3.太陽の終わり
「注文は以上でお揃いですか」
ふんわりと丸く、なんとも食欲を誘う出来立てのオムレットを客の前に運ぶと、待ちくたびれていた子供客は嬉しそうな声を上げた。もう彼の言葉など耳に入っていないようで、代わりに隣の母親が返事をする。
「はい。ありがとう」
「んじゃ、ごゆっくり」
子供が元気に「いただきまーす」と言いフォークを手に取った。向かいにはその子の兄と思われる少年と父親が座っている。どうやら家族連れで昼食に来てくれたらしい。団欒の邪魔にならないようテーブルの端にそっと伝票を伏せ、彼はカウンターへと戻った。
「相変わらず混んでるな」
つい先日あのような騒動が起こったにも関わらず客足が遠のくこともなく、実家の料亭は平常通りの営業である。
「こら、ジンレイ!」
厨房から苛立った声が飛んできた。
「あんたがごゆっくりしてる暇はないのよ。手前の二人席入ったみたいだからオーダー取りに行って」
いつも通りだからこそ、こうして昼時に満席となって賑わっていた。客席が五十とないため彼と姉の二人だけで間に合っているが、ピーク時の忙しさは本当に目が回りそうだ。
何にせよ、一介の料亭にとってはありがたいことである。
「へーい」
厨房を担当する姉の催促を受けて、彼はそちらへ向かう。後ろポケットから伝票板を抜いて、接客にあたった。
「いらっしゃい。注文はお決まりで?」
「あ、はい。えっと」
二十歳を過ぎたくらいの女性客が二人。会話を交わしたことはないが、既に何度か料亭に足を運んでくれている。厨房にいるのが同年代の同性ともなれば、嗜好も似通うものがあるのだろう。
二人は日替わり定食とパスタを注文し、彼が確認のために注文を読み上げる。
その時。
客席の奥の方から盛大な音が響いた。
がやがやと賑わっていた店内が一瞬にして静まり返る。
ちょうどそっちはついさっき彼が料理を運んでいった方。さらに言うと子供連れの家族客がいる方である。
「……三枚はイッた音がする」
彼は自らの目で確かめるまでもないと、背中を向けたままがっくり肩を落とした。
小一時間後。
客が引き始めたのを見計らい、彼は料理の匂いが充満する店内を抜けて、一段落ついている厨房へと下がる。前掛けを椅子に放り、裏手にある小口の取っ手に手を掛けた。
「じゃあちょっと行って来る」
「はいはい。お願いね。――っと、待った! ジンレイ」
「……なに?」
低い声で訊き返す。
これまでの経験によれば、二の句は大概面倒事だ。少なくとも引き留められた理由が彼に有益であった試しはない。
「ついでに定食の食材切れそうだから一通り仕入れてきて」
案の定。というか想像よりハードだった。
「俺一人で!? 腕二本しかないんですけど」
「しょうがないでしょ。この前はあんな騒ぎで買い出しどころじゃなかったんだから。まあ他にも色々切れそうだけど、定食だけは完売にできないじゃない」
「食材買うとなると、どう急いだって三十分はかかるぞ。店番どうすんだよ」
「それは母さんに頼むわ。それより力仕事はあんたの役目なんだから、お願いね」
調理台の上に積まれた器やら包丁やらを一度片付けながら、三十種類を優に越える食材を「ついで」と称して追加注文する姉。本来の目的より大変な「ついで」って。
「はぁ。りょーかい」
しかしまあ、食材なくして料亭は成り立たない。家計を思うと断る気にもなれず、せめて主菜と汁物の材料だけは確保してくると伝えて、彼は小口から外へ出た。
彼の名前はジンレイ。本名はジンレイク・カヴァリウェル。
中肉中背。茶髪黒眼。特にこれといって特徴がないのが特徴ともいうべき、実に月並みな容姿の男子。良くも悪くも人目に引く要素が何もない。元々人間には印象に残りやすいタイプとそうでないタイプの二種類がいるが、彼は典型的な後者である。あまつさえ本名も覚え間違われることが多い。友人をはじめ、姉や母でさえも彼を『ジンレイ』と略して呼ぶので、自分から名乗らない限り周囲にはあだ名で認識されてしまうのだ。とは言え、今更訂正して回るにはあまりに遅く、彼ももうそれでいいと諦めていた。
父は幼い頃に亡くなり、長いこと母と姉との三人暮らしをしている。家では小さな料亭を営み、一昨年母から姉に店が引き継がれた。仕切るのが姉になってからというものの、ジンレイは一家で唯一の男手ということもあってあれこれ雑用を押し付けられる日々を送っていた。
ふと溜息が漏れる。
とは言っても、原因と呼べるような悩みの種はこれといってない。
裕福ではないが生計が立つ程度には収入もあるし、実家の手伝いを姉から強制されてはいるが苦ではないし、適度に身体を動かしていた方が気分もいい。
この生活に不満があるわけじゃない。
でも引っかかるものがないと断言するには、少し躊躇いがあって。
「……はあ」
時刻は正午過ぎ。ちょうど常連客が殺到する時間帯を越え、入って来る客よりも出ていく客の方が多くなる。が、あと一時間もすると第二ラッシュが来るのでそれまでには店に戻らないといけない。
最短道順を考えている彼の頬に、砂の混じった乾風が触れる。店の喧騒から一変して路地に漂う閑散とした空気は、知らず知らずのうちに緊張していた身体をそっとほぐしてくれた。
この街の外に広がる、果てしない荒野の砂塵が混じった風。呼吸器官の弱い子供はこの風を吸うと喘息になるというが、彼はこの埃っぽい風が割と好きだ。何せ生まれてからずっと付き合ってきた風の匂いなのだ。心地良く思うことこそあれ不快に思うことなどない。
それと、生まれ育ったこの街もまた同じ。
日が昇ると共に動き出し、日が沈むと共に寝静まる。そんな、自然界と共生する街で十六年を過ごしてきた。そしてこれからも、この変わらぬ日常が続いていく。ジンレイは何の疑いもなくそう信じていた。
しかし。
頭上を仰ぎ、あるモノを探す。
それは建物に隔てられることなく真っ直ぐ視界に飛び込んできた。本来ならそれを捉えた者は反射的に目を細め、手でひさしを作る。そうせざるを得ないほどに、それは自らの存在を強く主張するのだ。
だが今そうする者はいない。……する必要がなくなってしまった。
「なんか、信じられないよな」
雲一つない空から降り注ぐ日射しは、曇天のそれにも似て薄暗い。
――世界を照らす太陽の光は今、弱まりつつあった。
それは遥か昔、この惑星に生命の根を下ろした創世期のこと。当時は大地や空気、この世界に存在する全てのものが枯渇していたという。過酷な環境にさらされ、人類は絶滅の危機に追いやられた。誰もが終焉を悟った――その時、人類の前に悪魔の神が現れた。
悪魔の神は言った。〝魔法〟をくれてやろうか、と。
生き延びるために選択の余地がなかった人類は、その悪魔の神と契約を交わした。そうして万物の法則に逆らい、惑星の環境にも耐え得る、まさに超人的な力を手に入れた。
だが話はそれで終わらない。
そこで悪魔の神は魔法の代償を要求した。そして、これはどうだあれはどうだと掛け合う人類から有無も言わさず奪っていったもの、それが太陽だった。
忌み嫌ってすらいたはずの太陽を失ってはじめて、人類はその光の尊さに気付かされた。地に伏して痛哭し、悪魔の力を得たその手を涙で濡らした。どれほど強い力を得ようと光を失えば生物が正常に生きていくことは難しい。
その後、悲嘆に暮れていた人類を憐れみ、悪魔の神と対なる光の女神が降臨した。悪魔の力によって汚れてしまった人類を見捨てず、篤い慈悲を以ってして太陽を生み出す術を授けてくれた。光の女神の力添えによって人類が創生した太陽が天穹に昇り、こうして数百年の時を経て、世界は再び廻るようになった。
けれども所詮は人の手によって作られた模造品。人工の太陽は長くは持たない。たった百年でその輝きを失ってしまう。
長い歴史の中で、太陽は何度も消滅と創生を繰り返し、大地を照らしてきた。
そしてこの頭上にある太陽もまたその役目を終えて消えようとしている。
グリームランド歴三○一○年。
百年に一度の太陽の終わりが迫っていた。