日”を生きた証を残すために。
そこに、昨日出会ったあの少女がまたいるかもしれないと、
ほんの少しだけ、期待しながら。
――それだけで、今日をもう少しだけ延ばせる気がした。




