馬術
会議のあとは、別室に呼ばれて採寸となった。とにかく大急ぎで、防具を用意する必要がある。魔術師の防具は、それほど重装備ではないが、それでも普段着るものとは全然違う。分厚い綿の入ったシャツ、なめした皮のブーツなど、動きやすさと、防御力を秤にかけたギリギリのバランスが必要なものだ。
出兵まで時間がないので、既製のものを、私のサイズに直し、さらにそれに防火の魔術をほどこしてもらう──ちょっと考えただけで、職人たちにとっては鬼のように過酷なスケジュールだ。
三日という日程は、物資がそろうギリギリの日程で、可能であれば十日以上かけて、万全の体制を整えたいところを無理をして、ということらしい。
本当は魔術師に登録となる事務手続きとか、魔物のデータ収集とか、しておきたいことが山積みなのだけれど、『出兵するまでに絶対に必要な用意』が優先されるのは当然だ。一通り防具のための採寸が終わると、私は軽食をとってから、用意された乗馬服を着て厩舎に行くように言われた。
なんでも、本当に馬に乗れるか、乗れるとしてどの程度乗れるかの確認をしたいとの話だ。
馬に乗れないと判断されれば、聖女と同じく馬車に乗ることになるらしい。もっとも、その場合は、聖女のような特別な馬車ではなく、補給物資を載せる荷馬車に乗る扱いになるのだろう。
歩兵の中に混じることもできるのだけれど、正直、私としてはその方が不安だ。絶対に、歩兵と同じように歩けるほどの体力があるとは思えない。
「やあ、エリザベス」
「兄上……って、殿下?」
厩舎の前に立っていた兄に手を振りかけた私は、兄の隣に立っているアラン殿下に気づいて慌てて居住まいを正す。
「殿下に置かれましてはご機嫌麗しゅう──」
「挨拶は別にいいよ、ベティ」
にこりと、殿下は笑う。相変わらず、優しい目にどきりとした。
「ひょっとして、殿下が乗馬の試験を?」
「ああ。イシュタルから乗れるとは聞いたが、念のためだ」
総司令官として、行軍についていけるかどうか確認したいのだろう。
「スルバス侯爵家につながるものとして、男女関係なく馬術を習うと申し上げたのだが、どうしても信用していただけないらしくて」
兄は苦笑いをする。
そうなのだ。祖父、ダン・スルバスは『領地領民に何かあった時に、領主たるもの、直ちに駆け付けられるように馬術は基本スキルである』と考えていた。ゆえに、『貴族の夫人らしさ』を追求する母でも、乗馬はちょっとした貴族の令息並みにこなせるのだ。もちろん、ラクセーヌ家にそんな家訓はなかったのだけれど、母が嫁いだ時に持ち込み、兄はもちろん私も馬術の訓練は受けている。
「単純に乗馬としてなら、エリザベスのほうがうまいくらいですよ」
「……全然知らないのだが?」
「聞かれませんでしたので」
眉間にしわを寄せる殿下に対して、兄はしれっと答える。令嬢が馬に乗れても、それほど自慢にはならない。あえて報告するようなことではないといえば、それまでだ。
ちなみに兄は私を愛称呼びしない。兄自身が愛称で呼ばれることが嫌いだから。
「ギスカールとベティがあんなに親しいのも知らなかったし」
「それこそ、聞かれませんでしたし、一応、エリザベスだけでなく、私も侯爵に教わってますよ。母は、私達兄妹に魔術の才があることを世間に知られたくなかったので」
ふうっと兄はため息をついた。
「母は、魔術師を恨んでいます。母は、随分と祖父のために苦労をしましたから。それに才能があるとなれば、みなが祖父、ダン・スルバス侯爵の名を思い出します。誰もが、救国の魔術師を期待してしまいますからね」
それは、少しわかる。
魔術師の詳細検査が分かった時、周囲が祖父のことを思い出したのは間違いない。そうでなければ、もっと当たりが強くても不思議はなかったと思う。
「まあ、言いたいことはわかるが」
殿下は不服そうだ。
「さすがに愛称を呼ぶ仲ってのは」
「師匠には、もう八年近く教えていただいています。初めてお会いした時には、既に師匠はお若くとも主席魔術師でした。師匠にとって私は長に押し付けられたただの子供にすぎません」
今はともかく、既に大人と肩を並べていた十五歳の師匠から見て、十歳の私は子供にしか見えなかったはずだ。親しみを込めて、生徒の愛称を呼ぶことは、それほど不思議ではないだろう。
「子供のころの愛称呼びに、深い意味などないことなど、殿下もよくご存じではありませんか? その延長ですよ」
殿下は、今日はなぜか愛称呼びだが、ここ数年、私を愛称で呼ぶことはなかった。成長した男女の間で愛称を呼ぶことは、親しい関係にあると揶揄されるので、避けていたのだろう。
「ええと、それは……」
「エリザベス、それくらいにしておけ。殿下、殿下の負けです。とりあえずやることを済ませましょう。時間が惜しいのですから」
兄は言いながら、馬房へと入っていく。
「まあ。イチジク!」
厩舎の中に、自分の愛馬がいた。黒い大きな瞳をした赤毛をしたイチジクは、私を見て鼻づらを私の手にあてる。
「慣れた馬の方がいいだろう? イチジクなら、軍馬と並んでも見劣りしない」
「ええ。そうね」
私はイチジクの頭をなでた。イチジクは賢い馬で、しかも頑強だ。行軍にもきっと耐えてくれる。
「ベティは、馬が好きなのだな」
殿下に言われて私はハッとなった。
「え、あ。すみません。すぐ馬具をつけますね」
出兵を控え、殿下のスケジュールはきっと秒刻みだ。余計なことをしている時間はない。
私は兄に手伝ってもらいながら、さっそくイチジクに馬具をつけていく。
「馬にはよく乗るのか?」
「最近はあまり。ですが、乗馬は母が許してくれた唯一の娯楽のようなものなので」
乗馬に関して言えば、兄の方はかなり厳しいことを要求されていたけれど、母としては私には『乗る』こと以上を望んでいなかった。逆に、令嬢として要求されるスキル──刺繍、編み物、楽器の演奏やダンスやマナーなどはとても厳しくて、反復練習させられている。
「そうだとわかっていれば、遠乗りとか誘ったのに」
「それは規約違反になりますよ」
私は首を振る。
実は、私も聖女であるエラヌ嬢も殿下と会うのに、かなり制限を受けている。おそらく、私と殿下が幼馴染で、しかも私が公爵令嬢だから、比較的宮殿に出入り自由という点をふまえたものだ。とはいえ、言われなくても用もないのに顔を出して多忙な殿下を煩わせる気は毛頭ないのだけれど。
一応、私と同じようにエラヌ嬢も制約を受けてはいるらしいけれど、誰の為に作った規約なのかと考えると、私が世間一般では流行りの悪役令嬢のイメージと似ているせいで、殿下に迷惑をかけると思われているのかもしれない。
厳密には、今の状態も規約違反なのかも。兄がいるから、許されるということなのかな。
「あの規約は、ベティを制限するためじゃない」
殿下は大きくため息をつく。
「というか、ベティは、規約ができる前だって、イシュタルや公爵に会いに来ることはあっても、私に会いに来なかったし」
なぜか少し恨み節が混じったような口調だ。幼馴染なのに薄情と思われているのかも。
「お会いしたくなかったわけではありません。単純にお忙しい殿下にお会いする用事がなかったのと、私もそれなりに忙しかったので」
「……殿下、妹をあまり困らせないでやってください」
反応に困っている私をみて、兄が苦笑する。
やがて馬具をつけ終わり、私たちは厩舎から出た。
「それで、何をしたらいいのでしょう?」
「障害を飛んで見せたら殿下も納得すると思う」
兄の案内で、手綱をにぎって、馬を引きながら厩舎のすぐそばに作られた簡易運動場に向かう。
「障害を飛ぶ?」
殿下は驚いたような声を上げた。
「行軍途中で、ちょっとした川を飛び越えなければいけない、という事態がおこる可能性がありますよね?」
簡易運動場は、軍馬の訓練場とは違って、そこまで広くないようだ。
兄があらかじめ用意したのだろう。運動場のあちこちに飛越用のハードルや、大きな木の幹が横たえられており、それぞれ番号がふられている。
障害を飛越するだけでなく、番号順に走らせる必要があり、馬をしっかりコントロールできるかが問われる訓練の一つだ。
「ベティ、本当に大丈夫なのか?」
「これくらいなら平気です」
心配気な殿下に頷いて、私はイチジクの背にまたがり、第一の障害に向かった。