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猛毒の蕾

吉原の朝は、川の匂いから始まる。


夜明け前、河岸へ下りると、湿った風に鉄の匂いが混じっていた。


白粉の甘さではない。

鼻の奥に残る、生臭い重さだ。


石段の途中に、女が引っかかっていた。

いや、女だったものだ。


長い黒髪が泥に絡まり、指先は水を吸って白くふやけている。


肌には、斑のような影が浮かんでいた。

白粉が割れ、剥がれ、その下の色が露わになっている。


誰も足を止めない。

船頭も、魚売りも、吉原の使い走りも。

綾乃も、箒を動かしたまま目を逸らした。


(私は、ああはならない)


声にはしない。

ただ、そう決めただけだった。


「……何を突っ立ってる」


背後から、低い声が落ちる。

女将のお清だ。


振り返ると、お清は白粉を塗っていなかった。

それでも肌は白く、乾いている。

指先は短く整えられ、無駄がない。


「来な」


それだけ言って、歩き出す。

綾乃は河岸を背に、ついていった。




お清の部屋は、静かだった。

香は焚かれていない。

壁際に、何枚かの絵が立てかけられている。


波でも、富士でもない。

人の手だ。


節が浮き、年を取った手。

皺も、爪の割れも、そのまま描かれている。


「触るな」


綾乃が手を伸ばしかけた瞬間、言われた。


「見るだけでいい」


お清は煙管を口にくわえ、灰を落とす。

盆の端に、正確に。


「肉は早い」


それだけ言う。


「若さも、白さも、すぐ尽きる」


綾乃は黙っている。


「男が欲しがるのは、

 自分でも気づいていないことを、言い当てられることだ」


お清は、綾乃の顎を指で持ち上げた。

力はない。

逃げ場もない。


「体を軽く許した瞬間、

 値は一番下だ」


指が離れる。



部屋の隅から、紙束が放られた。

床に落ち、ばさりと開く。


臓器の図。

細かな文字。


「白粉の話は、もう見ただろ」


河岸の女の顔が浮かぶ。


「塗らないだけじゃ足りない」


お清は、小さな包みを取り出す。

乾いた草の匂い。


「米は白くするな。

 腹を満たすな。体を保て」


綾乃は、うなずくだけだった。



廊下に出ると、呻き声がした。

禿のお光が、敷布の上で身を丸めている。


指が腫れ、膿が滲んでいる。

昨夜、水に浸けられた。


綾乃は、しゃがみ込む。

焼酎の瓶に手を伸ばす。


「やめな」


お清の声。


綾乃は、瓶を置いた。

何も言わない。


「それをやれば、あの子は助かる」


「……」


「代わりに、お前が嫌われる」


お清は続けない。

それで終わりだった。


綾乃は立ち上がる。

爪が掌に食い込む。


泣かない。




夜。


禿たちの寝床は、蚕を育てる納屋の奥にある。


昼は蚕棚が並び、夜になると空いた下段に人が押し込まれる。

天井は低く、背を丸めなければ入れない。


薄い布団が三枚。

四人。


藁と湿気と、虫の匂い。

誰かが動くたび、棚がきしむ。


夜になると、音が始まる。

桑の葉を噛む音。


止まらない。

一斉に、同じ調子で。


隣の禿が、眠りながら呟いた。

「きれいな着物……」


綾乃は、目を閉じなかった。



翌朝、納屋の戸口で、お清が立ち止まった。


棚の上を、一匹の蛾が飛んでいる。

白い羽。

粉が落ちる。


お清は煙管を持ち替え、

その蛾を叩いた。


床に落ち、羽が動く。


踏まない。

煙管の先で転がす。


「これがな」


低い声。


「毎晩、葉を食ってる正体だ」


綾乃は黙っている。


「糸を吐き終えたら、用はない」


煙管の先で、羽が止まる。


「でも、これがなけりゃ、

 あの白い着物は作れない」


それだけ言って、去った。




夜。


不寝番に就く。

箱提灯を抱え、板敷きに膝をつく。


眠気が来る。

呼吸を数える。


隣の部屋から、男の声。

笑い。

女の相槌。


「……役人が……」


名前は出ない。

声の調子で、わかる。


別の部屋。

掠れた咳。


綾乃は、音を繋ぐ。



不寝番が終わり、蚕棚の下に戻る。


桑の葉が、頬に落ちた。

軽い。


綾乃は拾い、端を折る。

音がする。


梁の隙間に手を伸ばす。

紙の感触。


布団に潜らず、板の上に横になる。

冷たい。


蚕の音は、止まらない。


綾乃は眠らなかった。


夢も、見なかった。



その翌日から、綾乃は人の言葉に、

値段がついていることに気づき始めた。


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