7 冷ややかに笑われる◆
翌週。
俺はラーシュ先輩に誘われるがまま、ファレル公爵邸を訪れていた。
応接室に通され、高価そうな調度品を目にしてさすがは公爵邸、なんて感心していると、不意にドアをノックする音が聞こえる。
「よく来たね、ブランド」
入ってきたのはにこやかなラーシュ先輩と、鮮やかな金髪に瑞々しい若葉色の瞳をした美しい女性だった。
「はじめまして。ラーシュの義姉のレジーナ・ファレルです」
女性はそう言って、たおやかな笑みを浮かべる。
先日ラーシュ先輩から聞かされた、七年前の同時多発的婚約破棄騒動。一人の男爵令嬢に翻弄され、婚約者に破談を申し入れたたくさんの令息たちのうちの一人がラーシュ先輩の兄だったと知ったときには心底驚いた。だってファレル公爵家といえば、国内でもトップクラスに君臨する有力貴族。その嫡男が、あんな騒動の渦中にいたなんて俄かには信じられない。
その騒動の当事者でもあるラーシュ先輩の兄夫婦から、直接話を聞けることになった俺はこうしてのこのこと公爵邸にやってきたのだ。ルディスとのことでいまだ何の打開策も見つけられず、藁をもすがる思いだった。
公爵家の義姉弟がそれぞれソファに座ると、侍女がすぐさまお茶の準備をし始める。その手際のよさに、やっぱり公爵家は侍女のレベルも高いんだななんてぼんやり考える。
「ブランド」
向かい側に座るラーシュ先輩は、どういうわけかちょっと緊張したような硬い表情をしていた。
「義姉上には、お前の事情は話してある」
「あ、はい」
「兄上とも話したんだが、そういうことなら兄上の話を聞くより義姉上から話を聞くほうが参考になるんじゃないかと言われてさ」
ラーシュ先輩の義姉でもあるレジーナ様は、俺とラーシュ先輩に目を向けながら黙って侍女の用意した紅茶を飲んでいる。なんとなく、値踏みされているようにも感じる視線。なんか怖い。
「ということで義姉上。早速ですが教えてもらえますか?」
レジーナ様は「いいわよ」と言いながら、優雅な仕草でティーカップをソーサーに置いた。
「騒動の顛末については、大体知っているのよね?」
「はい」
「じゃあ、なぜ私たちの婚約が破談にならなかったのかを話せばいいのね?」
「はい。義姉上が、兄上を許した理由を教えてもらえれば」
「許してないわよ」
冷たい声が飛ぶ。あらゆるものを凍らせてその生気を奪うブリザードのごとき声。思わず悲鳴をあげそうになって、冷ややかに笑われる。
「でもいいわよ。いい機会だから、話してあげる」
氷の女王はそう言って、ふっと穏やかな笑みをこぼす。
「そもそも、私とスティーグとの婚約は政略的な意味合いの強いものだったのよ」
「そうだったのですか?」
「そりゃそうよ。このファレル公爵家と私の実家のマゴール公爵家。貴族間のパワーバランスや利害関係を考えたら、もうお互いしかいなかったのよね」
「婚約が決まったのはいつだったのですか?」
「中等部の二年生のときね。はじめはそれなりにいい関係だったと思うわよ。お互いに、ほかには相手がいないわけだし、私は最初からスティーグが嫌いじゃなかったし」
そこでレジーナ様は、少し自嘲ぎみに微笑む。
「でも高等部の二年生になったとき、彼女が編入してきたの」
「あの男爵令嬢ですよね?」
「そう。彼女――ロレッタはね、確かに貴族令嬢としての嗜みや教養には欠けていたけれど、無邪気であどけなくてとんでもなく可愛らしかったのよ。たくさんの令息たちが夢中になるのも、まあ仕方がなかったのかもしれないわね」
「でもその令嬢は、可愛らしさを武器にしてたくさんの令息たちを手玉に取っていたんでしょう?」
「まあ、そうね。……ちょっと、露骨なことを言ってもいいかしら?」
レジーナ様はひと言も発することなく話を聞いていた俺に対して、遠慮がちに尋ねる。
「あ、はい。どうぞ」
「ロレッタは、実は何人もの令息と男女の関係になっていたの」
「え」
「ほんとに?」
「あとでわかったことだけどね。だから彼女が武器にしていたのは、単純に可愛らしさだけじゃなかったのよ」
「うわー……」
「まさか何人もの令息とそんなことになってるなんて誰も思わないから、令息たちのほうも自分こそがロレッタに選ばれるんだと信じて疑わなかったみたいだけど」
「体の関係があったのなら、そう思っても不思議じゃないね……」
「そうね。しかも体の関係があった令息たちは、自分こそがロレッタと結ばれるんだという自信があったみたいでね。もともとの婚約者たちに対して派手に婚約破棄を突きつけた人が多かったのよ」
「派手に?」
「公衆の面前で一方的に婚約破棄を言い渡すとか、ロレッタとの仲睦まじい様子を見せつけて相手を傷つけ、破談に追い込むとか」
「愚かだね」
「そうね」
公爵家の義姉弟は、頷き合いながら静かに紅茶をひと口飲む。
「でもロレッタは突然修道院に入れられてしまったでしょう? 戻ってこないとわかって、派手に婚約破棄を突きつけた令息たちは慌てて元の婚約者に復縁を頼み込んだのよ。まあ、ほぼ全員が許してもらえなかったのだけれど」
「そりゃそうでしょ。浮気して、体の関係もあって、そのうえ卑劣なやり方で婚約破棄してきたやつなんか誰も許す気にはなれないでしょ」
「まあ、そうよね」
「じゃあ、兄上はそうじゃなかったってこと……?」
ラーシュ先輩が、どこか期待の滲む表情を見せる。一方のレジーナ様の表情は、なぜか一ミリも緩まなかった。
「確かにスティーグは、ロレッタとそういう関係にはならなかったみたいね」
「そうなんだ……」
「婚約のことも、破棄ではなくて解消にしたいってわざわざ一人でうちに言いに来て」
「じゃあ……」
「でもね。あの頃スティーグはロレッタに夢中になって、ロレッタこそが自分にとっての唯一だと言って憚らなかったのよ」
「え」
「それに、数えきれないほどの贈り物もしていたのよね。どれだけ貢いだのかわからないくらい。ロレッタに使った金額だけを比べたら、多分スティーグが断トツで一位なんじゃないかしら」
おっと。ラーシュ先輩がかわいそうなくらい情けない顔になっている。無理もない。
でもそんなラーシュ先輩にはお構いなしで、レジーナ様の手厳しい暴露はなおも続く。
「婚約を解消したいと申し入れに来たときだって、ロレッタがどれだけ素晴らしい女性なのかを力説していたのよ。目の前に婚約者がいるというのにね」
「義姉上……」
「私には感じたことのない激しい恋情を抱いたとか、ロレッタさえいてくれればあとは何もいらないとか」
「兄上……」
「愛のない政略的な婚約よりも、ロレッタとの純粋な愛を選びたいとか」
ラーシュ先輩ががっくりと項垂れる。落胆が半端ない。やらかした兄の残念な話をこれでもかと聞かされて、簡単には浮上できないほど撃沈している。無理もない。
「ではなぜ、レジーナ様はスティーグ様との婚約を結び直したのですか?」
素朴な疑問が口をついて出てしまう。レジーナ様は思いのほか、感情の見えない目をしていた。
「そもそも、婚約は解消できなかったのよ」
「え?」
「言ったでしょう? 私たちの婚約は政略的な意味合いが強かったって。そう簡単に破談にできるような婚約じゃなかったの。両家の思惑とか貴族社会と国家の安寧とか、そういうどうにもならない厄介な理由が絡んでいるのだから」
「あー……」
「それでもスティーグは婚約を解消したいと主張して、両家の間ですったもんだ揉めている隙にロレッタが修道院に行ってしまったのよ。だから婚約はそのまま解消されることなく、継続されたの」
「え、でも、よかったのですか? レジーナ様はそれで……」
言ってしまってから、俺は自分の言葉がどれだけ無遠慮で無神経だったかに気づく。
なぜならレジーナ様の美しい顔が、苦しげに歪んでいたからだった。