59.来てくれた
潮のように近付いたり遠退いたりする意識の中で、硬く冷たい物が指先に触れた感じがした。それが床石だと理解した途端一気に思考が回転し、ユリエナは身体を跳ね起こした。
「あっ……!」
身体が鉛のように重い。一息に起こした身体が数秒遅れて悲鳴を上げた。貧血にも似た気だるさと疲労感。それに軽度の頭痛もあり、気を張っていなければもう一度倒れてしまいそうだ。
「これが、アズミの言ってた魔法力増幅期……?」
急激な魔法力増加に伴って激しい疲労感や脱力感に襲われ、ひどい場合は気を失うこともあると、出立前に聞かされていた。この症状がそれだとしたら――。
「じゃあ……太陽はもう、なくなったの……?」
小さな窓から覗く空は、気絶する前と変わった様子はない。しかしユリエナにはそれが、百年の闇を誘う深い深い漆黒の天蓋に思えた。一刻も早くここから出なければと、ユリエナはとっさに走り出した。
「――あっ!」
数歩も行かないうちに、繋がれた鎖が突っ張った。勢いもそのままに足を掬われ、派手に横転する。両手が縛られているせいで顔面から倒れ込んだ。
「……っ!」
額の左側が紅く滲む。唇を強く噛んで痛みに堪え、部屋の出口を見上げた。
あと二十歩とない距離だ。足の鎖を引いて繋がれている鉄球を動かそうとしてみるが、手の皮が擦り剥けるまで力を込めてもやはり非力なユリエナではびくともしない。鉄球を引き摺ることがかなわないならこの鎖を断つ他ないのだが、部屋には刃物どころか家具の一つも見当たらない。
――どうすればいいの……?
焦燥感が身体をはしった。タイムリミットは刻々と迫っている。自力で脱出することがかなわないなら助けを期待して待つしかないのか。しかし助けが来る保証などどこにもないのに、何もせず待つことは許されない。刻限を過ぎることは百年の闇の到来を意味し、グリームランドの存続をも揺るがす事態に繋がるのだから。
心臓が高鳴る。呼吸がままならなくなり、頭が真っ白になりそうだ。
「――――?」
不意に、何かがぶつかり合ったような甲高い音が耳に飛び込んできた。
音量も間隔もまちまちに幾度となく響いている。懸命に耳を澄ましてみると、硬い物同士が擦れ合うような音も聞こえてきた。
――誰かが戦ってる……?
それはそう、まさに剣と剣が打ち合った時の、緊迫した金属音だった。
「――――家の復興が狙いか?」
ユリエナは目を見開く。所々しか聞き取れないが、その声は先刻ガリルフと名乗った男のそれだった。それならもう一人は、グリームランドの者なのか。〝太陽の神子〟を救出に来たフォルセス国軍兵か、あるいはお父様が直接遣わせた騎士か。
「――勝手に決めつけんな」
――――、え。
「名誉とか功績とか、そういうもんのためじゃない」
見開いた瞳が熱くなっていく。早合点だと、頭が囁いていたけれど……。
「俺がユリエナを助けたいと思うのは、理屈じゃないんだ」
聞き間違えるはずがなかった。――他でもない、彼の声を。
視界がぐっと歪み、温かい雫が頬を伝う。
――どうして……。
信じられなかった。もう二度と聞けないと思っていた彼の声が、もう二度と見られないと思っていた彼の姿が、この壁の向こうにあるなんて。
――来てくれたんだ……。
そして彼は言葉を続けた。
「俺は、――ユリエナが好きだから」




