24 悔しさとやりきれなさに支配される◆
セシリア嬢からエヴァンス伯爵家の内情とハルスティンとの関係について聞いた翌日。
ようやくルディへの嫌がらせを繰り返した犯人の尻尾を掴んだというのに、証拠の不十分さとセシリア嬢の立場を考えるとすぐにすべてを白日の下にさらすことは憚られた。どうにもできない悔しさとやりきれなさに支配され、どんよりと気持ちは沈んでいく。
「どうした? ブランド」
その声に顔を上げると、見知った精悍な顔つきの先輩が立っていた。
「ラーシュ先輩……」
「大変だったな、お前の婚約者殿」
「……ああ、そうですね」
学期最後の剣術の授業。
模擬戦と模擬戦の間の休憩時間に、ラーシュ先輩が俺を見つけてくれたらしい。恐らくルディのブレザーの件について聞き及び、声をかけてくれたのだろう。ああ、そうだった。この人はいつも、俺が気落ちして俯いているとき必ず気づいて声をかけてくれる。
「心配だよな、あんなことがあったんじゃ……」
「……違うんですよ」
俺は気遣わしげな顔をするラーシュ先輩を見返した。思った以上に投げやりになってしまった声に、先輩が不思議そうな顔をする。
「どうした?」
「……実はもう、犯人の目星はついてるんです」
「は?」
そこで俺は、一連の騒動のすべて、そして昨日セシリア嬢から聞いたばかりの話まで、その一部始終をひと息に説明した。他人の家の恥ずべき内部事情を勝手に話すことには抵抗もあったが、ラーシュ先輩は信用に値する人だ。セシリア嬢の立場が悪くなるようなことはしないだろうという、圧倒的な信頼感すらあった。
すべてを説明し終えると、ラーシュ先輩は思案顔になってしばらく考え込む。
そして。
「ブランド。その話、俺に一旦預けてくれないか?」
突拍子もない意外な申し出に、俺は正直言って面食らう。
「は? 急に何言ってるんですか?」
「いや、多分、俺なら力になれると思う」
「え?」
「まあ、俺なら、というか、俺の家なら、という意味だが」
「家? ファレル公爵家が? なんで」
「ファレル公爵家は、お前に借りがあるんだ。というか、お前には感謝しかない」
「は?」
ラーシュ先輩の言ってることがまったくもってわからない。ファレル公爵家が俺に感謝? なんで? 俺、何かしたっけ?
慌てる俺を横目に見ながら、ラーシュ先輩は可笑しそうに話し出す。
「実はさ、お前が義姉上の話を聞きに来た日があっただろ?」
「あー、はい。その節はお世話になりました」
「あのとき、義姉上がどんな話をするのか気になった兄上が、仕事を早めに切り上げて帰ってきてたらしいんだよ。それで、義姉上の話を隠れて聞いていたみたいで」
「え、盗み聞きですか?」
「まあな。しかも、義姉上の話の後半部分を聞いたらしいんだよな」
「後半部分って、確か……」
「兄上が男爵令嬢に夢中になって、でも姉上との婚約解消はなされずに、その後謝罪を繰り返したというやらかした部分だな」
「居たたまれないっすね……」
「まあ、事実だから仕方ないさ。で、最後に義姉上が『100%許したわけではない』って言ったの覚えてるか? 一度でも裏切った事実はなくならないし、いつかまた裏切られると思ってしまうってさ」
「ああ、はい」
あのときのレジーナ様の、どこか冷めたような諦観のまなざしを思い出す。傷つきながらも現状を受け入れ、スティーグ様の誠意に応えようとする気概は健気ですらあった。スティーグ様が男爵令嬢に抱いていたような激しい恋情を自分に向けてくれることはなくても、それでも共に生きていこうとする決意は深い愛情以外の何物でもないと、今なら俺でもわかる。
「あれを聞いてさ、兄上がショックを受けてしまって」
「ショック?」
「いや、ショックなんてもんじゃないな。まあ、激昂? 暴走?」
「は? なんすか、それ」
「そもそもさ、兄上が義姉上に対して激しい恋情を抱いていないっていう義姉上の認識が間違ってたんだよな」
「はあ」
「兄上にしてみれば、男爵令嬢に抱いていた感情なんかただの子どもの恋愛ごっこだったとか言ってて」
「恋愛ごっこ?」
「改めて義姉上と向き合うようになって、義姉上の素晴らしさを痛感して、もう絶対に手放したくないと思ったらしいんだよな。それからは、婚約中はもちろん結婚してからも自分の想いを義姉上に伝えてきたつもりだったのに、それがまったく伝わっていなかったとわかって」
「ああ、それは、そうですね」
確かに、まったく伝わっていなかったと思う。
レジーナ様の中で、スティーグ様が真に愛していたのはあの男爵令嬢だったという記憶が揺らぐことはなかったはずだ。男爵令嬢こそが自分にとっての唯一であり、彼女さえいてくれればあとは何もいらないと叫んだスティーグ様の姿こそが真実だと今でもずっと信じている。その思いは上書きも更新もされず、そのまま維持されてきたのだから。
「自分の想いが、まあもっとはっきり言えば激しい恋情や劣情が、義姉上にまったく伝わっていなかったと知った兄上はお前が帰ったあと義姉上を無言で連れ去った」
「は? どこにですか?」
「夫婦の寝室だよ」
「え」
「それから兄上は、翌日の昼過ぎまで出てこなかった」
「えー……」
ラーシュ先輩のなんとも言えない顔が、気まずそうに、恥ずかしそうに、ほんのりと赤みを差す。
「……すみません、生々しすぎてちょっとコメントしづらいです」
「だよな。すまん。俺もちょっと、どういう顔していいかわからない」
とかなんとか言いながら、それでもラーシュ先輩は「義姉上が部屋から出てきたのはさらにその翌日の朝だったけどな」なんて爆弾を平気で落とす。
「まあそういうわけで、二人はお互いの誤解を解いて、というか認識を改めて、正真正銘心から愛し合う夫婦になったわけなんだけど」
「はい」
「それからしばらくして、義姉上の妊娠がわかったんだ」
「え?」
おっと。それは。なんというか、まあ。
「あ、おめでとうございます」
「ありがとう。ほんと、お前のおかげだ」
「は? なんで?」
「兄上と義姉上は結婚してすでに数年がたつんだけど、一向に子どもができる気配がなくてな。こればっかりは授かりものだからどうにもならないとはいえ、早く跡継ぎをと急かす両親と焦る兄夫婦との間の関係もちょっとぎくしゃくしててさ」
「はあ」
「そんなところにお前がやってきたことで七年前からの誤解が解けて、兄夫婦は、というか兄上は義姉上を離さなくなったし仲睦まじさにも拍車がかかった。そしてついに、義姉上が懐妊した。これがお前のおかげでなくて、誰のおかげだって言うんだよ」
いや、それは、確実に俺のおかげではない。たまたま、きっかけとして俺という存在の影響はあったかもしれないが、子どもが授かったのはお二人のがんばりとタイミングとか、そういうもろもろの要因がうまいことかみ合ったおかげでは。
でも嬉々として話すラーシュ先輩に水を差すことはできず、俺は「まあ、そうですかね」なんて適当に相槌を打つ。
「そういうわけで、ファレル公爵家はお前に多大なる感謝の念を抱いている。なんなら救世主だとさえ思っている」
「きゅ、救世主……?」
「特に義姉上に至っては、夏休みにでももう一度お前を呼んで直接お礼が言いたいなんて話しててさ」
「え、そこまで……?」
「だからさっきの件、兄夫婦にも話してみようと思うんだ」
「あ」
ファレル公爵家の話に気を取られ、すっかり本題を忘れていた俺はやけに自信たっぷりなラーシュ先輩の顔をじっと見つめる。
「……いいんですか?」
「ああ。兄夫婦なら、きっと何かいい案を考えつくんじゃないかと思うんだ。なんせ兄上は王宮で司法関係の文官をしているし、義姉上の実家は『知略のマゴール家』だしさ。とにかくファレル公爵家は全面的にお前の味方だからな。悪いようにはしないし、安心して任せてくれ」
◇◆◇◆◇
そうして、学期最終日。
授業が終わり、ヴェイセルと教養科の校舎へ向かおうとしてたところへラーシュ先輩が駆け込んできた。
「ファレル公爵家でお茶会を開くぞ」
「は?」
先輩はにんまりと顔をほころばせ、ファレル公爵家での話し合いの結果と導き出された打開策について報告する。
「表向きは、兄夫婦が懇意にしている、またはこれから親しくなりたい貴族家の令嬢令息を招いてのお茶会だ。そこに今回の騒動の関係者全員を招待する」
「は、はい」
「お前が婚約者殿をエスコートしてお茶会に現れれば、恐らく犯人はその姿を見て逆上するだろう。そしてきっと、短絡的に婚約者殿に対して再び何らかの暴挙に出る。そこを現行犯で取り押さえる。公爵家のお茶会で騒ぎを起こしたら、ただじゃ済まないだろ? それを契機に学園での悪事についても追及し、糾弾する」
「……え、罠にかけるんですか? しかもルディをおとりにして?」
つい突っかかるような言い方になると、先輩は「そうだよ」と言いながらも挑むような笑みを浮かべる。
「なんとかしたいんだろ?」
「それは、まあ、そうですけど……」
「じゃあ、婚約者殿ともよく話し合ってみるといい。でも当日は公爵家全体が何か起きてもすぐに動けるよう目を光らせているし、どうせお前がすぐそばにいるんだから守り切れるだろ?」
ラーシュ先輩のからりとした口調は、むしろ俺自身への信頼と期待の表れだった。
俺だって、絶対にルディを守り切れる自信がある。目の前でルディが傷つけられそうになっても、絶対に阻止する。阻止してみせる。
そして俺がどんなに反対したところで、この企みを話したらルディはきっと、自ら進んでおとりになろうとするだろう。そんなことは、とっくにわかりきっていた。
「……では、ファレル公爵家の胸をお借りします。よろしくお願いします」
俺が頭を下げると、ラーシュ先輩の張りのある声が「これで断罪劇の舞台が整ったな」と意味深に笑った。
次回はまたルディス視点に戻ります。




