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聞いてしまった言葉

夜の名残が、廊下に薄く貼りついていた。


宴が終わったあとの吉原は、

昼間の賑わいよりもずっと静かで、逆に落ち着かない。


提灯の火はまだ生きているのに、

笑い声だけが消えている。


三味線の余韻も、さっきまでの熱も、

襖の向こうに押し込められたまま――

外には出てこない。


綾乃は小さな盆を抱え、

音を立てぬように歩いた。


仕事は終わっていない。

終わらせてはいけない。


宴のあとに残る盃や皿、

乱れた座布団、

落ちた簪、

折れた香の欠片。


華やかさの裏側は、いつも散らかっている。

散らかり方には、癖がある。

誰が乱したのかが分かるほどに。


綾乃は盆の上の盃を一つ、

そっと指で押さえた。


縁に紅が薄く残っている。


見えないふりをするのが、この場所の作法だ。

けれど、こういう跡ほど、心に残る。


廊下の曲がり角の先、

少し奥まった控えの間から、声が漏れていた。


人がいる。

しかも、笑っていない声だ。


綾乃は歩幅を変えず、

盆を抱えたまま通り過ぎようとした。


覗くつもりはない。

興味もない。


興味があると見られたら、終わる。

終わるのは、自分だ。


――それなのに。


襖の隙間から、

言葉が、こちらへ滑ってきた。


「……あれは、もう使えぬ」


低い男の声。

酒で崩れていない。

酔ってもいない。

仕事の声だ。


「使えぬ、ではなく――

口を利かせぬように、だろう」


別の声が重なる。

こちらは年嵩の男。


語尾が柔らかいのに、芯が硬い。


綾乃の足の裏が、

わずかに冷えた。


“口”。


言葉が、立った。

目に見えないものが、

襖の向こうで形を持った。


「女は口が軽い。

まして廓の女だ。


聞いた、見た、言った――

それで済むと思っている」


「済ませたくないのは、こちらだ」


布の擦れる音。

盃が置かれる音。


乾いた音だった。

湿り気がない。

感情がない。


綾乃は、その場で呼吸を整えた。


息を吸う音が聞こえないように、

胸を動かさずに吸う。


息を吐かないまま、

吐いたふりをする。


身体の中だけでやる。


(通り過ぎろ)


足を動かそうとして、

動かなかった。


襖の向こうの言葉が、続く。


「今度の御成りまでには、

片づけておけ」


御成り――


その響きに、

綾乃は知らず背筋を伸ばした。


吉原の“客”は、誰だって客だ。

武士も商人も、そう変わらない。


けれど、その言葉だけは違う。

言葉の重さが違う。


ここで、

特別に扱われる類いの客の言い方だ。


「……上様か」


小さく囁くような声。

囁くのに、強い。


「名は出すな。名は」


「名を出さずに済ませるために、

口を塞ぐのだろう」


盃の縁を指がなぞる音がした。

舌を鳴らすような、

わずかな笑いも混じる。


笑っているのに、冷たい。


綾乃の指先が、

盆の縁を掴む力を強めた。


木が軋む寸前で止める。

音は立てない。


立てたら、ここで終わる。


――誰のことだ。


“あれ”。

“女”。

“廓の女”。


綾乃の頭が勝手に動いた。


答えを探すのではない。

名前のないものを、

勝手に自分の中に置こうとする。


置けたら安心する。

安心したら、油断する。

油断したら、死ぬ。


(名前を探すな)


もう呼ばれなくなったはずの

自分の名が、胸の奥で微かに痛んだ。


「今夜の席にいた者は?」


「数は多い。

だが、気づく者は少ない」


「気づく者が一人でもいれば、十分だ」


言葉の端が、鋭い。

刃物のように薄い。


薄いほど、よく切れる。


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