6 純粋な疑問と好奇心とを向けられる◆
「はあ……」
あれから二週間がたった。
俺はまだ、ルディスと一言も話せていなかった。それどころかルディスを探しても一向に捕まえられず、もはやその姿を目にすることすら難しくなっていた。
いまや俺の敵は、カティア嬢やエリアスとヴェイセルの親友コンビにとどまらない。どういうわけか学園全体が「ルディス嬢を守れ」とばかりに俺への反感を露わにし、対抗意識を燃やしてルディスとの接触を阻んでいる。俺一人対学園の全生徒。そんなの、勝てるわけがない。なんで俺、ここまで目の敵にされてんの? 学園はすでに完全アウェー、誰一人味方のいない四面楚歌状態と化している。
「はあ……」
「どうしたんだ? ブランド」
声をかけられて見上げると、同じ騎士科で一つ年上の先輩であるラーシュ・ファレル公爵令息が片手にサンドイッチ、片手に本を携えて佇んでいた。
「あ……」
「なんだ? ぼんやりして。さっきの剣術の授業のときも危うく怪我しそうになってただろ」
「……あー、はい」
剣術の授業での不甲斐ない場面を指摘され、恥ずかしさに顔を覆いたくなる。このところのあれやこれやで注意散漫になっていた俺は、模擬試合で相手の木剣を完全にはよけきれずにバランスを崩して倒れ込んだのだ。幸い大事には至らなかったが、先生にもしっかりしろと怒鳴られてしまった。
ラーシュ先輩は心配そうな顔で、俺の様子を窺いながら近づいてくる。ここは裏庭の噴水跡。さびれた裏庭には誰も寄りつかないから、一人として味方のいない最近の俺が隠れて過ごす絶好のスポットになっていた。
「ここ、人が来なくていいよな」
「……そうですね」
「俺も一人になりたいときは、時々ここに来るんだよ」
言いながら、ラーシュ先輩はごくごく自然に俺の隣に座る。
「で? どうしたんだ?」
サンドイッチを包みから取り出しながら穏やかに微笑む先輩に、俺は目を伏せて言い淀む。
「いや、あの……」
「お前の婚約者殿のことか?」
「あ」
見抜かれている。そりゃそうか。俺がルディスを捕まえようと思いつく限りの手段を講じながらも失敗続きで万策尽きていることなど、今や学園中の誰もが知っているのだから。
「さっき、ランチルームにいたけどな」
「え」
「友だちとか四人くらいで座っていたかな。あ、ヴェイセルもいたな」
「あー……」
「お前、中等部のときはあんなに婚約者殿を避けまくっていたじゃないか。なんでいきなり追いかけ回すようになったんだ?」
不思議そうな顔で、先輩がサンドイッチを頬張る。その目に侮蔑や非難の色は見られず、ただただ純粋な疑問と好奇心とを向けられている。
俺は意を決して、先輩にすべてを話してみることにした。中等部でルディスを蔑ろにした理由も、家族に責められ糾弾され尽くしたことも、ルディスとの婚約が継続できなければ弟に跡継ぎの座を奪われることも。包み隠さず話し終えると、先輩は食べ終わったサンドイッチの包みをきれいに折りたたみながら「なるほどな……」とつぶやく。
「要するに、お前は跡継ぎの座を弟に奪われたくないから、これまでのことをルディス嬢に許してもらおうと躍起になってるんだな」
「は? いや、そういうわけじゃ……」
「でもお前の話を要約すれば、そういうことになると思うが」
責めるふうではない。淡々と、俺の言葉を客観的にまとめた結果としての見解を口にするラーシュ先輩。
「いや、俺だって中等部の頃はだいぶ嫌な思いをしたし、ルディスを避ける以外に方法が……」
「本当にそうか?」
「え?」
「本当に避ける以外の方法がなかったと思うか?」
痛いところをつかれ、否応なしにあの頃の状況が思い出される。でも避けたり遠ざけたりする以外の方法など、やっぱり思い浮かばない。
黙って考え込んだまま何も答えない俺を見かねて、先輩が口を開く。
「まあ、今となっては、そんなお前の事情なんか誰も考慮してはくれないだろうが」
「え……?」
「お前の事情がどうあろうと、ルディス嬢を蔑ろにしてきた事実はなくならないからな。というか、まわりにしてみればそれこそが真実だし、今になって手のひらを返したように追いかけ回してるのを見たら反感を買うのは当然というか」
「そんな……」
「しかもその理由が弟に跡継ぎの座を奪われたくないからなんてことが知られたら、お前の評判はそれこそ地に落ちるな」
グサグサと言葉の矢が突き刺さる。問答無用で言葉の刃にえぐられる。もはや血だらけ、満身創痍である。気を許して何から何まで言うんじゃなかった、と後悔しそうになった俺に、先輩は思いもよらない言葉を発する。
「お前、七年前の騒動って知ってるか?」
「七年前の騒動?」
思い当たることがない俺は、首を傾げる。
「まあ、そりゃそうか。知らないよな」
「何ですか? 七年前の騒動って」
いつもはわりと飄々とした印象のラーシュ先輩が、急に神妙な顔つきになる。そしてひとしきり逡巡したあと慎重に言葉を選びながら、かつて学園を震撼させたその『騒動』について語り始める。
「七年前、この学園に一人の男爵令嬢が編入してきたそうなんだ。彼女は父親である男爵と平民の母親との間に生まれた婚外子だったんだが、ほとんど平民同然の暮らしをしていたらしくてね。でも母親が急死したことで、父親である男爵に引き取られることになったんだ」
「……はあ」
「ずっと平民同然の暮らしをしていたから、貴族に相応しいマナーや振る舞いといったものはまったく身についていなくてね。でもそういう、遠慮を知らないあけすけなところが当時の令息たちには新鮮に映ったらしいんだよ。そのうち何人もの令息が、彼女に心を奪われて夢中になっていったんだ」
一体何の話をしているのだろうと思いつつも、それをラーシュ先輩に聞ける雰囲気ではない。俺は仕方なく、無言で先輩の話に耳を傾ける。
「その令嬢の虜になった令息たちは、だんだんうつつを抜かして自分の婚約者を蔑ろにするようになったらしいんだよね。そうしてとうとう、何人もの令息たちが自分の婚約者に婚約破棄や婚約解消を突きつける事態に発展したんだよ」
「え」
俺は先輩の顔を見返した。先輩は真面目な顔をしたまま頷き、なぜか悲壮感の漂う目をして話を続ける。
「令息の中には高位貴族の者も多かったみたいでね。爵位が上の令息に婚約破棄だの解消だのと言われたら、婚約者である令嬢だってたまったもんじゃないだろう?」
「いや、そもそも、その男爵令嬢というのは一人なんですよね? 一人の令嬢が複数の令息と結婚することなんかできないじゃないですか。選ばれるのは一人だけなのに、なんで令息たちは……」
「だよな。でもその当時の令息たちは、なぜか自分がその選ばれるべき一人なんだと信じて疑わなかったらしいんだよな。それで次から次へと婚約が反故になる事態が生じて、学園内でも大問題に発展したそうだ」
そんな異常事態、ほんとに起こり得るのか? と思う。でも先輩の深刻そうな顔を見ると、あながち嘘とも思えない。
「結局、その男爵令嬢は誰とも結ばれることはなかったらしいんだけど」
「え、そうなんですか?」
「ああ。数多の令息たちを騙したりそそのかしたり、翻弄し続けたことを父親である男爵が重く受け止めたらしくてね。卒業を前に辺境の地の修道院に入れられたそうだよ」
「そうなんですか……」
「でも、問題はここからなんだよな」
「は?」
先輩は何やら思案顔になって、ゆっくりと視線を落とす。
「男爵令嬢がいなくなったことで、婚約の破棄や解消を叩きつけた令息たちは結局元の婚約者に許しを請うしかなくなったんだ。そんな騒動を起こしておいて新たな婚約を結ぼうとしたって、まわりから非難されてひんしゅくを買うだけだからな」
「それはそうでしょうけど……。でも元の婚約者だって、そんな相手は願い下げなんじゃないですか?」
「そうなんだ。だから許してもらえなくて、破談になったまま卒業した令息も多い。しかもそういう令息は騒動の当事者ってことで、廃嫡されたり勘当されたり自家の領地に半ば幽閉のような形で留め置かれたり、まともな人生を歩めていない」
「うわー……」
「逆に、元の婚約者に許してもらってやり直せた令息たちは、その後もまあまあ順風満帆な生活を送ってるんだよな」
「え、許してもらえた人たちもいるんですか?」
「ああ。だからさ、その差は何なんだろうって、ずっと思ってて」
そこで先輩は視線を俺に向ける。探るように、俺を見つめる。
「お前、知りたくないか? 許してもらえた令息と許してもらえなかった令息の、その差は何なのか」
「それは、まあ……」
「それがわかれば、お前だってルディス嬢に許してもらうにはどうしたらいいのか、ヒントが見つかるんじゃないか?」
「あ」
俺は咄嗟に、先輩の顔を見返した。確かにそうだ。それがわかれば、俺のこの八方塞がりな状況を打破するきっかけが見つかるんじゃないか?
「……知りたいです、俺……」
絞り出すようにそう言うと、先輩は「だよな」と微笑んだ。
「実はさ、その騒動の当事者の中に俺の兄夫婦もいるんだ」