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花魁の戯言  作者: 蒼獅
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運命の夜


(おにぎりひとつで、生きていけると思っていた)


あの頃の私は、“売られる”という言葉の重みをまだ知らなかった。


徳川綱吉の世。江戸の片隅の農村で、

女に生まれることはそのまま「不運」を意味した。


吉原の灯など、遠い異国の光のように無縁だった。


けれど――

その夜、一皿の粥と焼き魚が、私の運命を裏返した。


(綺麗だったな……あの門の光)


朱塗りの門の向こうには、無数の“商品”が並んでいた。


名を持ちながらも、私もその一つに過ぎなかった。


これは、“綾乃”という名が、もう一度意味を持つまでの記録である。



(白いごはんが食べたい。炊きたての、湯気のたつやつ)



綾乃は冷たい井戸水で口をすすぎながら、心の中でだけそう呟いた。


声にしても誰に届くわけでもないし、

届いたところで白米などこの家ではとうに姿を消していた。



家は今にも崩れそうな木造。


柱はひび割れ、床は軋み、雨が降れば屋根から雫が落ちる。


それでも、少し前まではそこが

彼女にとって唯一の“家”だった。



けれど、日に日に重くなる借金取りの怒声と、

父の酒臭い吐息、母の乾いたため息。



「子どもひとり売れば楽になる」


「飯代が減る」


そんな言葉が飛び交うようになった。



その瞬間、綾乃は人間ではなく“負債”であり、

値札のついた“商品”へと変わってしまったのだ。



納屋に逃げ込んで震えていたときのこと。



藁の上に置かれた小さな包みを見つけた。


中には冷たく硬いおにぎりがひとつ。


形はいびつで、冷えきっていて、

それでも涙がこぼれるほど美味しかった。



(あの人だ……)



村はずれで、子どもにだけは

優しい目を向ける年配の女がいた。


きっと誰にも告げず、そっと置いていったのだろう。


その優しさは甘くもあり、毒のように胸を締めつけた。



(それでも、まだ生きていていいってことか)



小さな命綱のようなおにぎりを噛みしめ、綾乃はそう思った。




その夜のことは、今でもよく覚えている。



「今日はお前の誕生日だろ」



父は酒の匂いをまとった声でそう言い、

母は不自然な微笑みを浮かべていた。



膳に並んだのは、粥、焼き魚、漬物――

普段では考えられない“ごちそう”だった。



綾乃は夢の中にいるような気持ちで箸を伸ばした。



温かな湯気に頬を包まれ、胸の奥に小さな灯がともるようだった。


けれど、それは祝福ではなく、別れの支度だったのだ。



「綾乃、今日からお前の人生が変わるのよ」



母の声には、諦めの影が滲んでいた。


月明かりに照らされた家を背に、母に手を引かれて歩く。


振り返ったぼろぼろの家は、もう二度と戻らぬ場所になった。




夜道の先、朱塗りの大きな門が見えてくる。


提灯の明かりが揺れ、三味線の音色と笑い声が響いていた。


遠目には、まるで星が地上に降りたように幻想的だった。



「すごい……」



幼い声で呟く綾乃に、母は何も答えなかった。


門をくぐった先に広がっていたのは、

艶やかな着物の女たち、煌びやかに飾られた楼閣。



光と影が交錯する、異世界のような光景。



「ここが、あなたの新しい家よ」



母の言葉に綾乃は小さく頷いた。


だが、この華やかさの奥に深い闇が潜んでいることを、

彼女が知るのはもう少し先のことだった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第1話では綾乃が家族と別れ、

運命に導かれて遊郭の門をくぐるまでを描きました。


華やかに見える世界と、その奥に潜む深い影。


綾乃がこれからどのように生き抜き、何を掴み取るのか――

次回からは、その新しい舞台が幕を開けます。


どうぞ、これからの綾乃の物語にお付き合いください。


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