記憶
今日も遅刻。すみません。
「ベティ、こっちだよ」
今よりも少し幼い殿下が、私を呼ぶ。
晴れ渡った青い空。
目の前にはきらきら光る湖がある。
ああ、これは夢だ。
懐かしい。婚約者候補に挙がったばかりのころの記憶。
殿下と二人で行ったピクニックの日だ。
初めての。そして、最後のデート。
そう。正式な婚約発表が行われる一月前に、エラヌ嬢が聖女の力を発現し、『規約』により、殿下と出かけることはなくなってしまった。
思えば、ベティと呼ばれた最後の記憶かもしれない。
お弁当を食べてから、二人だけで舟に乗った。
もちろん湖岸には護衛が控えてはいたけれど、ドキドキして、ふわふわした空間で、嬉しいような、それでいて恥ずかしくて。
殿下の大きな黒い瞳に私だけが映っていて、これからずっと、殿下の隣にいられるとその時は信じて──浮かれていた。
「ちょっと待っていて」
湖の中ほどについた時、殿下が呪文を唱える。
すると、湖に大きな虹が現れた。
「素敵!」
美しい風景に虹がかかって、それこそ、絵本のお姫さまになったようなそんな気がした。
何よりも、殿下が私のためだけに、虹をかけてくれたのが嬉しかった。
「水の魔術の応用だよ。それほど難しい術じゃない。でも、綺麗だろう? ベティに見せたくて」
照れたようにはにかむ殿下の顔を見て、わたしもまた恥ずかしくなる。
「すごく嬉しいです」
「よかった」
殿下はほっとしたようだった。
「やっと、俺だけの力で、ベティに贈り物ができた」
「殿下?」
私は思わず首を傾げる。
幼い頃から、殿下にはプレゼントをたくさんいただいるのに、どういう意味なのだろうと思う。
「俺は皇太子だから。贈ろうと思えば、宝石だってドレスだって、それこそ鉱山だって贈ることはできるけれど……それは、皇太子だから贈れるものだから」
殿下は複雑な表情で笑う。
「ベティは誕生日にハンカチに刺繍をして贈ってくれただろう? そういうふうに、何か自分の努力で贈り物をしたいとずっと思っていた」
令嬢が親しい男性に刺繍したものを贈るのは、一般的な風習だ。言われてみれば、ある程度の時間を費やしての贈り物ではあるけれど。
「もちろん、俺も刺繍をするという考え方もあったのだが」
殿下なら、刺繍も器用にこなせてしまいそうだが、とにかく忙しい人だ。できるできないより、まず、時間がない気がする。
「そういえば、殿下は魔術師でいらっしゃいますものね」
殿下は上限値越えの魔力を持つ、超一流の魔術師だ。
「魔術師、なのか?」
殿下は首を傾げる。
「違うのですか?」
「うーん。まあ、そう言えなくもないのか。塔に入る予定はないけれど」
確かにいくら魔術師の才はあっても、殿下は皇太子だ。塔で働くことはないだろう。塔で働くことがイコール魔術師であるなら、殿下は魔術師ではないのかもしれない。
「魔術を学ぶことは楽しいし、皇太子として必要なスキルでもある」
「そうですね」
そうか。殿下は魔術を勉強していても、剣を学んでも、やっぱり皇太子なのだ。それはある意味では窮屈ではないのだろうか。
「まあ、魔術師でも皇太子でも同じことさ。そもそも魔術を使えれば魔術師と考えるなら、多くの人間が魔術師だ。ベティだって、魔術は勉強しているし使うのだろう? だったらベティも魔術師だよ」
「それは……そうかもしれませんね」
母は、私に『魔術師なんかにならなくてもいい』と言われ、詳細検査は受けられず、塔に登録することはできなかった。
でも、一応、魔術の勉強はさせてもらっていて、ちょっとした魔術なら使うことができる。
「でも、本当はきちんと残せるものを作ってベティに贈りたい。そう考えると、やっぱり刺繍を学ぶべきか? 公爵令嬢に贈れるようなレベルのものなんて、そうそう作れないと思うけれど」
「それを言ったら、私もそんなに上手ではありません。それこそ殿下に使っていただくのは申し訳ないレベルで……」
「ベティ。度のすぎる謙遜はダメだぞ」
殿下に睨まれ、私はびっくりした。
「申し訳ございません。母にはいつも叱られてばかりなので」
「ああ、もう、ベティは自分の価値を低く見積もりすぎだ。そんなこと、他の令嬢の前で言ったら、絶対に嫌味に取られるから」
殿下はオーバーにため息をつく。
いや、さすがにそんなことはないと思うし。そもそも、そんな話をする機会も友人の少ない私にはない。
「まったく。夫人はベティに対して理想が高すぎる。これ以上ベティが完璧になったら、俺とつり合いが取れなくなってしまうじゃないか」
「そんな……ことは」
殿下の方こそ完璧で、私と釣り合わないと思うのに。
「ベティの隣にいて恥ずかしくないように、これからも頑張らないとな」
「殿下は殿下のままでいいです」
精一杯の勇気を出して言った言葉に、殿下はにっこりと破顔した。
「俺もベティはベティのままでいい。だから、いろんなことを考えすぎるなよ──」
その時、私はとても幸せで、未来もその幸せが続くと信じていた。
ずっと──。
甘い水が柔らかい感触とともに流れ込んでくる。
とても美味しい。
体のすみずみまで、水分が巡る感じがした。
「ですから、殿下。さすがに、衆目のある状態でポーションを口移しで飲ませなくてもいいと思うのです」
抗議めいた口調は、兄の声だ。
「やだ」
温かい。体が何かに包まれているような、そんな感触。
「こうして見せつけておかないと、誰かがベティをさらっていこうとする」
「……今はまだ、そんな状況でもないのに」
兄は呆れているようだ。
「ん──」
ゆっくりと目を開けると、殿下の顔が間近にあった。
状況がよくわからない。
「え?」
「ベティ? 気が付いたのか? よかった」
突然、ぎゅっと抱きしめられる。何が何だかわからない。
「殿下、ストップ。説明が先です」
兄だった。
空は青いが、火の谷ではない。ごつごつした岩山に石造りの巨大な建物がある。どうやらここは、迷宮遺跡の入り口付近のようだ。
「あの?」
状況がよくわからない。どうやら魔物と交戦している状態ではなさそうだけれど。私はなぜ、殿下にだきしめられているのだろう?
「今は迷宮遺跡の修復作業中だ。聖女の力で魔物は封じられているし、そもそもこの一帯は、魔物除けの陣が張られていて安全だ」
「魔物除けの陣……」
言われて、意識を失う前の記憶がよみがえってくる。
「殿下、おケガは? 兄上も」
「お二人とも無事です。命の危険があったのは、ラクセーヌ、いえ、エリザベスさまのほうですよ」
怒ったような声にそちらを見ると、エラヌ嬢がケガ人に包帯を巻いていた。
「私の癒しの力は、ケガは直せても、魔力切れによる生命衰弱には効かないの。任されても困ります」
話がよく分からない。
「まず、エリザベスの知りたいことを話そう。エリザベスが魔物除けの陣を張ってくれたおかげで、エラヌ嬢の手当てを殿下も私も受けることができた。結界内の魔物が完全に消滅したこともあり、我々は体勢を立て直すことが可能になった」
「はい」
「結論から言えば、エリザベスの結界は、ほぼ一日持った。それも迷宮遺跡のつい手前というところまで。だから結界があるうちに、我々は結界の外に出て少しずつ迷宮遺跡に接近し、エラヌ嬢が封印をした。そして魔物の数をある程度減らしたところで、クリッシュ公爵が再び魔物除けの陣を張ったというわけだ」
つまり今、ここは師匠の結界の張った中ということらしい。
「ベティが倒れて、今ちょうど三日目というところだ。ギスカールが術を張って、半日ってとこかな」
「ええと」
大体状況は呑み込めた。
つまり、現在は、魔物除けの陣の中で、工兵が修復作業をしているということなのだろう。
「あれだけの魔物を一気に消滅させたせいで、エリザベスさまは仮死状態になりかけたの。咄嗟にイシュタルさまが魔力を補ったのでなんとかなったけど……」
エラヌ嬢は大きくため息をつく。
「殿下をエリザベスさまから引き離すのに苦労しましたの。なんのために、エリザベスさまがあんな無謀をしたと」
「なんだか……エラヌ嬢、雰囲気が変わりましたね」
私はじっとエラヌ嬢を見る。なんだかあの幼かった言動がなくなり、聖女の貫禄のようなそんなものが出てきた気がした。
「私……お姫さまになるのをやめました。だって、聖女は尊いって、エリザベスさまが言ってくれたから」
「それは、そうですけれど」
私が意識を失っているうちに、彼女はきっと想像もできないような体験をしたのかもしれない。
「だから……あの。マリアって呼んでください!」
「はい?」
突然の希望に私は面食らう。
「あ、エリザベスが、エラヌ嬢と友達になりたいって言ってたって言ったら、なんだかその気になったみたいで」
兄が頭を掻く。
「あああぁ! もう、ベティの人たらし! 俺のベティなのに!」
「殿下。さすがに、それでは、エリザベスさまに幻滅されると思います、ね、エリザベスさま」
エラヌ嬢が口をへの字に曲げ、同意を求めてきたけど。
私は、何がどうなっているのかわからず、しばらくぽかんと口を開けたままでいたのだった。




