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朝日の街、向日葵の花

作者: おかやす

 午前五時。

 たった六時間で、街はすっかりよそ行きの姿になっていた。いや違うか。変わったのは街ではなく俺なのだろう。


 眠りから覚めつつある街を、ゆるい足取りで一人歩いていく。

 誰もいない、朝の街が大好きだ。なぜ好きかと言われてもわからない。物心ついた頃には祖父といっしょに散歩するようになっていた。夜更かしするよりも朝早く起きるほうが好き。よほどの悪天候でない限り朝の散歩は欠かさない。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、三十路を迎える今になってもその習慣は続いていた。


 そんな俺を、あいつは「もの好きなやつ」と笑っていた。


 小学校で出会った、いわゆる幼馴染。底抜けに明るい笑顔の、元気の塊みたいなやつだった。どうして仲良くなったのかはよく覚えていないが、妙に気が合い、いつも一緒に遊んでいた。そんなに楽しいのなら私も朝散歩する、と言うので一緒に散歩をする約束をしたが、その約束は十回に一回しか守られなかった。


 その十回に一回が、とても楽しかったのを覚えている。


 朝のひんやりとした空気、朝日を浴びてキラキラ光る海、誰もいない砂浜で走り回り、静かな朝の街に俺とあいつの笑い声が響く。そんな思い出は、あいつの底抜けに明るい笑顔とセットだった。


 初めての友達で、親友で、そしてきっと――初恋の人。


 だけどもう、あいつの笑顔はどこにもない。

 俺は受験に失敗し、あいつは遠い都会の大学に進んだ。高校を卒業してからの思い出にあいつの笑顔はない。友達以上恋人未満だった俺たちの仲は、冗談半分のたった一度のキスで止まってしまった。

 もしもあの冬、あいつにもう一度会えていたら、またキスをしたのだろうか。俺とあいつは恋人になって、俺は今とは違う未来――あいつと共にある未来を選んでいたのだろうか。

 何度も考えた。けれど、そうはならなかった気がする。恋人になって甘い言葉を交わし、肌を重ねて愛し合う、なんてのはどうにもピンとこない。あの冬もう一度会えていたとしても、きっとキスはしなかったし恋人にもならなかっただろう。バカ話をして、笑い合って、時々ちょっとお互いを意識して――そんな、友達以上恋人未満な関係。それが俺とあいつには一番しっくりくる。そうやって付かず離れず、ダラダラ付き合っているうちに意識も薄れ、お互いに本当に大切な人と出会って恋をしただろう。たぶんそれが俺とあいつが選ぶ未来だったと思う。


「まったく……バカが」


 ため息とともに、前を向く。

 足元にあった石を一蹴り。こん、ここん、と転がる石。こうやって石を蹴りながら散歩したこともあったな、なんて思いながら大通りを歩いていく。


「おっと」


 赤信号だった。車は来ていないが真面目に立ち止まり、信号が変わるのを待った。そうしないと、あいつ怒るんだよな。妙なところで生真面目なやつだった。


   ◇   ◇   ◇


 信号が青になり、道路を渡り始める。ここから先は慣れた散歩コース。道路を渡ると右へ折れ、なかなかに急な坂道を登っていく。散歩を含めほとんど毎日登っていた坂道だ、この街で一番歩き慣れているはずなのに、なんだかいつもより険しく感じた。

 一気に登ろうとしたが、ちょっと無理そうだった。昨晩いつもより多めに飲んだせいだろうか。それともあいつが、坂の途中で立ち止まれと言っているのだろうか。


「あち」


 仕方ない。俺は坂の途中にある、小さな和菓子屋の前で立ち止まった。ふう、と息をついて汗を拭い、東の空を見る。太陽が姿を見せ始めていた。ほんの少し顔をのぞかせただけで一気に気温が上がったように感じた。七月中旬、しかも早朝でこの暑さとは。


「お盆の頃は……もっと暑いかな」


 和菓子屋の前には自動販売機とベンチが並んでいた。俺はベンチに腰を下ろすと、壁に背を預けて耳を澄ませた。

 ブーン、と自動販売機の低い機械音。

 それ以外は何も聞こえない。小さな和菓子屋は静かな眠りに包まれている。この和菓子屋が眠りから覚めることは二度とない。それを知っているというのに、俺は何を期待してしまったのだろう。


『当店は、六月末をもって閉店しました。

 長らくのご愛顧、有り難うございました』


 店の扉に貼られた真新しい告知。それを見て、ほんの少し寂しくなる。

 この街に住む人なら大抵は知っている和菓子の老舗。俺が生まれたときにはもうあって、街の景色の一部だった。中学生の時に全国放送のテレビ番組で紹介され、連日大行列となったこともある。売上が急に増え、有名デパートから提携話も来たりして、ちょっとした騒ぎになっていた。

 でも店長はまるで浮かれていなかった。提携話にも大きな街への移転にも耳を貸さず、堅実に淡々と、信念を持って地元に愛される店であり続けた。


「そういうの、かっこよくない?」


 あいつがドヤ顔で言っていたのを思い出す。まったくもって同感だったが、何度も自慢するのでちょっとムカついた。恥ずかしがらずに父親を自慢する、その素直さがちょっとうらやましかったのかもしれない。ほんとあいつは、お父さん大好きっ子だった。


「私は大きくなったら、お父さんのお店を継ぐからね!」


 将来の夢を聞かれると、あいつは決まってそう答えていた。百年続く和菓子の名店にしてみせる、と言うとき、あいつはあの底抜けに明るい笑顔を浮かべて胸を張った。


「うそつきめ」


 閉店を告げる張り紙を見ながら、つい悪態をついてしまう。でもあいつのせいだけじゃない。百年続くはずだった和菓子の名店が終わってしまったのは、俺のせいでもあるのだから。


「……いや、そうじゃなかったな」


 俺のせいなんてうぬぼれだ。いい加減切り替えろよと頭をかく。旅立ちの日にくよくよしてちゃだめだろう。

 気分転換と水分補給に、自動販売機で水を買った。ガタンゴトンと音を立ててペットボトルが転げ落ち、当たりもしないクジがピロピロと鳴る。人通りの多い時間は気にならなかったが、こんな早朝だとかなりうるさく感じた。

 よく冷えた水を一気に飲み干すと、気分が晴れ疲れも吹き飛んだような気がした。


「よし、行くか」


 俺は空のペットボトルをゴミ箱に放り込むと、和菓子屋を後にした。坂道は、いつもの険しさに戻っていた。


   ◇   ◇   ◇


 坂道を登った先にある階段。その階段でさらに上のお寺へ向かい、一礼して山門をくぐった。

 水を汲み、柄杓を手に我が家の墓へと向かった。雑草に埋もれた墓を見て少々反省する。前に来たのは年末か。バタバタしていたとはいえ半年も放置していたことになる。その気になれば毎日だって来れる場所なのだ、せめて月一回ぐらいは来るべきだった。


「申し訳ございません」


 俺は手を合わせて謝罪すると、井戸と墓を二度ほど往復してきれいに掃除した。すっかりきれいになった墓によしよしとうなずいた直後、線香も花も持ってきていないことに気づいた。


 まぬけ。


 あいつの声が聞こえた気がする。はいはい、どうせまぬけですよ、と心の中で言い返し、俺は先祖と家族が眠る墓に手を合わせ、当分来られなくなることをわびた。


「さて、と」


 我が家への墓参りを済ませ、俺はもう一度井戸へと向かう。バケツに半分ほど水を入れると、今度は本堂の反対側にある、あいつが眠る墓へと向かった。

 我が家の墓と違ってちゃんと掃除されていて、あいつが好きだった向日葵の花が供えられていた。店長、今も毎日お参りしているのだろうか。それともおかみさんか。己の不義理さを思い、またもや反省する。


「よう。向日葵、きれいに咲いてるな」


 物言わぬ墓石に声をかけた。もちろん返事はない。でもなんとなく「もっと顔を見せに来んかい」と文句を言われているような気がした。


「悪いな、なんか……来る気になれなくてよ」


 置かれていた湯呑の水を換え、手を合わせた。

 あいつに言いたいことはたくさんあるはずなのに、こうして墓前で手を合わせると、浮かんでくるのはたったひとつの文句だけ。


 まったく、バカが。


 あの冬、あいつは骨になって帰ってきた。十一月の終わりに「年末には帰省するよー」と電話があった。その翌週に「咳がしんどくて。つらい」というメッセージを受け取った。さらにその翌週に入院したと知らされ、その三日後、あっという間にこの世を去った。

 死に顔すら見られなかった。感染防止のためだった。頭ではわかる。理屈はわかる。だけど――どうにも釈然としなくて、何年もあいつの死を消化しきれなかった。他人の俺がそうなのだから、店長とおかみさんの心中は察するに余りある。


 バカが。

 バカが。

 バカが。


 あいつの写真を手に、何度もつぶやいた。涙がこぼれて止まらなかった。なんでお前なんだよ。お前じゃなくて、俺ならよかったんだよ。俺に家族はいない。俺なら悲しむ人はいなかったんだよ。泣き崩れる店長とおかみさんを見て、俺は心の底からそう思った。

 でもそれをあいつが知ったら、ふざけんな、て怒られただろう。あんたが死んだら私が悲しむでしょうが。泣いて泣いて、めっちゃ泣くに決まってるでしょうが――そんな感じでめちゃくちゃに怒られた後で、俺が言われるのだろう。

 このバカたれが、と。


「ま、文句はこれぐらいにしておくか」


 すっかり昇った太陽が、境内を明るく照らしていた。今日は文句を言いに来たわけじゃない。本題に入るとしよう。


「お前に報告があってな。俺な、おムコに行くんだぜ」


 もう知ってるよ、とあいつがため息をついた気がした。そりゃそうか、店長やおかみさんがとっくに伝えているよな。遅くなってすまない。


「結婚式は今度の土曜。もうちょい早く行けばよかったんだけど……なんか片付かなくてな」


 そんな言い訳を口にする。嘘ではないんだけどな。何もかもを処分するというのが、こんなにも骨が折れることだとは思わなかった。後を託せる人がいるというのがどれだけ幸せなことなのか、初めて知った。


「今日、ここを出ていくよ。十時には出発だ。向こうに着くのは五時過ぎだな」


 新幹線と特急を乗り継いで六時間以上。気軽に行き来できる距離じゃない。そんなところに縁ができるなんて、人生何が起きるかわからんものだ。


「ま、そういうことだから……当分来られないよ」


 ふわっ、と風が吹いた。

 優しく撫でるように、風が通り抜ける。あいつが「おめでとう」と言ってくれているのだろうか。それとも「がんばりなよ」だろうか。

 そのどちらであっても――俺は通り抜けた風に、ありがとう、とつぶやいた。


   ◇   ◇   ◇


「健二くん。おはよう」


 振り向くと、店長とおかみさん――あいつの両親がいた。


「店長、おかみさん……早いっすね」

「なに、物音で目が覚めてしもうてな」


 二人とも額に汗を浮かべ、息が少し上がっていた。


「最後に参ってくれたのか」

「はい。当分来られないんで」


 二人に場所を譲った。ありがとう、と会釈をした店長と、笑顔を浮かべたおかみさん。あいつの笑顔は母親譲りだった。


「昨日はどこに泊まったの?」


 手を合わせ終えると、おかみさんが俺に尋ねた。


「駅前のビジネスホテルに」

「窮屈じゃなかった?」

「いえ、けっこう快適でしたよ」


 そう、とおかみさんが少しだけ寂しそうに笑う。


「不動産屋に鍵を渡すぐらい、うちでしたのに」

「いいんすよ。俺……自分で全部やりたかったんで」


 生まれ育った家で最後の一夜を、とは思わなかった。俺の家族はもういない。一人で過ごすのは同じだから。むしろ、ちゃんと自分の手で処分することが一番の供養だと思った。


「墓だけは残っちゃいましたけどね」

「心配せんでええ。当分はわしらが見ておくからの」


 店長の言葉に、俺は無言でうなずいた。

 田舎町の小さな和菓子屋。その店長とおかみさん。受験に失敗し、家族を失い、何者にもなれずにいた俺に、和菓子職人の道を開いてくれた人。

 あいつが生きていたら、俺は本当にこの人たちの息子になっていたのだろうか。

 そう考えたこともあった。でも、それこそ妄想だ。俺とあいつは恋人にはならない。恋人にすらならないのだから、夫婦になることなんてありえない。

 それに、だ。

 和菓子職人は重労働。心身ともにガタが来たと言って、店長が店をたたむと決めたのが正月明けすぐ。俺に一切の相談はなかった。俺に継がせるという選択肢は、店長には端からなかったらしい。

 なんでだよ、と腹立たしく思ったが――店長が退路を断ってくれたから、俺は覚悟を決めることができたのだと思う。


「出発は十時よね?」

「はい」

「まったく、こんなギリギリまでおってから。あちらさんもやきもきしてるじゃろうに」

「いやぁ、どうすかね。大丈夫だと思いますけど」


 昨夜も電話があったが、怒っている様子はなかった。淡々と「片付け済んだ?」と聞かれ、今日の予定を確認しただけだ。


「バカモノ。お前に気を遣ってくれているだけじゃ」


 店長にあきれた声で怒られた。


「あちらに行ったら、柚子(ゆず)さんとご両親にしっかり謝りんさい」

「あ、はい。すんません」

「まったく。婿入するからと甘えちゃいけん。うちみたいな小さな店じゃないんじゃ、従業員の人生背負う立場になるんじゃぞ。もっとしっかりせんと……」

「あなた」


 ヒートアップし始めた店長を、おかみさんが優しい口調で呼んだ。ああ、いや、うむ、そうじゃな――店長は口ごもり、こほんと咳払いをして声音(こわね)を改めた。


「ま、しっかりの」

「はい」


 しっかりせい、そんなことでどうする。そう言われ続けたこの半年。出て行くと決めた俺への意趣返しかと、初めは勘違いしたけれど。

 店長は、あいつが受け継ぐはずだったものを赤の他人である俺に渡してくれた。それが新たな縁を結び、俺は大切な人に出会うことができた。その出会いに俺は躊躇したが――店長とおかみさんは、もういなくなった家族の代わりに俺の背中を押してくれた。

 だから今日、俺は胸を張ってこの街を出て行ける。感謝しかない。


「それとのぅ、健二くん」


 店長がまた咳払いをした。


「あちらへの手土産代わりに水ようかんを作ったけぇ。持って行ってくれんか」


 水ようかん。俺と柚子を引き合わせてくれた、店長自慢の一品だ。


「ぜひ。柚子が喜びます」

「ほな……ついでに、朝飯うちで食っていかんか」


 目を合わせず、ぶっきらぼうに言う店長。おかみさんは無言のまま、優しくうなずいた。


「それじゃ、遠慮なく」


 店長とおかみさんが踵を返した。俺もバケツを手に取り、二人に続いて歩き出すと――ひゅうっ、と風が頬を撫でた。

 呼ばれたような気がして、立ち止まって振り返った。墓に供えられた向日葵が朝日に包まれ光っていた。その光の中に、何か言いたそうな顔で頬を膨らませているあいつがいた。

 おいおい――お盆には少し早くないか?


「なんだよ」


 あいつは何も言わない。無言のままじっと俺を見つめている。そのふくれっ面を見ていたら、あいつが言いたいことがなんとなくわかった。

 気軽には帰ってこられない、遠い場所へ行く俺。そんな俺とこの街をつなぐものは、もうほとんど残っていない。ここを故郷と呼ぶためのものは自分の手で処分してしまった。それが俺なりの覚悟。

 だけど。


「……そんな顔すんな。この街のこと、捨てたわけじゃねえよ」


 そう、捨てたりしない。忘れもしない。ここで産まれて生きてきたから、俺は未来を手に入れた。絶対に忘れたりするものか。


「次は俺の家族を連れて来る。楽しみにしてろよ」


 俺の言葉に、あいつが笑った。

 俺は手を振り、今度こそ歩き出す。俺はこの街を出て未来へ進む。家族やお前がくれた思い出と、店長とおかみさんから受け継いだものを糧にして、新しい場所で大切な人と人生を歩んでいく。


 大丈夫。

 俺はちゃんと幸せになってみせるから。大切な人と一緒に、いつも笑顔でいてみせるから。


 だから、のんびり天国で見守っていてくれ。

 その、底抜けに明るい笑顔を浮かべて、な。

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[一言] うおおおおおおん!!!!(ブワッ)
[良い点] 加筆分がお話の流れをさらになめらかにしていると感じました あらためて読むと、じとっとした暑さや、冷たい水のさわやかさを感じ取れるような、目に見える描写の作品でした また、亡くなった人を中心…
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