遺品
塔の資料室は、膨大な書物が壁面いっぱいに並んでいる。
今まで入ったことがなかったわけではないが、自由に閲覧できる立場ではなかった。
これからは好きな時にここにきて利用することができると言われて、思わず胸が高鳴る。
「ベス、読みたいところ悪いが、イシュタル殿が呼んでいる」
「兄上が?」
本に手を伸ばしかけたところを、師匠に声をかけられた。
討伐隊のメンバーとの顔合わせと魔術師登録の事務手続きがようやくに終わった時間を見計らって私を呼んでいるらしい。
討伐隊が出兵するまで家に帰らなくていいなら、ここで本を読んでいたいところではあるのだけれど。
兄も忙しいのだ。待たせては悪い。
「こちらだ」
師匠に案内されていくと、そこは研究棟のようだった。
「イシュタル殿は、自分用の研究室を持っているから」
「そうなのですか?」
「上限値越え、限りなく藍に近い青マントの魔術師だからな。当然だろう? 討伐が終わるまでには、ベスの研究室の用意も済んでいるはずだ」
詳細検査を受けて登録となった魔術師は自動的に研究室がもらえることになっているらしい。もちろん、上限値を越えていなくても、研究室を持っている魔術師はいるけれどそれなりに条件があるとのことだ。
「イシュタル殿は殿下の近衛でもあるから、滅多にこちらにくることはないのだが、とにかく優秀な魔術師で、公にできないのが残念だ」
「……そうなのですね」
兄が塔に登録された魔術師であるとは、今日まで知らなかった。
「私にくらいは話してくれても良かったのに……」
「それはダメだろう。ベスは顔に出やすいから」
師匠が苦笑する。
「私、顔に出ますか?」
思わず首を傾げてしまう。
私の表情筋は死滅しているかのように動かないと思っているし、そう噂されてもいる。
「ベスは誰よりも心を揺らさない訓練をしていて、冷静さを失うことはめったにない。ただ、感情が動けば必ず表情に出る。作り笑いは苦手なようだが、決して無表情なわけではない」
「そう……なのですか?」
にわかには信じがたい。というか、作り笑いができないことがコンプレックスだった。釣り目がちな目はどうやっても微笑んでいるようには見えなくて、それがすごく嫌だった。
「ああ。氷の公女だなんて、ベスのことをどうにか悪く印象付けたい奴らが流した噂だ。実際、ベスの周囲にいる人間はベスのことを冷たいとか無表情だなんて言わないだろう?」
「それは……私に気を使ってのことでは?」
そもそも私は公爵令嬢だ。面と向かってそんなことを言える勇気のある人間はそうはいないだろう。
「もしベスの態度に問題があるとしたら、あの厳しい公爵夫人が何も言わない訳はないだろう?」
「え?」
言われてみれば母から無表情だと怒られたことはない。むしろ感情を顔に出すなと、昔から怒られ続けてきた。
「感情を顔に出すなと言われ続ければ、緊張のあまりに、表情が硬くなるのは当然だ。要はベスが真面目すぎるってことだ」
ギスカール師匠はにやりと口の端をあげてみせる。
「なんにせよ、討伐隊ではイシュタル殿は聖女の守護を担う役目となるだろう。まあ、ラクセーヌ家の人間が聖女を守ることについては、異論のあるものも多いかもしれぬが」
「そうですね」
兄ならば、剣も魔術も両方使えるのだから、適材適所ではあるけれど、私とエラヌ嬢の関係から、複雑な感情を抱くものがいてもおかしくはない。
「世間が思うほど、私もおそらくエラヌ嬢も、お互いを敵視しているわけではないと思うのですけれど」
「まあ、二人とも見ているところが違いすぎるからな……ああ、ここだ」
師匠が部屋の扉をノックする。
「どうぞ」
兄の声がした。
「じゃあ、私はここで」
「ありがとうございます」
立ち去ろうとする師匠に私は頭を下げていると、扉が開き、兄が顔を出した。
「やあ、エリザベス。ギスカールさまもお時間がございましたら、お入りになりませんか?」
ちらりと部屋をのぞけば、部屋には人の気配がある。
「兄上、お客さまがいらっしゃるのですか?」
「ああ。スルバス侯爵がエリザベスに見せたいものがあると。祖父の遺品なので、ギスカールさまにもご覧いただいたほうがよろしいかと」
「ダン・スルバス侯爵の遺品?」
師匠は目を瞬かせた。
「私も見せていただいてかまわないのか?」
「はい。叔父上は是非にと」
兄に促され、師匠も一緒に部屋に入る。
部屋には一通りの実験道具と、書棚に机、そしてソファとテーブルがある。かなり広い部屋だ。研究者によっては、ベッドまで置いてここで寝泊まりするらしいが、ここはそこまでの生活臭はしない。
「やあ、ベス。それから、クリッシュ公爵も。忙しい中、押しかけてすまなかったね」
ソファに座っていたミック・スルバス侯爵が立ち上がって私たちを出迎えた。淡い銀の髪は柔らかいくせっ毛だ。最近は白髪が混じってきたそうだが、銀髪はあまり目立たなくていいと嘯いている。人好きのするやや丸みをおびた優しい顔立ちで、目は少したれ目だ。話によれば、顔立ちは祖母似だそうだ。
「叔父上、お久しぶりです」
「大臣、私までご一緒してよかったのか?」
「ええ。主席宮廷魔術師である公爵もご興味のある話になるでしょうから」
叔父はにこりと微笑む。
「立ち話もなんですから、座りましょう」
兄に促され、私たちはソファに腰を下ろした。
ちなみにこの場の最高位は公爵でもあるギスカール師匠だが、叔父は大臣の中でも格の高いとされている外務大臣である。年齢もかなり上だ。だから一概に誰が上座に座るかとなると微妙なのだが。
ソファには、私と兄が並んで座り、対面に師匠と叔父が座った。
「皆さんお忙しいでしょうから、前置きはなしで、これを」
叔父は数冊にわたる帳面の束を取り出した。しかも何か所もしおりが挟んである。
「これは?」
「父の日記です」
「ダン・スルバス侯爵の?!」
師匠が驚きの声を上げる。
「はい」
叔父は頷く。
「父は筆まめではあったのですが、とにかく親ばかでして」
研究日誌や、討伐記録の表紙に母や叔父の描いた魔法陣などを綴じ込んだりしていたそうだ。
「父が亡くなった時、研究日誌や討伐記録は塔に提供をしたのですが、それを読んだお弟子の方が姉の幼少期に描いた魔法陣をからかうようなことがございまして……」
「それは、なんだかデリカシーがなくて申し訳ない話ですな」
師匠が頭を下げる。
「いえ。今思えば悪意のない、どちらかといえば誉め言葉でした。悪いのは公的に残す文書にそのようなものをはさむ父がいけないのです」
叔父は苦笑いした。
「父は有名人でしたから、亡くなった当時は母への恋文を含めて父が記したものを根こそぎ持っていこうとする信望者も多くて姉も私も当時はかなり辟易としておりました。そのせいでかなり過敏になっていたと思います。とにかく、そんなこともあって、姉はすっかり魔術師嫌いになってしまいました」
確かに故人のプライバシーへの配慮もなく、分け入ってこられれば、不信感は大きくなっても仕方がないのかもしれない。
「こちらにお持ちいたしましたのは、父が参加した五十年前の土の迷宮遺跡、三十二年前の風の迷宮遺跡での討伐時の日記と、火の迷宮遺跡に入った時の探索時の日記です。私的な日記なので、すでに塔に提供した公的なものと重複している箇所がございますが、使用した魔術などや、公的記録には記さない『思いつき』などが書いてあります」
「なんと!」
師匠の顔がいつになく紅潮している。
「ただ、あくまで私的なものです。父は亡くなっておりますが、そこに書かれている姉も私も……今は教え長になられたヴァルド伯爵もまだ生きている。私はこれを公表したいわけではありません」
討伐にあたって知らせておくべき内容ではあると判断はしたものの、公にはしたくないと、叔父は言う。
「それなら、なぜ、私にも?」
師匠は首を傾げる。
「魔術師の指揮をとられるのは公爵でいらっしゃるからですよ。そのほうが姪と甥が生き残る確率が高くなると判断しました。時間があれば、ベスとイシュタルが読んで、必要だと思った知識を公爵に告げれば済むことなのですが、さすがにそれでは討伐に間に合いませんから」
必要と思った箇所に叔父はしおりを挟んでくれているようだが、かなりの分量がある。読み込むには時間がかかりそうだ。
「実はいずれ必要そうなところを抜き出して、塔にお渡しすべきだと思って準備をしていたのですけれども」
肉親とはいえ、私的な日記を読むことは叔父にもかなり抵抗があったらしい。まして、そこに誰かに知らせておかねばならぬようなことが書かれているとは考えてもみなかったようだ。遺品を整理していた折に、たまたま読んだ箇所に迷宮遺跡探索の細々とした気づきが記されていた。その後、公式に残った文書と比較して、祖父は確信を持てたことしか公式文書に残さなかったことがわかったという。
「私も姉も父の名の重さに苦労いたしましたが、異国で交渉などに出向きますと、父の名のおかげで今でも交渉がはかどることも多い。屋敷にいるときは、野菜を食べなくて母にいつも怒られているような人でしたから、そこまで偉大だとはとても思えませんでしたが」
叔父は苦く笑う。
救国の魔術師などと言われても、家族にとっては普通の人間だった。そしてその人間の姿こそ、家族が愛した祖父の姿だったのだろう。
「イシュタルもエリザベスも、ラクセーヌ公爵家の人間。血を引くといっても、スルバスの名に縛られる必要はない。ただ、父の遺したものが、二人の助けになればと思うのです。クリッシュ公爵、どうか二人をよろしくお願いいたします」
叔父は静かに頭を下げた。