華やぎの裏側、涙の始まり
(朝が、こんなに静かだなんて)
綾乃は、硬く冷たい床の上で目を覚ました。
夜の余韻はもう残っていない。
空気はぴたりと張りつき、逃げ場を与えない。
昨日までいた家は、どこにもなかった。
怒鳴り声も、酒の匂いも、ため息も。
思い出に変わるほど、優しいものではなかったはずなのに。
「……起きな」
低く、乾いた声が落ちてきた。
それが、この場所の朝だった。
(やっぱり、夢じゃなかった)
薄暗い部屋には、知らない匂いが染みついていた。
花でも香でもない。
汗と油と、肌に残った何かが混じった匂い。
それが、この場所の匂いだった。
「お前、新入りかい。名前は?」
ぶっきらぼうな声に、綾乃は一瞬ためらってから口を開いた。
「……綾乃です」
女は鼻で笑った。
「いい名前だ。……でも、ここじゃ使わない」
それだけ言って、背を向けた。
綾乃は、その場に立ち尽くした。
自分の名前が、床に落ちたような気がした。
朝の支度が始まった。
重い桶、水場、掃除、洗い物。
教えられるより先に、叱られる。
遅れれば怒鳴られ、失敗すれば睨まれる。
衣装は、見た目ほどやさしくなかった。
重く、扱いづらく、少し汚れただけで叱責が飛ぶ。
名前を呼ばれることは、なかった。
昼、膳が配られた。
粥と、漬物の欠片。
綾乃は、こぼさないようにだけ気をつけて口を動かした。
「ここでは、泣いても意味がないよ」
隣から声がした。
年老いた女だった。
節くれだった手が、静かに箸を動かしている。
「私も、娘が二人いた」
それだけ言って、女は一度箸を止めた。
「二人とも売った。……二人とも、川に入った」
それ以上は、何も言わなかった。
綾乃は、飯粒から目を離せなかった。
「残ったのは借金だけさ。だから、ここにいる」
女は淡々としていた。
それが、この場所の正しい話し方なのだと分かった。
「売られたんだ。働くしかない」
声は冷たかったが、嘘はなかった。
綾乃は、膳の縁を指で押さえた。
指先が、少しだけ震えているのが分かった。
この場所では、
泣いた者から、壊れていく。
その事実だけが、静かに胸に沈んだ。




