華やかな宴と運命の歯車
――「名前なんて、ここでは何の役にも立たないのよ。」
華やかな遊郭の裏側に隠された、冷たくも厳しい現実。
幼くして禿として売られた少女・綾乃は、名前さえも無意味とされる世界で、ひたすら働き続ける日々を送っていた。
眩いばかりの花魁たちの姿は、憧れであり、遠い夢。
それでも綾乃は、その美しい背中に追いつき、超えることを心に誓う。
――これは、一人の少女が厳しい宿命に抗い、誇り高き花魁を目指して歩み出す物語。
美しさと残酷さが交錯する遊郭の世界で、綾乃の運命が静かに動き始める――。
(あれが、花魁——)
綾乃は思わず息をのんだ。
朱塗りの廊下を、音もなく進む艶やかな背中。
緋色の着物に牡丹と藤が咲き乱れ、金糸銀糸が光を集めてきらめく。
まるで夜に舞い降りた幻のような美しさだった。
花魁が歩くたび、裾がふわりと波打つ。
結い上げた黒髪に挿された簪が、かすかに鈴の音を響かせる。
香の香りが風に乗り、通り過ぎる者の鼻先をくすぐった。
(同じ人間とは思えない)
その背中には、幼い禿として働く自分とはまるで別の“生き物”のような気高さがあった。
「……綾乃、立ち止まるな」
背中から鋭い声が飛ぶ。新造の女だ。
慌てて頭を下げ、綾乃は再び足を動かした。
(けれど、目が離せない)
彼女の中で何かが熱を帯びる。
怯えていたはずの心の奥で、小さな炎がじわりと燃え始めていた。
(あの背中に、追いつきたい)
そんな感情は、初めてだった。
禿の仕事は相変わらず過酷だった。
掃除、洗濯、衣装の用意、化粧道具の手入れ。
気を抜けばすぐ叱責される。足を滑らせれば、容赦ない罰が下る。
けれど、綾乃はその中でも一つだけ、心を込めてこなしている作業があった。
それは、花魁の簪や髪飾りを整えること。
小さな手で、丁寧に、埃一つないように並べる。
歪みのない位置に、規則正しく揃える。
(この一本の簪が、花魁の顔になる)
そう思うと、指先が自然と真剣になる。
自分にはまだ何もない。
名前も、価値も、誇れるものも、ひとつも。
それでも——
(せめて、この手だけは、嘘をつかないように)
そんな想いが、綾乃を支えていた。
夕刻になると、宴の準備が始まった。
今夜は、武家の高官が訪れる特別な夜だという。
女たちは化粧を重ね、衣装を着飾り、笑顔の仮面を整えていく。
その中で綾乃は、簪をひとつひとつ並べ終えると、そっと廊下に出た。
ふと、遠くから笑い声と三味線の音が聞こえてきた。
宴の始まりを告げるように、提灯が風に揺れている。
綾乃はそっと目を細めた。
(ここにいるかぎり、笑顔は飾り)
けれど——
(あの背中だけは、本物だった)
華やかで、美しく、そして、なによりも“強かった”。
その夜、綾乃はひとつの決意を胸に眠りについた。
(いつか、あの花魁のように)
憧れだけじゃない。
美しさに宿る力を、自分のものにするために。
その思いが、綾乃の運命の歯車を、音もなく動かし始めていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
綾乃が見つめた花魁の背中は、ただ華やかで美しいだけではなく、計り知れない強さと覚悟が秘められたものでした。
幼い彼女が抱いた小さな願いは、やがて彼女自身の運命を大きく揺るがし、さらには廓の未来までも巻き込んでいくことになります。
どれほど遠く、険しい道であっても、綾乃はその背中に追いつき、超えることができるのか。
そして、彼女を待ち受ける運命の出会いとは――。
今後の展開にも、ぜひご期待ください。
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