規約
馬を引きながら、私は殿下とともに厩舎へと向かう。
「お仕事は大丈夫なのですか?」
「仕事が山積みなのは事実だが、いろいろ順番もあってね。ずっと仕事をしているってわけではない」
殿下は苦笑する。
補給の準備にしろ、人員の配置にせよ、状況の確認などの報告待ちがあったりする。四六時中仕事をしているわけではないけれど、やらなければならないことは大量にあるってことなのだろう。一気に片付ければ一瞬で終わることにしても、『待ち』が必要だと、そういうわけにはいかない。
たまに空いたぽっかりとした時間に、私が馬に乗れるかの確認までしなければいけないなんて、たいへんだ。
「きちんと休んでおられますか?」
「ああ。ベティもベッドで寝られるのは今のうちだから、しっかり休まないとダメだぞ」
「そうですね」
出兵したら野宿をする必要だって出てくるし、そもそも休んでいる暇がなくなる可能性もある。魔物は人間よりタフだし、数に限りがない。
「それにしても、ベティと二人だけで話すのは、本当に久しぶりだ」
「半年ぶりでしょうか」
規約のせいで、殿下と会う機会は公式行事に限られている。殿下のエスコートが許されるのは、私とエラヌ嬢の二人ともが出席する行事だけだ。しかも平等に交代でとなっている。それでも殿下に会う機会は、私の方が圧倒的にエラヌ嬢より多いから不公平だという者も多い。
もっとも規約があろうとなかろうと関係なく、ただ、エラヌ嬢が殿下にふさわしいと思っているからなのだろうけれど。
「あの……規約は私を制限するものではないって、どういう意味ですか?」
「それは──」
口を開きかけた殿下の表情が曇る。
「おや、殿下ではありませんか。偶然でございますなあ」
大げさなほどの明るい親しげな声にそちらに目を向ければ、神官長であるヴァル・レイアーと聖女マリア・エラヌ伯爵令嬢が連れ立って歩いてきていた。
「殿下におかれましてはご機嫌麗しゅう」
「ああ。挨拶はよい。忙しいのでな」
美しい淑女の礼で挨拶をするエラヌ嬢に殿下はそっけなく答えるが、彼女は気にした様子もなく、柔らかい笑みを浮かべる。
今の状況はどう見ても規約違反。意図したことではないけれど、批難されても仕方がない。私は思わず腰が引けるけれど、進行方向をふさがれている形なので、立ち去ることは難しいし、私が積極的に殿下に会おうとしたわけでもないのだから、罪悪感を感じるのも変だ。
「そちらはまた、見事な赤毛の馬にございますなあ」
神官長はイチジクをみて感嘆の声をあげた。
「美しいその馬こそ、聖女さまの馬車を引くのにふさわしいですな!」
「え?」
私は思わず驚く。
イチジクは確かに美しい馬だ。が、神官長は何を言っているのだろう。
「神官長。この馬は、公爵家の所有する馬だ。聖女の馬車は軍で用意すると言ったと思うが?」
殿下の眉間にしわが寄る。
馬車に合わせれば、行軍の速度は落ちる。もちろん歩兵よりは早いけれど、一刻も早く最前線を支える守備隊に合流することを考えれば、聖女の馬車を引く馬は持久力と馬力に優れている必要があるだろう。
「あのような武骨な馬、美しくありません」
エラヌ嬢の口から飛び出た言葉に、私は耳を疑った。
彼女は軍馬を美しさで選びたいようだ。
いや、良い馬は美しいとされているけれど、それは毛並み、毛艶、目の輝きを指してのことである。
「一番良い馬をつけて下さると約束したではありませんか!」
「そうです。絶対にこの馬にしていただかねば」
エラヌ嬢と神官長が声をそろえる。
どうやら、二人は軍が用意した屈強な馬が気に入らないらしい。現場の兵たちの戸惑う姿が目に浮かぶ。
「ド素人が」
殿下が二人には聞こえないほどの小声で呟いた。
「だからこの馬は、公爵家の馬だと言っている」
殿下はいらいらしたように、声を荒らげた。こんな殿下はみたことがない。
「それでしたら公爵家に供出していただければいいのでは? そもそも殿下とお二人でいらっしゃるのは規約違反でありましょう?」
神官長が私の方を見る。
つまり、罰金代わりにイチジクを差し出せと言いたいのだろう。
「供出するのはやぶさかではないですけれども、イチジクは馬車を引くのに一番良いとは言えないと思います」
何か言いたげな殿下を制して、私は口を開く。
「イチジクは優秀な馬ではありますが、どちらかといえば、スピードとバランスに特化した馬です。馬車を引くには馬力が少々劣ります。もちろん、平時の帝都での散策くらいなら平気でしょうけれど」
当たり前だが、馬にだって、目的に応じて向いている向いていないがある。
「討伐隊で、馬車を引くなら、やはり頑強で持久力のある馬のほうがよろしいかと」
「でも、綺麗じゃないです」
エラヌ嬢は口をとがらせる。
行きたくもない戦場に行くのだ。できるだけ周囲に神々しい印象を抱かせたいのか、それとも単純に美意識の問題なのかわからないけれど。
「戦場で賞賛されるのは、美しいことよりも何よりも、屈強であること、生き残ることです」
祖父が救国の魔術師とたたえられたのは、もちろん本人の人格や行動もあっただろうが、圧倒的に強かったからだ。
「殿下が黄金の剣でなく、鋼の剣をお持ちになって戦場に立たれるのは、なぜだと思われますか?」
「えっと」
エラヌ嬢は首を傾げる。
「黄金の剣は美しいけれど、剣としては強度がございません。剣が黄金で作られないのは、高価だからという理由だけではありません」
「でも、神官長は黄金の杖を持っていますわ」
なるほど。
言われてみれば、神官長の武器? は、黄金の杖だった。もっともあれは儀礼用だ。そもそも神官は迷宮遺跡の研究はするものの、魔物を退治したりはしない。それはあくまでも『塔』の仕事だ。
「では、神官長は戦場でその杖を使って戦ってくれるのだな?」
意地悪く殿下が口をはさみ、神官長の顔は青くなっていく。
「エラヌ嬢、討伐隊であなたの周囲にいるのは、たおやかな令嬢たちではありません。兵士たちの価値観、強いて言えば、総司令官たるアラン殿下の価値観と美意識に合わせてこそ、聖女として、あなたの美しさを焼き付けることができるのではないでしょうか」
「殿下の価値観と美意識ですか?」
「ええ。美しさの価値観は人や時、そして状況によって変わるもの。社交界の価値観と戦場の価値観を一緒にしてはかえって笑われましょう」
「まあ」
その着眼点は盲点だったようで、エラヌ嬢は目を見開く。
「ラクセーヌさまのおっしゃるとおりかもしれませんわ」
「聖女さま?」
神官長はエラヌ嬢の様子に戸惑っているようだ。
「殿下はあの馬が一番良いと思い、選んでくださったのですね?」
「……ああ」
エラヌ嬢の問いに、殿下は渋面のまま頷く。
「しかし──」
神官長はまだ何か言いたげだ。
神官長である、ヴァル・レイアーは三十歳で、侯爵の次男だ。家柄と財力で現在の地位を築いたと聞いている。ただ神の名を唱え平穏を祈るには年若く、野心もありそうだ。ひょっとしたら、馬を変えたいと言い出したのは、エラヌ嬢ではなく彼の方なのかもしれない。
「何より戦場に赴かれる聖女の姿は、ただそれだけで雄々しく美しいと神官長も思われませんか? この度の出征で肝心なことはエラヌ嬢の安全のほうですよね?」
「それは……」
神官長は不満げな表情のまま、私を睨む。
「神官長、私は軍の馬のままでよろしいですわ」
「……わかりました」
エラヌ嬢にそう言われては、神官長としても引き下がるしかなかったようだが、コホンと一つ咳払いをして、もう一度私を見た。
「しかし、ラクセーヌ嬢、規約違反をしていただいては困りますな。殿下はお忙しい身。無理やり押し掛けるようなことをなさるのはさすがに心得違いも甚だしいのでは?」
「神官長、勘違いもほどほどにしてもらおうか」
殿下の声が一段と低くなる。
「エリザベスは今回の討伐隊にあたって、馬車ではなく、馬に乗るというので、どの程度乗れるのか俺がこの目で確認しただけだ」
「……馬に乗る?」
「ああ。引馬に乗れる程度で乗れるなどと言われては迷惑だからな」
殿下はおそらくわざとキツイ言葉を使っている。その方が、神官長が納得すると考えてのことだろう。
「しかし何も殿下自らでなくても」
「総司令官は俺だ」
殿下はきっぱりと言い放つ。
「そう言えば、神官長。迷宮遺跡に関する資料を提出するように言っているが、君がここにいるということは当然、もう提出は終わったということか?」
「……」
神官長は黙り込む。どうやら、提出はまだのようだ。このようすだとひょっとすると、神殿に出向いた兄は、出向き損かもしれない。
「聖女の馬車の見た目に意見する暇があるなら、さっさと資料を用意してくれ。そちらの方がよほど、今回の討伐に必要なことで、それこそ聖女の身の安全に直結すると思うが?」
「し、失礼します」
神官長は頭を下げて、踵を返す。
「神官長?」
突然置いてけぼりをくらって、エラヌ嬢は面食らったようだ。
「私も失礼いたしますわ」
エラヌ嬢は慌てて挨拶をして、神官長の後を追う。思わず、茫然と二人の背を見送る。
まるで嵐のようだ。
「……馬をしまおうか」
「はい」
殿下に促されて、私はイチジクの手綱をひく。
「規約はね、今のを見てわかるように、神官長のごり押しが酷かったせいだ」
殿下の言葉は苦い。
一事が万事あの調子では、辟易とするのもわかる。
「しかし、ベティは強いなあ。正論で説得しちまうとはカッコよすぎだろ」
「えっと」
感心されるようなことはなにもしていない気がする。
「神官長はともかくとして。エラヌ嬢は、おそらく何もかも、価値観が普通の令嬢なのです」
屈強な馬を可愛くないと感じたり、討伐に行きたくないと言ったり。きっと彼女に悪意はないのだろう。
「わがままな子供だ」
「素直なのですわ──ある意味、羨ましいです」
ひょっとしたら、母が望んでいた『普通の令嬢』とは、彼女のような人を指すのかもしれない。
なんとなく、そんな気がした。