56.本物の天才
コーエンスランド軍に来ないかと誘われた。来れば重宝するぞという言葉を信じてフォルセスを裏切ったわけだが、そのおかげで一生分の恐怖を味わう羽目になった彼は、我に返ってまず左胸に手を当てた。胸板の奥で規則的に鼓動を打っているそれを確認して、間の抜けた吐息を漏らす。
「い、生きてる……」
「手加減したに決まってるでしょ」
その女声は、彼の位置する場所より随分と下方から届いた。
「それとも、潔く殺っといてほしかった?」
「いや、いやいやいやっ! このご慈悲、全身全霊で感謝しますです、はい!」
そう。冗談半分に軽い脅しで著名人の名前を借りたらご本人でしたというオチだったにも関わらず、命を取らないでもらえただけでも有り難いことなのだ。――それが例え、柱に貼り付けにされていようとも。
「あんだけ泣き喚いて命乞いされたら、誰だって寸止めするわよ。これに懲りたらもう反逆なんて考えないことね」
「二度とするかっての」
魔法で強力接着されているため、一人ではどうすることも出来ない。けれどこれ以上死を隣り合わせに、魔法という名の嵐の中を踊らなくて済むと思えば安いものだ。
「それじゃあね。しばらくそこで反省してなさい」
彼女はここに長居するつもりはないとばかりに、早々と背を向ける。元より敵が現れたからここに留まっただけの話であって、その敵を無力化した今、上の階へ行こうとするのは当然と言えた。
「おい、リハイド」
「――リンファよ。みんなそう呼ぶわ」
てっきり無視されるかと思ったが、予想に反して彼女は振り返った。
「リハイドがリンファ、ね。どうりでリハイドの顔が知れてないわけだ」
リハイドと聞いて一体どこの誰が『女』と思うだろう。ましてやリハイドという名前には〝最年少最高位魔術士〟と〝最強の魔術士〟の二つ名が付いているのだ。実際に対面して――怖い目にもあって――ようやく確信を持てたというのに、世間の噂を又聞きした程度ではとても信じられそうにない。
それに、彼女の言う『みんな』が本当に言葉通りならば〝最強の魔術士〟リハイドと接触した者は皆、彼女をリンファと言い改めていることになる。つまり、そこから先の情報は全てリンファのものに変換され、リハイドとしての情報はそこで潰える。ということならば、リハイドの名こそグリームランド全土に知れ渡っているものの、その詳細や素性が未だ謎の中なのは納得がいく。
「あのね。あだ名ってのは略称じゃないわ。愛称よ」
そう言ってから「そういえば一人例外が……」とリンファ。一方、反逆魔術士はいい加減に相槌を打った後、腹の底から溜息をついた。
「あーあ。世の中にはいるもんだよな、天才って」
コーエンスランドに寝返ろうとした理由も、実はそこにあった。凡人がどれだけ努力を重ねようと、天才の前では悪足掻きに過ぎない。それが悔しくて、どこでも構わないから持て囃されてみたかったのだ。
あまつさえ天才という人間は、凡人が辿り着けない遥か高みにまで昇り詰めてしまう。最年少で最高位を授かったリハイドがそのいい例だ。
「そうね」
「いやお前のことだよ」
「あたしは違うわよ」
彼女は依然とした態度で構えている。謙遜の意味で言ったわけではないのだろう。あくまで事実を事実として端的に述べている、という素振りだ。
反逆魔術士の沈黙に、リンファは話が通じなかったことを察して言葉を続けた。
「あら、知らないの? 本物の天才はね、努力を始める前から天才なのよ」




